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26歳で夭折したドイツの作家ボルヒェルト

2019年08月11日 17時44分32秒 | 社会・文化・政治・経済

ヴォルフガング・ボルヒェルト(Wolfgang Borchert、1921年5月20日 - 1947年11月20日)は、ドイツの小説家、劇作家、詩人。

戦後の「瓦礫文学」の代表的な作家であり、表現主義の流れを組む鮮烈な文体で40ほどの掌編などを残したが、26歳で夭折した。散文集に『たんぽぽ』『この火曜日に』、戯曲に『戸口の外で』がある。

Foto vom Schriftsteller Wolfgang Borchert

Der Schriftsteller Wolfgang Borchert. © Wolfgang-Borchert-Archiv

ハンブルクに生まれる。父は小学校教師でオルガン奏者、母は郷土作家。両親の影響で15歳から詩を書き始めた。実科高等学校を中退、書店でみならいをしながら俳優として舞台に立つ。その傍らで友人と文学サークルを作り、ドイツ古典主義から表現主義、外国文学などを読んだが、特に心酔していたのはリルケヘルダーリンであった。1941年にリューネブルクの劇団に入団するも、まもなく徴兵され東部戦線に送られた。

軍隊では腕の鉄砲による自傷の嫌疑を受けたり反体制的言動を咎められるなどしてたびたび投獄、死刑を求刑された。

理解ある判事や弁護士のおかげで無罪を勝ち取ることができた。

ところが何気なく語ったことが、ナチス誹謗在罪に。出獄後、懲罰で前線送り。

戦地で黄疸やチフス、凍傷により国内送還。

退院後にまた前線へ。

やっと除隊したが、前夜の演芸会でナチス風刺の演説をして、ベルリン刑務所へ。

肝臓障害を発症し苦しい生活を送った。

四度の前線へ。1944年にはイェーナ守備隊に送られ、敗戦直後にフランス軍の捕虜となったが、護送中に逃亡し、故郷ハンブルクまでの600キロの道のりを歩いて戻った。

寝たきりの病床で、わずか1年9か月の間に、一編の戯曲と51編の短編小説を書き上げた、世の称賛を受けることなく26歳の生涯を終わった。

療養のためスイスのサナトリウムに向かうが、すでに肝臓疾患が治療不可能なほど進行しており、11月に同地バーゼルの病院でこの世を去った。ハンブルクの劇場で『戸口の外で』が初演されたのは彼の死の翌日である。

高校卒業後、戦地と監獄の26歳の人生であった。

 


一人の人間が成し遂げたこと

2019年08月11日 15時47分20秒 | 社会・文化・政治・経済

「一人の人間が、或は、一群の人々がなし遂げたことが、それに続く人々にとっての、足場となり、出発点となる」ジョン・デューイ言葉

「誰でもの信仰」

ジョン・デューイ(John Dewey、1859年10月20日 - 1952年6月1日)は、アメリカ合衆国の哲学者。チャールズ・サンダース・パース、ウィリアム・ジェームズとならんでプラグマティズムを代表する思想家である。
また米国では機能主義心理学に貢献したことでも知られている。
20世紀前半のアメリカ哲学者のなかでも代表的且つ進歩的な民主・民衆主義者(ポピュリスト)だった。
バーモント大学卒業後はペンシルベニア州で高校教師を2年間務めたが、中等高等教育機関での教師には自分は向かないと考えるようになり、バーモント州の小学校で一年ほど勤務する。
1882年、ジョンズ・ホプキンズ大学大学院に再入学し、心理学者スタンレー・ホールのもとで学んだ後、同大学心理学研究所で働きながら、博士号を取得。出版されず紛失した博士論文の題は「カントの心理学」だった。
1884年からミシガン大学に勤務。2年間講師を務めたあと、助教授に、1889年に30歳で教授になる。
このミシガン時代にはヘーゲルおよびドイツ観念論を主に研究していたが、1891年に留学先のドイツから帰国し同大学講師になったジョージ・ハーバート・ミードと交友関係をむすび、ヘーゲルの影響圏から抜け出す。
ミードはウィリアム・ジェイムズの教え子であり、デューイはジェイムズにも影響を受けるようになる。

