社会変容への第一歩
私が本文中で感動しました、箇所を挙げさせて頂きます。
水俣病裁判では同じ人が、チッソ従業員の立場では加害者側でもあり、また生活者の立場としては水俣病の発症被害者というアンビバレントで稀有な史実だが、本書にも一部記述があるようです。
現在、同様の視点として私たちが、昨今の巷で繰り広げられ目にする光景は、分業制の組織構成当事者が、一生活者としては分業生産制産業ゆえに形成された生活環境により、メンタル危機に陥れられている両価性がある。
この双方の重篤な有り様が、読書の途上に私は脳裏に浮かぶ事になりました。
現世人類の問題と言われるアディクションの1次症状でもある思考固着状態のプロセス。
また、その元の欠落感、すなわち実存的危機と云うものを、事実に立脚した幅広い背景の引用を混じえて記述なされており、私は時空間を超える思考領域に導かれました。
自己同一性の(実存的)危機感は凄まじく得体のしれぬ影響を社会に与えて、現在のアディクション惨禍をも招来させている元であると、私は見えないはずの悪しき根源の輪郭がしだいに見え始めましたのです。
このエッセイは場面や時に大きな幅をもたせて描写されていて、他の書籍ではお目にかかれない、時空間を超えるスケールが本作品の含意であり凄味なのでしょう。
そして赤坂 真理さんは、誰でもいつでも陥る懸念のアディクト形質を、大所高所に立ち俯瞰し、その心理メカニズムをいったん白日の元に晒すように丁寧に細く分解して、真正解釈モデルのレールに載せて語る。
万人の心の深淵に存在している心の欠落感が元での思考固着から始まるアディクションの本質を読者に覗かせてくれる。
今回、読書における心象経験で、万人の人間心理をありのままで透徹できる、心を覧る視力を私自身は涵養できた。
『安全に狂う方法』というエッセイを味わい楽しみましての、私なりの発見と感想をお話しします。
これまでの日本社会をおもえば、現代人は分業生産制構造の労働のパーツ化で疲弊していた。
その投影でもある核家族や公の場での生活空間では心の隙間風として、身にしみる孤独感と、精神的な虚無感を時々感じてしまい、生きてる実感が薄いこともしばしば。
自己同一性の危機(実存的危機)と云われる姿である。
自己同一性(実存的)危機は精神的な悩みを自覚できた人のみならず、現代社会に生きる全ての者の共有だと私は気づかされた。
それは深層意識付近の危機感だが、溺れる者が掴もうとする藁のようにアディクションでバランスをとる短絡性がある。
しかし、分業生産従事者個人と消費社会は利害一致関係から無自覚のままに目をそらして直視を忌いするため、個人としては、深刻さが判らなくなっているのが現代社会が抱える宿痾だったと。
生身の人間の心の深部に存在するアディクションでしか満たされぬ葛藤をいつか、誰かが、白日のもとに晒してイエス キリスト復活の寓話の如くに贖罪と復活を示さなくてはならなかった。
鮮やか過ぎるほど、あざやかに 赤坂 真理 さんはエッセイとして描き上げて示した。
日本社会は、アディクション惨禍を多聞するばかりか、社会通念上で薄々自覚できうる集合意識の見えざる根底では、自己同一性の(実存的)危機が改善せずに、個人の自意識が産業社会の残影である縦の心理的隔壁で遮られて、健全な民主主義すらさえも始まらない窮地でもありました。
この度、赤坂 真理さんは『安全に狂う方法』に於けるアディクションの解明と解決法を示しながら、社会ヒエラルキーの裾野から蝕んでいた現代人の心の微かなる病みを看過せず、実存の息吹を吹き込み、社会全体の宿痾を癒す道しるべを浮き彫りにしたのではないか。
赤坂 真理 先生は『安全に狂う方法』を社会の基礎から癒やす貴き営為として、名うての実践者と共に私達へ僥倖をもたらしながら、これからも探求していかれますと、私には直感されてなりません。
面白いには面白いのだが、話が行ったり来たりするので読んでいてしんどかった。
