ソルフェリーーノの思い出

2024年08月22日 07時54分48秒 | その気になる言葉

ソルフェリーノの思い出』(ソルフェリーノのおもいで、フランス語Un souvenir de Solférino)は、赤十字国際委員会創設の契機となった、スイス慈善活動家アンリ・デュナンの著作。

日本語では『ソルフェリーノの記念』と称されることもある[1]

オリジナル版『ソルフェリーノの思い出』の表紙(1862).
原稿の第1ページ

歴史的背

1859年6月、商用で旅行中であったアンリ・デュナンは、ソルフェリーノというイタリアの町の近くで、サルデーニャ王国フランス帝国(第二帝政)の連合軍が、オーストリア帝国軍と戦ったソルフェリーノの戦いに遭遇した。戦闘が終わった直後に戦場を横切ったデュナンは、戦死体が散乱する中に、負傷者が倒れたまま、誰にも助けられないまま放置されている、という惨状に深い衝撃を受け、負傷者の救護にも加わった

デュナンは、この経験を『ソルフェリーノの思い出』と題する著書にまとめた

戦いについて経験したことを長大な文章で描写したこの本で、デュナンは、

を提言した

デュナンは、この本を1862年に自費出版し、ヨーロッパ各国の主だった政治家や軍人たちに贈った。その後、数年のうちに、この本は11カ国語に翻訳された。

その後

『ソルフェリーノの思い出』を契機として、1863年に負傷兵救済国際委員会(5人委員会)が組織され、1876年にはこれが赤十字国際委員会へと発展した

1864年には、デュナンの著書で提言された内容に沿う形で、「傷病者の状態改善に関する第1回赤十字条約」(1864年8月22日ジュネーヴ条約)が締結された。

日本語への翻訳

[編集]

『ソルフェリーノの思い出』の最初の日本語での翻訳出版は、1894年の『朔爾弗里諾之紀念』で、訳者は桃源仙史(本名:寺家村和助)であった

第二次世界大戦後に普及したのは、木内利三郎による日本語への翻訳『ソルフェリーノの思い出』であり、1948年白水社から出版され、その後、日赤出版普及会日本障害者リハビリテーション協会と出版元が変わりながら、長く出版が継続された

赤十字誕生のきっかけ【ソルフェリーノの思い出・初版】

1859年6月24日朝、北イタリアのソルフェリーノの地でフランス・サルジニア連合軍とオーストリア軍が激突。同日の夕刻には、4万人の死傷者が戦場を埋め尽くしました。近くの町カスティリオーネを訪れていたスイスの実業家アンリー・デュナンは、住民らとともに救護に当たります。
負傷者を運び、水を飲ませ、麻酔無しの手足切断に泣き叫ぶ兵士を押さえるなど、不眠不休の活動でした。
その後、デュナンは長い間、無力感にさいなまれますが、1862年に渾身の1冊を書き上げます。
「ソルフェリーノの思い出」です。
この本で「篤志家たちの手で、戦争の時に敵味方の区別なく負傷兵を看護する救護団体を、平和で穏やかな時代に組織しておく方法がないものか」と訴えました。
初版1600部はデュナンが自費出版し、ヨーロッパの地位のある人々に献本しました。このうちの1冊を赤十字情報プラザで展示しています。
  • アンリー・デュナン

「戦場での負傷者を介護する救済組織を平時から組織できないか」

「負傷者を保護する国際的な取り決めはできないものか」とアンリー・デュナンは提案した。

前者は赤十字国際委員会の創設に、後者はジュネーブ条約の締結につながった。

ジュネーブ原条約は、陸戦負傷病兵のみが保護対象だったが、その後、海戦負傷病兵、捕虜、一般文民や民用物へと対象を拡大。

現在はジュネーブ諸条約追加議定書(2005年発効)として国際人道法の重要な原則となっている。

しかしながら世界の紛争地域で病院や学校などへの攻撃はやまず、文民が犠牲をなる悲劇が繰り返されている。

「人間は歴史から学ばない」ヘーゲル

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、ドイツの哲学者である。

ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、フリードリヒ・シェリングと並んで、ドイツ観念論を代表する思想家である。

18世紀後半から19世紀初頭の時代を生き、領邦分立の状態からナポレオンの侵攻を受けてドイツ統一へと向かい始める転換期を歩んだ。

人間は歴史から何を学ぶべきか?

民間人―子どもたちを戦禍から守る規範の強化が急がれる。

 

 

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