デューイ宗教論の射程 「道徳」としての「誰でもの信仰」 / 上寺常和|bookfan|01

デューイ宗教論の射程 「道徳」としての「誰でもの信仰」 / 上寺常和


人間精神の力

2019年08月11日 15時24分01秒 | 社会・文化・政治・経済

「世界には軍事力や核爆弾という悪の力よりも更に偉大な力がある。善の力、道徳や、ヒューマニズムである。私は人間精神の力を信じる」ライナス・ポーリングの言葉

イナス・カール・ポーリング(Linus Carl Pauling、1901年2月28日 -1994年8月19日)は、アメリカ合衆国量子化学者生化学者。彼自身は結晶学者、分子生物学者、医療研究者とも自称していた。

オッペンハイマーは原子爆弾計画の際、ポーリングを化学部門のトップに招いたが、ポーリングは自分が平和主義者であることを理由に辞退した。

ポーリングは20世紀における最も重要な化学者の一人として広く認められている。量子力学化学に応用した先駆者であり、化学結合の本性を記述した業績により1954年にノーベル化学賞を受賞した。

ノーベル平和賞受賞理由:核兵器に対する反対運動

主な受賞歴 ノーベル化学賞 (1954年)
ノーベル平和賞 (1962年)
プリーストリー賞 (1984年)

ノーモアウォー (1959年)
ポーリング (著), 丹羽 小弥太 (翻訳)

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ライナス・ポーリング
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被爆ピアノ平和コンサート

2019年08月11日 10時38分11秒 | 社会・文化・政治・経済

ある時ふと、時を超えて音を奏でる被爆ピアノの音色は聴衆の心を打つのではないかと思い立ち、コンサートで使ったところ、想像以上の大きな反響があったんです。

「すごく前向きになれた」
「勇気をもらった」などの声が、たくさん寄せられました。
<こういう平和の伝え方もあるんだ>と感動しました。
被爆ピアノは他の遺品と違って<音楽を奏でる>ことができるから、弾かないと意味がないと気付いたんです。
そして、被爆60年の2005年から全国をコンサートで回るようになりました。
ICAN(核兵器廃絶国際キャーペーン)が2017年12月ノーベル平和賞を受賞。
それを記念してノルウェーのオスロで行われたコンサートでも、被爆ピアノが演奏されました。
世界中で、大きく報道されました。
被爆ピアノは、演奏者の心によって音の響きが全然違うんです。
重要なことは、音楽は国境を越え、利害や差別を越えて、人と人との心を結ぶ力があります。
この被爆ピアノの音色にも、その力があると確信します。
「核兵器をなくさなきゃならん」という世論を高めていくしかないと強く思います。
唯一、被爆を経験した日本国民が声を上げるのが一番、説得力がありますから。
ぜひ。多くの若い人に見ていただきたい。
被爆ピアノの存在を知ってもらいたい、平和意識を高めてほしいと思います。

矢川ピアノ工房会長矢川光則さん

被爆ピアノプロフィール(矢川ピアノ工房所有)
「ピースピアノプロフィール」プリント用ページ
1.ヤマハ アップライトピアノ(ミサコのピアノ)
製造 昭和7年 製造番号18209
形状 85鍵 象牙鍵盤 現在のU1の大きさ
被爆状況 広島市中区千田町 爆心地より1.8Kmの民家で被爆
経緯 被爆ピアノ所有者より、矢川光則へ託される。
平成17年7月から矢川ピアノ工房所有となる。
現状 被爆当時のままであるが、演奏は十分出来るように、 修復をされ、コンサートで使用されている。
2.ヤマハ アップライトピアノ(ニューヨークへ行ったピアノ)
製造 昭和13年 製造番号33918
形状 85鍵 現在のU1の大きさ
被爆状況 広島市南区宇品地区 爆心地より3Kmの民家で被爆
経緯 広島市中区国泰寺町 個人の所有者より、矢川光則へ託される。
平成10年2月から矢川ピアノ工房所有となる。
現状 被爆当時のままであるが、演奏は十分出来るように、修復をされ、コンサートで使用されている。
※2010年 ニューヨークで演奏されました。
3.ホルゲル(HORUGEL) アップライトピアノ(カズコのピアノ)
製造 昭和15年 製造番号 13596  
形状 88鍵 象牙鍵盤 2本ペダル 高さ129cm
被爆状況 広島市南区段原山崎町 爆心地より2.6Kmで被爆
元の持ち主である和子さんとピアノが自宅にて同時に被爆
経緯 平成21年5月13日 所有者より、矢川ピアノ工房へ託される。
現状 被爆当時のままであるが、演奏は十分出来るように、修復をされ、コンサートで使用されている。
4.ヤマハ アップライトピアノ
製造 大正9年 製造番号 9817
形状 85鍵 象牙鍵盤
被爆状況 広島市中区舟入川口町 爆心地より1.5Kmで被爆
元の持ち主とピアノが自宅にて同時被爆
経緯 広島市中区の所有者より、矢川光則へ託される。
平成26年4月2日から矢川ピアノ工房所有となる。
現状 被爆当時のままであるが、演奏は十分出来るように、修復をされ、コンサートで使用されている。  
5.ヤマハ セミコンサート・グランドピアノ
製造 不明  
形状 88鍵 6本脚 1本張弦方式(総アグラフ)
被爆状況 広島市西区 爆心地より2Kmの小学校で被爆
経緯 広島市中区のピアノ教師の所有者より、矢川光則へ託される。
平成16年5月から矢川ピアノ工房所有となる。
現状 昭和21年に広島のピアノ工場で、大がかりな修復を行う。
演奏は十分出来るように、修復をされ、コンサートで使用されている。  

