朱子学の欠点

2024年08月11日 14時40分08秒 | 社会・文化・政治・経済

朱子学とは、南宋の朱熹によって構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学・程朱学派と呼ばれる。

また、聖人の道統の継承を標榜する学派であることから、道学とも呼ばれる。

朱子学の基本の考え方は、「理気二元論(りきにげんろん)」です。

「理」は、万物がこの世に存在する根拠のことで、「気」は万物を構成する物質です。それぞれ別のものですが、単独では存在し得ず、互いに作用し合う関係にあるとしています。

理気二元論を人間に当てはめると、「性即理(せいそくり)」になります。

「性」とは人間の本質で静かな状態、すなわち「理」です。性が動くと「情(気)」となり、情のバランスが崩れると「欲(悪)」になるとしています。

このため、人は常に情をコントロールして、性に戻さなければなりません。

また、朱熹は理気二元論から、すべての物事には、上下関係があると導き出しました。上下関係は当然、人間社会にも存在します。

自分よりも身分が上の人や父親の言うことは絶対、とする「君臣父子(くんしんふし)の別」を重んじているのが、朱子学の特徴です。

朱子学の欠点

朱子学は、後に、国家の公認学問として「科挙(かきょ、官僚登用試験)」に採用されたことから、広く学ばれるようになります。

しかし、科挙に合格すれば、将来が安泰ということもあり、受験のために朱子学を学ぶ風潮が根付きます。さらに受験にはお金がかかるため、一部の恵まれた人しか挑戦できませんでした。

このため、朱子学は、経済力と成績によって人生が決まる、学歴社会・官僚社会を生み出す一因となったといわれています。

また、朱子学が重んじた「君臣父子の別」は、上に立つ者にとって、都合のよい考え方でした。

中国では、さまざまな思想や学説が許されており、社会の発展に貢献してきましたが、朱子学が広まったことで、他の学問が排斥(はいせき)され、思想統制の時代に変わっていったのです。

日本や朝鮮でも、朱子学を人民の支配に利用しはじめました。特に、朝鮮では朱子学以外の学問を一切認めず、朱子学者による身分階層が作られたほどです。

朱子学と日本の関係

朱子学は、いつごろ日本に伝わり、どのような影響をもたらしたのでしょうか。朱子学と日本との関係を見ていきましょう。

日本に伝わったのは、いつ?

朱子学は、鎌倉時代前期に宋に渡った禅僧「俊芿(しゅんじょう)」が伝えたといわれています。鎌倉時代後半には、広く学ばれるようになり、鎌倉幕府倒幕に動いた後醍醐(ごだいご)天皇にも影響を与えました。

室町時代にも、禅僧による朱子学の研究は続けられ、さまざまな学派が生まれます。

江戸幕府を開いた徳川家康は、幕藩体制の基本理念として、朱子学を採用しました。朱子学者「林羅山(はやしらざん)」を登用し、家臣や大名に広く学ばせたのです。

どのような影響を与えた?

徳川家康以降、歴代の将軍や老中(ろうじゅう)たちも、社会秩序を維持するために、朱子学を奨励します。例えば、5代将軍・徳川綱吉は、朱子学を学ぶ場として「湯島聖堂(ゆしませいどう)」を建設しました。

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創作 「桜坂」1)