新書だったら何も感じなかったかも。ハードカバーでこのタラタラ感とは思わなかった。
昔はあんなに切れのある文章を書いていたのに。
『ケアをひらく』シリーズは、そのまとまりのなさ、まとめなさこそがいいんだ!って開き直り始めてるように見える。
最初の方が抑制きいてた。
だんだん当事者のまとまらない声シリーズになってきた。
ぱっと見魅力的なテーマで、冒頭は面白いんだけど、読むと肩透かし。
どこから開いて読んでもハートを掴んで離さない言葉の宝庫
本書を買ってから1ヶ月半、もう数回、繰り返し繰り返し読んでいる。
アディクションを脱医療の視点からとらえる革命的な試みだと思う。
誰にだって、多かれ少なかれあるとらわれ。
なかでも強い感情を永続的に持つには「思考」の力が必要となる。
それが最も深いアディクションなのだと著者はいう。
そんな思考への固着(アディクションの一次症状)から脱出するために、薬物やアルコールやギャンブルなどにのめり込む(アディクションの二次症状)ことができた人たちはまだよいが、二次症状を出せない苦しみが続くと、他人を巻き込む大きな犯罪や自殺として暴発しかねない。
アディクションの二次症状として社会に衝撃を与えたいくつかの事件に言及しながら、「思い込みの一人での解除」はほとんど無理であると赤坂真理は書く。
「安全に狂う方法」という秀逸なタイトルを目にして本書を手に取る人も多いだろう。
自分が死ぬか、ひとを殺すかまでに追い詰められた個人の中での出口を失った思考や感情を、アクティブな瞑想をしてエネルギーとしてどのように変容させていくかが、著者自身の体験を通じて語られる。
後半では、現代におけるシャーマニスティックな表現者でもあるパフォーマンス・アーティストたちとの出会いを通して、著者自身もその表現に身を投じながら「安全に狂う方法」を辿った軌跡が文学的に描かれていく。
アディクションから掴み取った言葉は、どこから開いて読んでもハートを掴んで離さない。
5つ星のうち4.0 依存症とかに興味関心のない人にこそおすすめ
2024年6月27日に日本でレビュー済み
著者の前作『愛と性と存在のはなし』(NHK出版)が面白かったので購入。
前作の続きのような形で興味深く読めた。
いま、普通に暮らしている人たちもみんなどこかおかしい、と思っているので、著者の言うことはいちいち納得ができた。
そして依存症が悪いことばかりでないとも思った。
文章が終始美しくて、多少難解なところもすっと読めた。「ケアをひらく」は当事者発信なので、説得力があると思う。
アディクト(性嗜好障害)が読んでみた
アタシはセ〇レと大書店を巡っていました。その時、『安全に狂う方法』という本書のタイトルが目に入り、副題は「アディクションから掴みとったこと」と書かれてあります。
アタシは直ちに「アディクションしながら、安全に狂えたら、最高」と考え、他方で、「アディクションから逃れる方策はないけど、このどうしようもない時間を減らす方法があれば、いいな」という気持で本書を手に取りました。
アタシはインターネットを通じて、不特定多数の異性とのHがやめられない「性嗜好障害」というアディクトで、日陰者です。アタシは若い家族連れを見ると、アタシが家族を持つことはかなえられないから、どうしようもない気持ちになります。アタシは一人で死んでいき、悩みを人に打ち明けることはあり得ず、諦めながら、生かされています。
著者はセラピーや解離、瞑想などの実体験とアディクション当事者の言葉や文献から抜いた言葉をからめて、アディクションを描いています。それで、アタシはアディクトする対象は違えど、アタシと同じ当事者の言葉や著者の考察、とりわけ次の一点が刺さりました。「目からウロコが落ちた」とはこの事です。すなわち、
「アディクションとは執着であり、固着である(pp19-20要約)。」
固着!執着!
