創作 「桜坂」5

2024年08月13日 23時31分57秒 | 創作欄

北村清治は、母の梅子と、妹の春子と銭湯に行っていた。

そして、その日は桜坂で同級生の青木幹子の母親と出会ったのである。

清治は子ども心にも、その人の深く俯いたままの、如何にもみすぼらし姿に哀れみの感情さえ抱いた。

「青木さん、お元気なの」母の登紀子が相手の人に声をかけると、その人は驚いたように俯いた顔をあげた。

「ああ、北村さん、こんにちわ」

「ご主人は、その後、どうなのですか」

「明後日、新潟の舞鶴へ行く予定なの。今度の船で夫がシベリアから帰還すればと思って・・・」相手は目を潤ませる。

「大変ね。ご主人のことは、何時も祈っています」

「あいりがとう」と言った相手は逃げるように桜坂の反対方面へ立ち去る。

実は母の登紀子が、1年前から女学校の恩師に勧められ、仏教系の宗教の信仰を初めていたのだ。

そして、同級生の青木幹子の母親にも信仰を勧めていたのであるが、聞く耳をもたない相手は靖国神社へ足を向け熱心に神道を信奉していた。

 

参考

シベリア抑留(シベリアよくりゅう、英:The internment in Siberia)は、第二次世界大戦終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜民間人らが、ソビエト連邦(ソ連)によってシベリア、カザフ、キルギス、ウズベクなどソ連各地、モンゴル人民共和国モンゴル抑留)などソ連の衛星国労働力として連行され、長期にわたる抑留生活、厳寒・飢え・感染症の蔓延る過酷な強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する総称である。

男性の被害者が多いが女性も抑留されている

ソ連対日参戦によってソ連軍に占領された満洲朝鮮半島北部、南樺太千島列島などの地域で抑留された日本人は約57万5千人に上る

厳寒環境下で満足な食事も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約5万8千人死亡した

このうち氏名など個人が特定された数は2019年12月時点で4万1362。

これは全抑留者の約1割で、これは日本国内に連行されてきた連合軍捕虜の死亡率とほぼ同程度という。

ただし、この死者の多くが初年目の冬に集中している。

2年目からは待遇が改善されて、死亡率は大幅に減っている。

抑留者には十分な食料が与えられず、スプーンなどの食器も自分たちで作らなければなりませんでした。

わずかな黒パンやスープを仲間と分け合いましたが、日に日に痩せ細り、栄養失調に陥りました。こうした日常的な飢えと寒さにより、1年目の冬を越せずに亡くなる抑留者も多くいました。

シベリア抑留の背景

ソ連による旧敵国側の軍人と民間人の抑留は、戦争により大きな人的被害と物的損害を被ったソ連における、戦後復興を担う労働力不足を補うための措置として、同じ敗戦国であるドイツ等に対しても行われました。

シベリア抑留は、そうしたソ連のヨーロッパ人に対する抑留政策と同様な意味をもっていました。

占領下での外交権の制限に加え、主権回復後も昭和31年(1956)までソ連と国交を回復できなかったことが、引き揚げを困難にした要因でした。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモによれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという

このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反するものであるとして、日本側関係者からは批判される。

ソ連の継承国であるロシア連邦エリツィン大統領1993年平成5年)10月に訪日した際、「非人間的な行為」として謝罪の意を表した

ただし、ロシア側は、移送した日本軍将兵は戦闘継続中に合法的に拘束した「捕虜」であり、戦争終結後に不当に留め置いた「抑留者」には該当しないとしている

シベリア抑留者の集団帰国は1956年に終了し、ソ連政府は1958年12月に「日本人の送還問題は既に完了したと考えている」と発言した

だがソ連占領下の南樺太で逮捕されるなどしてソ連崩壊後まで帰国が許されなかった民間人もおり、ソ連政府は日本政府による安否確認や帰国の意向調査を妨害し続けた

「シベリア抑留」という用語が使われるようになったのは、1979年の「全国抑留者補償協議会」発足の時だとされる

重労働 ー抑留中の生活ー

抑留者は氷点下を下回る環境の中、森林の伐採や炭鉱の採掘、鉄道の建設といった重労働に強制的に従事させられました。食料事情や衛生状況も劣悪で、身体中にノミやシラミが湧き、赤痢やコレラといった伝染病が発症し、5万5000人を超える多くの犠牲者が出ました。

ただし、重労働ではない役務を課した収容所もあり、ソ連国民との交流が芽生えた例もありました。

 抑留者はソ連全土の1200か所のラーゲリに送り込まれており、ラーゲリはシベリアだけでなく、カザフスタン、ウズベキスタンなど中央アジア、さらにヨーロッパに区分されるウラル山脈の西にもあった。短期間に60万人もの人を割り振るのは簡単ではなく、抑留計画は対日参戦のかなり前から計画されていた可能性が高い。