2024年08月11日 11時36分08秒 | 創作欄

東京・大田区田園調布本町の桜坂は北村清治の思い出の場所である。

当時、小学生4年生の彼は、多摩川でよく近隣の子どもたちと遊んでいた。

その帰りに東急多摩川線の沼部駅の線路沿いあった「朝鮮部落」(通称)に足を踏み入れてみた。

劣悪な環境の中、手製のバラック小屋に住民たちは身を寄せていた。

屋根はトタンであであり、ほとんどカラス窓などなかった。

便所は粗末な小屋の一部に設置され、悪臭を放っていた。

豚や鶏、ヤギなどを飼っている住民もいいて、それらが雑多に悪臭の中に入り混じる。

その一角には清治の同級生の白川ジュンの小屋もあった。

ジュンの口からは、清治が食べてことのないニンニクの臭いがする。

そのことで、「お前、あっちへ行け!」と清治は邪見にした。

「せいちゃん、ジュンちゃをイジメてはダメよ!」白川園子が、心外にもジュンをかばうのである。

「なぜ、朝鮮人のジュンと園子の苗字が同じなんだ」清治はそんなことを不思議に思うであった。

中学生となった園子は私立の中高一貫の女子学生となっていた。

彼女の父親は医科大学付属病院の外科医であった。

また、母親は薬剤師だった。

その後、朝鮮部落は撤収されていた。

美しく成長した14歳の園子と桜坂で出会った時「せいちゃ、いい子になったの?」と笑顔の彼女は揶揄するのだ。

「この本を読んで、せいちゃんは、いい子になりさい」5年生の時にアンデルセンの童話を園子から渡された記憶が蘇る。

さらに、園子の母親を授業参観の日に見たことも思い出された。

「なんて、綺麗なお母さんなんだ」清治は子ども心にも見惚れたのだ。

それに比べて「俺のかんちゃんは、ダサいな」と彼は自身の母親と見比べては卑下する。

高校生になった清治は大田区から世田谷に移転していた。

桜が咲く時節に小学校の同窓会があった。

だが、期待した園子との再会はなかった。

清治は、園子に似た近所の中学生の14歳の芦沢由紀に心を動かせていたが、言葉をかけられずにいた。

その彼女も1年後には、何処へ移転していた。

彼女の父親は、商社に勤務して転勤したと噂で知る。

大学となった清治は、いわゆる文学少女で17歳の野村晶子と交際していた。

その晶子を連れて、中学生以来、足を向くことがなかったあの桜坂に行ってみたのだ。

「あなたの、思いでの桜なのね」晶子は清治のカメラで桜坂に立つ彼の姿を写す。

「君を撮ろう」

「私はいいの」彼女は写真撮影に応じることはなかった。

晶子は自身の左頬のアザを気にかけていたようだった。

 

 

 

 

 

 

 

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写真が語る満州国

2024年08月11日 10時53分04秒 | 社会・文化・政治・経済

太平洋戦争研究会 (著)

 

躍進満州の野望と挫折

満州民族、漢民族、朝鮮民族、蒙古民族、日本民族が協力し争いのない平和な国づくりを目指した満州国。満州躍進の象徴となった特急「あじあ」号、日満親善のアイコンとなった満映の李香蘭、智謀・石原莞爾参謀が「世界最終戦争」のために引き起こした満州事変、清朝復活の執念にとらわれた皇帝溥儀、国策で満洲に渡った二七万人の満蒙開拓団……。五族協和の王道楽土を夢見た約一五五万人(軍人を除く)の在留邦人はどう暮らしたか。ソ連による満州侵攻、日本敗戦によって、彼らに何が起こったか。わずか一三年あまりで消えた実験国家の建国から崩壊まで貴重写真でひもとく。


【目次】 
序 章 日本の新帝国主義
日露戦争勝利の対価/国策会社・満鉄の誕生/東インド会社を手本にした満州経営/夏目漱石が見た満鉄付属地/第一次世界大戦と日本の青島攻略/満州永久独占「対華二十一カ条要求」/軍閥割拠の時代/満州駐屯軍「関東軍」の登場

第一章 満州永久支配
張作霖爆殺事件(満州某重大事件)/張学良の抗日政策/事変前夜の万宝山事件と中村大尉事件/満蒙領有の謀略開始/「事件」から「事変」へ/独立国家樹立「満蒙問題解決案」/愛新覚羅溥儀の天津脱出/軍閥四巨頭による満州独立宣言/政府要識を占める日系官吏/国際連盟脱退と熱河作戦

第二章 王道楽土の理想顕現
「五族協和」と「王道楽土」のスローガン/傀儡国家の根本理念/日本人が暮らした主要都市/満映の誕生と甘粕正彦/満映の一枚看板・李香蘭/満州のユダヤ人自治区/大戦勃発で頓挫したユダヤ人定住計画/七三一部隊が繰り返した人体実験/満州国のアヘン経済

第三章 満州産業開発五カ年計画
満鉄と関東軍の相克/産業開発計画という名の戦争準備/巨大コンツェルン「満業」設立/中国人出稼ぎ労働者の存在/強制連行で補った労働力

第四章 拓け満州の大沃野
武装した開拓移民団/先住農民を追い立てた入植事業/一〇〇万戸・五〇〇万人の農業移民計画/「右手に鍬、左手に銃」満蒙開拓青少年義勇軍/一〇〇万人送出を目指した「大陸の花嫁」

第五章 日満一徳一心
日満一体、皇帝溥儀の初来日/皇弟・溥傑の政略結婚/関東軍の満蒙完全支配/太平洋戦争と関東軍/日本の兵站基地・満州国/小銃もない「根こそぎ動員兵」

終 章 満州国の滅失
ソ連軍一七五万人の満州侵攻/全滅する満州東部国境の要塞/国境戦線各地の挺身肉弾戦/満州国皇帝の退位/ソ連軍による開拓団襲撃/六〇万人のシベリア抑留者

 