アタシが作文を作り、獲物が釣れるかどうか作文をインターネッ湖に垂らし、いい獲物が釣れると、ドキドキして、実際に会って、ラブホでHする。いろんな体、性癖、反応……そのうちアタシの性癖は具体的に固定化し、類する情報を集め、アタシに合う獲物を釣るために、頑張ります。仮にボウズの日であっても、獲物が釣れるかもしれない期待感を待ち続け、アタシは1日中椅子に座っていられる。時間の無駄だとわかっていても、もう離れられない。あと30秒まてば釣れるかも。釣れたら、快楽であり、釣れなくても、明日がある。性癖があえば、好みの体型なら、最高。Hすれば、とろける……。やめられない。もう13年になる。だれか救ってほしい……助けてほしい……
ところで、アタシが一向にわからなかった問いは「この人は本当にアディクトなのか?」であり、ついにそれは「そもそもあなたの診断名は一体何ですか?」という問いへ変わった。答えは本書を読み進んでも、一向にやってこない。それで「答え」は最終章たる5章で一応、やってきた。
「あなたは解離性同一障害だと、専門セラピストにわたしは言われたことがある(p234)。」
あなたって解離なの!?
そういわれると、腑に落ちる。
詩的な章やシャーマニズムな章、ゆるふわハルキ構文の数々はアディクションだからというよりも、解離だからこそ書ける文章に思えてくる。
とすると、副題は「アディクションから掴みとったこと」というより、
どちらかといえば、「解離者が描くアディクション」が適切で、それから、専門セラピストって一体なんだ……?
著者(1964年生)の時代背景から類推すれば、ここでの専門セラピストは臨床心理士にあたるかもしれないが、心理士は見立てを述べることができるのであって、診断はできません。診断ができない以上、この人が解離性同一性障害であるかどうかはわからない。
もしかして、精神科医を専門セラピストと呼んでいるのかもしれないが、通常なら、ドクターと呼ぶはず。公認心理師は2018年からだし。
それでアタシは「専門セラピストって誰だよ!」とずっこけて、「結局あなたのアディクトって自称なの?他称なの?診断名、何?」という問いは問いのままで終わりました。続いて、「そういえば、安全に狂う方法ってなんだろうな」という疑問が私の中で立ち上がり、アタシは記述されている第2章を読み返そうとしました。そこにおいて、著者は「あなたには、安全に狂う必要が、あります(p66)」と女性マッサージセラピストにいわれて、安堵し、「まずはダイナミック瞑想、21日間(p67)」と指示をうけました。
「あなたは安全に狂う方法がある」というセリフは常人なら思いつかず、アタシはだからこのセラピストを変わっていると思うが、「マッサージセラピストって何?」とまたずっこけた。それから「そもそも『まずはダイナミック瞑想、21日間』と最初の面談で伝えるだろうか?」という問いが浮かぶ。
つまり、マッサージセラピストはマッサージセラピストであって、先述した専門セラピストは専門セラピストであり、臨床心理士ではないという類推が私の中で立ち上がりました。結局、本書のセラピストは資格者ではなく、精神世界で経験的に訓練を積んできた人と読むほかない。
最後に。納得できかねる記述があって、すなわち、
「アディクトは、実は『回復』がしたいわけではない、『生きる喜び』を感じて生きたいのだ。アディクションがどんなに問題のある方法でも、幸せになるために始めたことを思い出してほしい。生きる喜びを感じて生きたいのだ(p217)。」
アタシは上記をうっかり見過ごしていましたが、幸いにも線を引いた文章でした。
一応いっておきます。
あのねえ……あなた、アディクトは回復したいんだよ!
生きていた時間を取り戻したいんだよ!
幸せになりたかったんだ、アタシは……
出鱈目書くな!
結論をいうと、「安全に狂う方法」はアタシにはわからない……
かくてアタシは今日も作文を作り、インターネッ湖に作文を投げ入れ、獲物を探しにいくのでした(またボウズ)。
作家でもあり当事者でもあった著者が紡ぐ詩のような文体がところどころ急所を突く
一読して構成、内容のしっかりした従来型の本ではないことがわかる。
そこは読者の好き嫌いが分かれるところだろう。
説明が少なく、こちらとしては場面のイメージがつかみにくいが、著者の、本当に苦しみもがいた者にしかわからない、心の底の、さらにその奥の裏からの、洞察を、なんとか紡ぎ出した詩のような言葉の数々に、あちこちから針で刺されたような強い痛みを私も感じる。
まるで、普段は届かない、奥深くでただ疼いているツボに、強烈な鍼灸の治療を受けたかのような読後感だ。グワーッと、時にはじんわりと、確実に効いてくる。しばらくは動けなかった。