『異端者たちが時代をつくる』

2019年08月11日 10時25分19秒 | 社会・文化・政治・経済
 

(諦めばかりの現代社会を変えた6つの勇気の物語) 

松井 清人著

商品の説明

内容紹介

言いたいことも言えない
こんな世の中に立ち向かう
日本人がいた

令和年代初の本格派ストーリー
●「オウムの狂気」に挑んだ週刊文春
●「神の手」と呼ばれた医師との闘い
●日本人メジャーリーガーの意地とプライド
●「宗教マフィア」への宣戦布告
●未成年凶悪犯、そして実名報道の葛藤
●「少年A」の両親にとっての22年

「誇りを持つために戦うことも必要さ」

内容(「BOOK」データベースより)

批判を恐れる大手マスコミに代わって事件報道を担ったのが『週刊文春』など雑誌ジャーナリズムだ。文藝春秋前社長がその舞台裏の人間ドラマを描く。

著者について

松井 清人
1950年、東京都生まれ。東京教育大学アメリカ文学科卒業。
1974年、(株)文藝春秋入社。『諸君! 』『週刊文春』『文藝春秋』
の編集長などを経て、文藝春秋社長。2018年、退任。

 

 
 
 
 

「パパさん募集しています」から発覚 女子高校生を買春 33歳塾経営の男逮捕

2019年08月11日 10時22分48秒 | 社会・文化・政治・経済

8/8(木) チバテレ(千葉テレビ放送)

 ことし1月、千葉県内の女子高校生に現金を渡す約束をしてわいせつな行為をしたとして、松戸市内で学習塾を経営する33歳の男が逮捕されました。

 児童買春の疑いで7日に逮捕されたのは、松戸市内の学習塾経営者を名乗る遠藤弘晃容疑者(33)です。警察によりますと、遠藤容疑者はことし1月、ツイッターで知り合った18歳未満の女子高生と県内のホテルで現金数万円を渡す約束をしたうえで、みだらな行為をした疑いが持たれています。

 千葉県警によるサイバーパトロールで、「パパさん募集しています」というツイッター上での生徒の書き込みが発見され、警察が生徒に話を聞いたことで事件が発覚しました。

 二人はツイッターで知り合い、メッセージ機能で連絡を取り合っていたということです。調べに対し遠藤容疑者は「間違いない」と容疑を認めていて、警察は余罪についても捜査を進めています。

 


日航機事故34年を前に長男が心情語る

2019年08月11日 09時55分35秒 | 野球

父の言葉 常に頭に」 墜落直前 手帳に遺書の河口さん 

8/11(日) 上毛新聞

津慶(つよし)、しっかりたのんだぞ」。1985年に群馬県上野村で起きた日航機墜落事故で家族宛てに感謝の遺書を記していた河口博次さん=当時(52)=の長男、津慶さん(55)が今月、上毛新聞の取材に応じ、「父の言葉が常に頭の片隅にある。常に父だったらどうするか考えて生きてきた」と、惨事から34年となる心情を語った。