日本の現代史に大きな影を落とした満州国を知る上で、頼りになる一冊だ。

1945年の敗戦までに日本から膨大な人々が満州へ渡った。

近代建築が立ち並ぶ街並み。

「新興国」の勢いを象徴する特急「あじあ」号。

整然とした公園で憩う人々。

こうした写真の一方、敗戦による悲惨な末路を伝えるものも多い。

解説も充実し、読み応えがある。(栗)

特急「あじあ」号

陸の王者・特急「あじあ」号(撮影・満鉄、1939年)

写真と歴史叙述で語る新刊満州国史新書。

一年前に出た『写真が語る銃後の暮らし』に続く写真近現代史新書。
一、あれこれ
◯五章+序章+終章の全七章。日露戦争からシベリア強制連行まで。
◯叙述形式は、各章ごとに、写真(キャプション入り)頁があり、その後歴史叙述となる。写真は全部モノクロ。
◯写真頁と写真の分量はたとえば、(数え間違いご容赦)
☆序章日本の新帝国主義は、写真頁が16頁、歴史叙述は18頁。写真の数は27枚で、サイズは二分の一頁大のものが多い。
☆第一章満州永久支配は、写真頁が28頁、歴史叙述は20頁、写真は51枚。
☆第二章王道楽土の理想顕現は、写真頁が44頁、歴史叙述は20頁、写真は74枚。
以下略。
二、私的感想
◯上記のように、写真の非常に多い、有用な新書である。写真はほとんど全部が満州国で撮られたものだが、上海、東京、サイパンの写真なども少しだけ入っている。
◯歴史叙述は、満州国を、日本(または関東軍)の傀儡国家とする客観的な観点で展開され、通史として十分な内容で、よくまとまっていると思う。
◯で、貴重な出版と思う。
三、蛇足
◯満州の豊富な天然資源は日本の発展を約束するもので、満州は日本の死命を制する生命線という尊大な思い込みを、日本国民感情も共有していて、中国に多大な苦しみと被害をもたらし、最後は開拓団の惨劇に終わったのは、客観的にその通りだろう。
◯しかし、残存する写真中心の本であるゆえに、第二章などに並ぶ写真群を見ていると、約90年前の大陸に存在したモダン東京モダン日本ともいえるような風景光景に、ノスタルジアのようなものを掻き立てられてしまうのも、また事実である。
◯序文の次の文は味わい深い。「多くの日本人がそこで生活していただけに、満州国に関する歴史情報は個人的な感情や記憶に彩られながら、さまざまな形で発せられてきた。それはとても貴重ではあるが、本書では客観的に・・・」。
 

 

太平洋戦争研究会
タイヘイヨウセンソウケンキュウカイ

太平洋戦争研究会(たいへいようせんそうけんきゅうかい):近現代史に関する取材・執筆・編集するグループ。同会代表は、出版やドキュメンタリー番組に写真を貸出す近現代フォトライブラリー主宰の戦史研究家、平塚柾緒。著書・編著には、ちくま新書『写真が語る銃後の暮らし』のほか、ふくろうの本図説シリーズ『図説 山本五十六』『図説 太平洋戦争』『図説 東京裁判』(河出書房新社)や『日本海軍がよくわかる事典』『日本陸軍がよくわかる事典』(PHP文庫)、『面白いほどよくわかる太平洋戦争』『人物・事件でわかる太平洋戦争』(日本文芸社)、『カラー写真と地図でたどる 太平洋戦争 日本の軌跡』(SBビジュアル新書)、『証言 我ラ斯ク戦ヘリ』(ビジネス社)など多数。

 

参考

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安全に狂う方法

2024年08月11日 10時23分37秒 | 社会・文化・政治・経済

アディクションから摑みとったこと (シリーズ ケアをひらく) (シリーズケアをひらく) 

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人生の師

2024年08月11日 09時31分43秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

試練を前にした時、「人生の師」の存在を強く意識する。

人生の師をもつことは「生き方の規範」をもつことだ。

なかでも師弟が共に、人類の幸福と平和の大きな理想に生き抜く姿ほど、すばらし世界はない。

人間らしく輝くために、胸中の師とともに戦う日々である。

師弟は諦めない力であり、挑戦するなかで人間的な大きな成長もある。

無慈悲の影が社会を覆う現代において、人々の幸福のために「慈悲の人」として地域社会で信頼の実証を示し、それを体現するのである。

 

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共感型リーダー

2024年08月11日 09時18分15秒 | 社会・文化・政治・経済

 

 