ソ連は形ばかりの審理で抑留者の一部を戦争犯罪人とし、強制労働という刑罰を科しているという理屈をつけて抑留を続けた。

昭和25年(1950年)には、ソ連側が「戦犯関係で調査中の者などを除いて、昨年で捕虜の送還は完了した」と一方的に発表する。日本は国際連合に実態調査を求めるが、同じ年に朝鮮戦争が勃発すると、抑留者の問題は脇に追いやられてしまう。サンフランシスコ講和条約に反対したソ連は、日本の独立後も国連加盟に拒否権を発動するなど厳しい対日姿勢を崩さなかった。

昭和28年(1953年)には朝鮮戦争が休戦となり、抑留を命じたスターリンが死去した。

止まっていた引き揚げも日ソの赤十字社によって再開されたが、戦犯とされた抑留者の「総ざらい引き揚げ」は実現しなかった。

昭和30年(1955年)には日ソ国交正常化交渉が始まり、日本側は抑留者の早期帰還を求めたが、その交渉も暗礁に乗り上げてしまう。ソ連側が「残っている抑留者はすべて戦犯で、特赦を受けないと出国できない。特赦の決定には平和条約の締結が必要だ」と主張した(『戦後強制抑留史』)からだ。

 

 

 

 

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我慢は自分を磨いていく

2024年08月13日 10時55分15秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼核兵器の廃絶へ、人々の心に「平和の砦」を築く対話が重要だ。

若人の信念の声、生命尊厳の思想を時代精神に!

▼勝つとは、深き祈りと、人の三倍 努力することだ。

▼争いのない世界を築くため、一緒に何ができるかを考えるのである。

▼平和は決して与えられるものではない。

自らの意志で、自らの手で、額に汗をし、語り、動き、岩盤をこぶしで砕く思いで、勝ち取るものだ。

▼資本主義が今後も成功していくには、人間は<消費者>としてではなく<建設者>として生きよ!—米国の経済学者レスター・サロー

·『ゼロ・サム社会』や『知識資本主義』などの著書で経済格差の深刻さを警告した米国の経済学者レスター・サロー・マサチューセッツ工科大学(MIT)教授。

▼すべての人が、なんらかの悩みを抱えているものだ。

いっさいに恵まれた人間などいない。

そこで、果敢に挑戦し、人生に勝っていくことだ。

これからどうなるかではなく、自分がどうするかである。

いかなる状況下にあっても、誰よりも力強く、誰よりも明るく、誰よりも清らかに生き抜き、自分は最高位のに幸福であると言い切る人生を送ることが、あなたの使命だ。

▼自分の目標が明確であり、そこに向かって、全力で突き進んでいる人には勢いがある。

ただ漫然と進んでいるのでは勢いは出ない。

結局は惰性化してしまう。

一日一日、目標への懸命な歩みを続けずして、青春の勝利も、人生の勝利もない。

▼わがままや甘えは、自分をだめにする。

しかし、我慢は自分を磨いていく。

その経験が、将来の大事な精神の財産となる。

 

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悲観する必要はない

2024年08月13日 10時27分14秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼失敗する人の多くは、諦めた時にどれほど成功に近づいていたかに気づかない―エジソン

失敗や敗北の陰には、しばしば成功や勝利が隠れているのである。

エジソンのように、困難や敗北をプラスに転じる者こそがそれを手にできる。

トーマス・アルバ・エジソンは、アメリカ合衆国の発明家、起業家。

スポンサーのJPモルガン、秘書のサミュエル・インサル、そしてメロン財閥とアメリカの電力系統を寡占した。

Life誌が1999年に発表した「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」において第1位に選出されている。 

▼人生は戦いである。

幸福になるための戦いだ。

▼<常勝>とは、逆境に打ち勝ち続ける者に与えられる栄冠だ。

▼変化の大きい時代の中、国内外で困難な問題が山積している。

しかし、悲観する必要はない。

今、必要なのは、青年たちに挑戦と変革の機会を与えるとともに、その清新な熱と力を応援することを社会全体の<当たり前>にしていくことだ。

それこそが、次の時代を開くカギとなるに違いない。

▼人間を進化させるために必要なものはなにか。

それは<困難>である。

<生命は厳しい逆境との苦闘を勝ち越える中でこそ、創造的に成長し発展する>ロバート・ジャストロウ・NASA宇宙調査研究所長

 

 

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創作 「桜坂」4

2024年08月13日 06時03分51秒 | 創作欄

大島孝雄は、外語大学でロシア文学を学んでいた。

彼が信奉したのは、ドストエフスキーの文学であり、特に「罪と罰」に深く心を思い入れた。

また、ドストエフスキーがシベリア流刑されことが、自分のシベリア抑留者としての過酷さと重なった。

彼がロシア語が話せたことが抑留者として僅かながら優遇されることにもなる。

彼は、同棲した金井ヤスに対して、シベリア抑留者としての立場を明らかにすることはなかった。

そして「生まれてくる子には、罪はないからね」とヤスを諭したのである。

大島は、戦前は産経新聞の記者であったが、徴兵され関東軍の兵士となる。

彼にとって、大きな悲劇は東京・両国に住んでいた妻子が、父母と共に東京大空襲禍で亡くなっていたことだった。

彼は蒲田の居酒屋で、妻子や父母を深く偲びながら酒を飲んでいた。

そんな日々に、出会ったのが居酒屋で働く17歳の金井ヤスだった。

彼が絶望に堕ちらなかったのは、言うまでもなく人の情愛であった。

日本に帰還して、先輩の招きで東京お茶の水の出版社に職を得ることもできた。

 