◎219文字につづられた想い 追う

 津慶さんは事故当時21歳で、父には反抗ばかりしていたという。それも「あの時は父がいるのが当たり前だったから」のことだ。

 遺書が書かれた社員手帳は事故から数日後、津慶さんが上着のポケットから見つけた。他の遺品は水でぬれたり、腐敗臭が激しかったりした。「パパは本当に残念だ」「本当に今迄は幸せな人生だったと感謝している」。ボールペンで書きなぐられた219文字の遺書が見られる状態だったのは「不思議なことだった」。

 予期しない死に直面した悲痛な思いと、家族へ思いを託すようなメッセージ。「父は死を覚悟した。けれども、人生を精いっぱい努力していたから『幸せな人生だった』と思えたのだろう」。博次さんのためにも悔いのない人生を送らねばと、自らに言い聞かせながら過ごしてきたという。

 津慶さんは現在、19歳と15歳の2人の娘がいて、亡き父に思いをはせながら生活を送る。6年前に長年勤めた会社を辞め、日本の伝統工芸をインターネットを通じて世界に販売する会社を立ち上げた。このまま定年退職するのではなく、「新しいことにチャレンジしたい」との思いからだ。

 御巣鷹の尾根を訪れたのは事故から34年間で2度だけ。事故当日の12日も家族だけで静かに博次さんを弔う。「事故がきちんと忘れ去られないように。新しい時代を生きる人たちが再び悲しむことがないように」との願いは変わらない。


「少年A」を産んだ母親の悲しすぎる末路

2019年08月11日 09時39分00秒 | 社会・文化・政治・経済

8/9(金) 10:25配信

少年Aが実の息子だと知った両親は何を思ったか。逮捕後、面会に行くなり浴びせられたのは「帰れ、ブタ野郎」の言葉。それから両親は手記『「少年A」この子を生んで……』の出版を決める。本のタイトルをつけたのは母親だった――。

※本稿は、松井清人『異端者たちが時代をつくる』(プレジデント社)の第6章「『少年A』の両親との20年」の一部を再編集したものです。

■少年A逮捕の日

 少年Aの両親の手記『「少年A」この子を生んで……』が完成するまで、2年もの長い月日が必要だった。

 1999(平成11)年、『週刊文春』の3月25日号と翌週号に内容の一部が先行して掲載され、単行本『「少年A」この子を生んで……』は4月2日に発売となる。森下香枝記者(当時、現・週刊朝日編集長)、渾身のスクープだった。

 母の手記と育児日誌、そして父の日記で構成された本の内容は、相当に衝撃的だ。

 父の日記は、Aの逮捕当日から始まっている。

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〈1997年6月28日(土曜日)――逮捕の日
朝7時15分ごろ、今日は子供達の学校も私の会社も休みで、家族全員その時はまだ眠っていました。
突然、インターホンが鳴り、私が寝間から起きて玄関のドアを開けると、警察の方が二人中に入ってきて、スッと警察手帳を見せられました。名前までは覚えていません。
「外では人目に付くので」と言った後、一人が玄関のドアを開め、「息子さんに話を聞きたいのですが……」と言われました。
「はあ、ウチ、息子は三人おりますが……」
「ご長男A君です」〉(『「少年A」この子を生んで……』)
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■フラフラ状態で顔は土気色の母親

 こうして、Aは連行された。次いで母親が警察に呼ばれ、ようやく午後6時ごろに帰宅。6時10分ごろ、父親は警察官から「子供達をどこかに預けることはできますか? 」と聞かれる。わけを尋ねても「理由は聞かんといてください」の一点張りだった。言われるまま、Aの弟二人を近所の親戚に預け、帰宅した6時35分ごろ。警察官から「ちょっと淳君の事件で重大なお話があります」と、家宅捜索令状を見せられた。

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〈まさか淳君の事件にAが関わっているとは、正直言って想像もできませんでした。
「A君を容疑者として今、取り調べをしています」(中略)
あまりのことに、記憶も途切れ途切れにしか残っていません。
妻も同じで、「お父さん、これ、どうなってるの。もう一回言うて」と混乱するばかり。
「Aが何したんですか?  えー、何したんですか? 」
私も繰り返し繰り返し、尋ねていたように思います。
妻は、次の月曜に当たっていた町の掃除当番ができなくなることを思い出し、隣の家に伝えに出ましたが、もうフラフラ状態で顔は土気色でした。