まわりが自然と動く、何歳からでも身につく思考法 単行本 – 

まわりが自然と動く、何歳からでも身につく思考法 単行本 – 


出版社より

4041139333
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著者について
●岩田 松雄:株式会社リーダーシップコンサルティング代表取締役社長。
早稲田大学講師。1958年生まれ。大阪大学経済学部卒業。
日産自動車株式会社、外資系コンサルティング会社を経て、コカ・コーラビバレッジサービス株式会社役員。
株式会社タカラ常務取締役。
株式会社アトラス、ザボディショップジャパン株式会社、スターバックスコーヒージャパン株式会社のCEOを歴任し実績を上げる。元立教大学教授。ベストセラー『ミッション』(アスコム)など著書多数。
 
 

本文に出てくる一説です。
私はこの一文が、リーダーシップを表す表現としてすごくしっくりきました。
「共感型リーダー」といっても、サーバントリーダーシップにある”部下優先”のような発想ではなく、「人の話を黙って聞きましょう」といった単純なものでもありません。
自らMMV(ミッション・ビジョン・バリュー)を語り、本質の認識を一致させたうえで、行動は自由にさせるという、オーセンティックなリーダーシップを、「自分なりの言葉で」形作ることを重視しています。
実践しやすい心構えを学ぶことができると思います。
 
 

人とのコミュニケーションについて参考になる事がたくさん書いてあります。
実践してみようと思います。

 

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ミッションの重要性

2024年08月11日 08時50分33秒 | 社会・文化・政治・経済

▼一流のリーダーは皆、聴き上手です。

「話すことは半分にし、聞くことは2倍に」を心がけるようにしました。

大切なことは、まず相手に関心を持つ。

▼命令や規則ではなく、協働を重視し、心理的な安全性を確保しながら共に進む「共感型」のリーダーが求められています。

ゆえにリーダーには、謙虚さや気さくさ、ユーモアなど人間的な魅力も大切です。

さらの強調したいのは「私心の無さ」です。

▼どんな企業・団体にも必ず「何のために存在しているのか」という目的があります。

わたしはそれを「ミッション」と呼びます。

組織の隅々までミッション(ミッションは、会社が果たすべき使命や役割、そして存在意義を指す言葉です。企業にとっての使命や存在意義を言語化したものであり、社会に対して宣言されます)

が浸透しているところは強いです。

ミッションの浸透には、まずトップ(リーダー)が繰り返しミッションの重要性を語り、自ら率先垂範することです。

その際のキーワードは「当事者意識」です。

一人一人に自分の組織、自分の仕事という意識が強くあれば、より良くしようと自発的な行動が生まれます。

ミッションとは、いわば北極星のようなもの。

自分たちは何のために働き、何を目指すのか。

変化の激しい時代だからこそ、ぶれない道標が必要なのです。

リーダーシップ・コンサルティングの岩田松雄代表・社長

 

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民衆の幸福の確立が我々の使命

2024年08月11日 08時09分51秒 | 社会・文化・政治・経済

▼今まで私たちは物を売るためにマーケッティングを使ってきたが、今度は平和を創るためにマーケッティングを使うんだ。ビジネスこそ平和に対して貢献できるはずだ―米ケロッグ経営大学大学院のフィリップ・コトラ―名誉教授

▼紛争のさなかにいる人々にとって平和は一番かなえてほしい現実です。

どんなに夢想だと揶揄されようが平和を叫び続け、「核兵器は悪魔だ」と言い切れる強さが私たちに求めれれている。

▼希望は与えられるものではない。

絶望の底から生み出すものだ。

不屈の信念で創り出すものだ。

▼未来に羽ばたく使命を自覚するとき、才能の芽は、急速に伸びることができる。

▼ダイヤを磨くには、磨く側もダイヤモンドでなければならない。

▼民衆の幸福の確立が我々の使命。

▼根本の理念に違わない限り、地域の発展にも貢献できるはずだ。

地域のため、人びとのために、何ができるかを考え、果敢に貢献の行動を起こしていくなかに、幸せの拡大あり、友好の建設もある。

今いる場所で信頼を広げる一人一人でありたい。

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【自転車】太田海也が敗者復活戦を突破 中野慎詞とともに準々決勝進出 男子ケイリン

2024年08月11日 07時59分16秒 | その気になる言葉

<パリオリンピック(五輪):自転車/トラック> 日刊スポーツ

◇10日◇男子ケイリン1回戦敗者復活戦

◇サンカンタンアンイブリーヌ・ベロドローム  

1回戦敗者復活戦に回った太田海也(25=日本競輪選手会)が、力強い逃げ切り勝ちで準々決勝進出を決めた。  

中野慎詞(25=同)は、1回戦を2着で突破している。  

準々決勝は翌11日に行われ、日本発祥のケイリンでは、08年北京の永井清史(銅メダル)以来16年ぶり、そして史上初の金メダル獲得に挑む。

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