現在は28歳で、教師の身である晃の過去は、決して人からも、身内の者から褒められる立場ではなかったのである。
晃は、大学生の身でありながら、新宿歌舞伎町のバー「園」のホステであるナナと深い関係となる。
だが、それは女の色仕掛けだったのだ。
その後、如何にもヤクザな男が、晃の中野中央のアパートに乗り込んで来たのである。
その日もナナが部屋に泊まっていたので、晃は逃げることが出来なかった。
「俺の女を抱いたんな!許さねいぞ!」男は長身ではないが体格がよく、角刈りで眼光が鋭い。
上下黒のスーツ姿だった。
男は肩をいからせ、黒の革靴を投げ玄関で捨て、部屋に上がり込んできた。
「はめられたな」晃は覚悟しながら、自らの安易に苦笑を漏らす。
「このやろう、薄ら笑いで、すまねいぞ!」相手は晃の胸を拳で突く。
「あんた、私が悪いの。この人を許して」
ナナの演技なのだろう男の前に立ちはだかる。
「お前は引っ込んでいろ」男はナナの頬を平手打ちする。
「こうなった以上、どうすればいいのですか」晃は開き直る。
「お前を殺してやりたいが、俺は刑務所には2度と行かねい!金だな200万円で勘弁してやるよ」男は頬を緩めて言うのだ。
「200万円!。そんな金ありません」
「金なければ、サラ金でも何でも都合をつけろ!いいな。絶対だぞ」有無も言わせない態度だった。
さらに、懐のジャックナイフを取り出して、晃の頬に刃の腹を寄せるのである。
「分かりました。何とかします」晃は相手の要求を飲むほかなかった。
こうなったら金で解決するしかない。
思い余った晃は、甲府の実家に電話をする。
そして、母の絹子に理由を話して200万円を借りることにしたのである。
「お前、大学生なのに、バカなことをしてくれたね」母は当然、呆れかえっていた。
母親は、甲府市内の住宅街で小児科医院を営んでいた。
その母親の期待に逆らって晃は、医学ではなく文学部へ進学していた。
そして、あろうことか晃は、やけ酒を飲み、甲府へ行く金を失う。
「仕方ないね。私が、お金を持って新宿まで行くからね」母の声は何故か優しかった。
新宿駅の東口の改札口で母親と会う約束であった。
だが、午後2時の約束に30分も遅れてしまう。
「待つ身が辛いか?」
「待たせる身が辛いか?」
それが、21歳の晃のあまりにも辛い心情であった。
皮肉なことに、晃の腕時計が止まっていたのだ。
中野駅の時計を見て、晃は慌てふためいた。
晃を待つていた母親は、駅構内を気の毒にもうろうろしていたのだ。
男は、ナナに200万円を渡すようによにと晃に指示をしていた。
ナナに電話すると待ち合わせ場所は喫茶の西武であった。
その店の個室で会うこととなる。
先に待っていたナナは、晃が1人でなかったことに驚き、大きく目を見張る。
そして、気まずい思いであったのだろう、「ごめんんさいね。本当にご迷惑をおかけして」ナナは低姿勢となり頭を垂れる。
「私は、晃の母です。よろしくね」晃の母親も恐縮していた。
「お母さん、私が全部悪かったのです。申し訳ありません」ナナは、如何にもしおらしい顔だった。
何故かナナはこの日は、何時ものような厚化粧ではなかった。
それにアップの髪型でなく、長い髪を垂らしていたのだ。
「本当に、ご迷惑をおかけして、私はお先に失礼します」晃の母親から200万円入りの紙袋を受け取ったナナは中身を確認しなかった。
ナナはその場から退散するように、立ち去って行くのだ。
「晃、あの子は、そんなに悪い女には見えないね。可愛い顔をしていたしね」母はケーキを注文して食べる。
「晃、お願いがあるの。私と同じく信心をしてね。そろそろ、お前は信心で立ち上がる時期よ。21歳になったしね。来年は大学卒業よ」母親は、涙を浮かべて懇願するのだ。
晃は何度も溜息をつく。
2杯目のコーヒーを飲む。
そして、「分かったよ」と晃は観念するのだ。
「良かった。お母さんが長年願ったことが、ようやく叶ったのね」母親は涙に重ねて笑みを浮かべる。
晃は、まさか自分自身が仏教系の宗教団体の信者になろうとは、夢にも思わなかったことだった。
そして、入信した晃は、同期生の福子を地元中野の地区の座談会に誘ったのである。