参考ドストエフスキー死の体験と流刑

ミハイル・ペトラシェフスキーが主宰する空想的社会主義サークルのサークル員となったため、1849年に官憲に逮捕される。

死刑判決を受けるも、銃殺刑執行直前に皇帝ニコライ1世からの特赦が与えられて(この一連の特赦は全て仕組まれたものであった)、シベリア流刑へ減刑となり、オムスク1854年まで服役する。

この時の体験に基づいて後に『死の家の記録』を著す。

他にも『白痴』などで、死刑直前の囚人の気持ちが語られるなど、この事件は以後の作風に多大な影響を与えた。

刑期終了後、セミパラチンスクにおいて兵士として軍隊で勤務した後、1858年にペテルブルクに帰還する

この間に理想主義者的な社会主義者からキリスト教人道主義者へと思想的変化があった。

その後『罪と罰』を発表し、評価が高まる。

ドストエフスキーは、ソルジェニーツィンチェーホフニーチェサルトルウィトゲンシュタインアインシュタイン、日本人では、黒澤明湯川秀樹小林秀雄大江健三郎村上春樹三島由紀夫埴谷雄高などの多くの人物に影響を与えた。

 

『罪と罰』は、ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーの長編小説。

ドストエフスキーの代表作であり、世界的な長編小説の一つしても挙げられる名作である。

「現代の預言書」とも呼ばれ、ドストエフスキーの実存主義的な考え方を垣間見ることができる。

1866年に雑誌『ロシア報知』に連載。

 

 

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創作 「桜坂」3

2024年08月13日 04時25分11秒 | 創作欄

実は、米軍兵士のジープで拉致されたのは、日本の女性ではなく、清治の同級生で朝鮮人の白川ジュンの従姉の金井ヤスであったのだ。

ヤスは当時、蒲田の居酒屋で働いて、その日は桜坂上の商店街の一角にある銭湯へ行くところであった。

清治が住む長屋の寮には風呂がなかったので彼もその銭湯へ行っていた。

米兵二人に拉致され強姦されたことを伝え聞いたある老人は、「朝鮮の女のために死んだ水島勝治巡査は、まさに犬死にだな」と冷笑したそうだ。

<実に皮肉な結果>と老人の一人は受け止めたのだろう。

そして、清治の祖父は「お前、いいか中学生になったら、絶対に英語など勉強するな。鬼畜米兵だからな!」と怒りを露わにするのだ。

さらに、悲劇であったのは、強姦されたヤスが妊娠したのである。

それなのに、女心は理解し難いもので、堕胎を拒みヤスは憎いはずの米兵の子を産んだのだ。

ヤスは田園調布本町の片隅の朝鮮部落を出て、蒲田のアパートに移り住む。

そして、居酒屋で出会った客の一人の35歳の大島孝雄と同棲する。

その大島は元は関東軍の兵士の一人で、シベリアの抑留から解放され昭和25年、日本に帰還していた。

生き地獄を体験した大島は、強姦された挙句の果てに妊娠という生き地獄のヤスさえ、受け入れたのである。

 

 

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創作 「桜坂」2

2024年08月13日 01時56分11秒 | 創作欄

桜坂には、とても悲しい思い出もあった。

その桜坂の道沿いには、巡査の家族が住む派出所があった。

それは、昭和年25年の春の事であり、北村清治の子ども心をに深い影を落としたのだ。

ある日、米軍兵士がジープで通りかかり、道端に居た子どもたちにチョコレートを配るのである。

そのジープは多摩川方面からやってきた。

清治たちは、生まれて初めて口にするチョコレートの甘い味とその何とも言えない不思議な香りに目を丸くするばかりであった。

それから、子どもたちは、米軍兵士のジープが來るを心待ちにしていた。

だが、心外にもそのジープによって、日本の若い女性が拉致されたのだ。

女性の甲高い悲鳴に子どもたちは唖然とする。

ところが、二人の米兵に女性が拉致されことを目撃した派出所の巡査が、ジープの前に身を挺して立ち塞がる。

それは一瞬の出来事であり、巡査は大きく跳ね飛ばされ桜坂の路上に激突する。

うつ伏せとなった巡査は、みるみる流れる血に染まっていゆく。

元は憲兵隊員であった水島勝治巡査は気の毒にも即死であった。

子どもたちは皆、ただただ茫然とするばかりであり、何とも気の毒に巡査は北村清治の東調布小学校の同級生の水島聖子の父親だった。

 

 

 

 

 

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