■「淳君事件の犯人逮捕。友が丘の少年」

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〈そんな動転の中、家宅捜索が始まりました。
私達夫婦は、「えー、えー」としか言葉が発せられず、何が何だか分からないまま、警察官がAの部屋から次々と押収していく品物に対し、「これを指で指して」と言われるままに、ただロボットのように従って、写真をバシャバシャ撮られていました。
8時半ごろ、付けっ放しになっていた居間のテレビの画面に、「淳君事件の犯人逮捕。友が丘の少年」という短いテロップが出ました。
「えっ、こ、これですか?  これはAのことですか? 」
捜索している警官に妻が尋ねると、「そうです」という短い返事が返ってきました。〉(同書)
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 両親はAとの面会を求め続けるが、なかなか叶わない。「上司と相談したところ、警察の周囲にマスコミが多いので、面会は当分無理です」というのが、須磨署留置場係の説明だ。

 結局、Aが須磨署から少年鑑別所に移されるまで、一度も面会は許されなかった。

■「帰れ、ブタ野郎」

 本の第二章「息子が『酒鬼薔薇聖斗』だと知ったとき」と題する母の手記は、念願の面会がようやく実現した場面から始まる。

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〈「帰れ、ブタ野郎」
1997年9月18日、私たち夫婦が6月28日の逮捕以来、初めて神戸少年鑑別所に収容された長男Aに面会に行ったとき、まず息子から浴びせられたのがこの言葉でした。
「誰が何と言おうと、Aはお父さんとお母さんの子供やから、家族五人で頑張って行こうな」と、夫が声をかけたそのとき、私たち二人はこう怒鳴られたのです。
鉄格子の付いた重い鉄の扉の奥の、青のペンキが剝げかかって緑に変色したような壁に囲まれた、狭い正方形の面談室。並べてあったパイプ椅子に座り、テーブルを挟んでAと向かい合いました。あの子は最初、身じろぎもせずこちらに顔を向けたまま、ジーッと黙って椅子に腰掛けていました。
しかし、私たちが声をかけたとたん、
「帰れーっ」
「会わないと言ったのに、何で来やがったんや」
火が付いたように怒鳴り出しました。
そして、これまで一度として見せたこともない、すごい形相で私たちを睨みつけました。
《あの子のあの目――》
涙をいっぱいに溜め、グーッと上目使いで、心底から私たちを憎んでいるという目――。
あまりのショックと驚きで、私は一瞬、金縛りに遭ったように体が強張ってしまいました。(中略)
15分ほど私たちは顔を向き合わせていたのですが、最後まで「帰れっ」とAに怒鳴られ、睨まれ続けていました。
この子は私のせいで、こんなことになってしまったのではないか? 
Aは目で私にそう抗議している。
《私のせいなんや……》(中略)
私たち親は正直言って、この時点まで、息子があの恐ろしい事件を起こした犯人とは、とても考えられませんでした。どうしても納得することができませんでした。
あの子の口から真実を聞くまでは、信じられない。きっと何かの間違いに違いない。
いや、間違いであってほしい。たとえその確率が、0.1パーセント、いえ0.01パーセントでもいい。その可能性を信じたいという、藁にも縋る思いで、その日鑑別所の面談室を訪ねたのです。〉(同書)

■息子のためであれば、死ねます

 家へ遊びに来ることもあった土師淳君が行方不明になると、父親も母親も捜索に参加している。息子が手にかけたとは思いもせず、遺体の頭部がAの部屋の屋根裏に隠されているとは知る由もなく、地域一帯を探し回っていたのだ。

 我が子の犯行と確信したあと、母親が耐え難い胸の内をさらけ出した一節がある。

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〈あの子の行為で淳君、彩花さんはどんなに苦しみ、辛く痛い思いをなさったのでしょうか?  ご本人たち、ご家族がAの行為により、どんなに悲しみ、苦しまれたのか? 
Aは自分の正当性ばかりを主張し、やってしまった行為の責任を負うことなど、とうていできるはずもない、ということになぜ気付かないのでしょうか? 
息子には、生きる資格などとうていありません。
もし、逆に私の子供たちがあのような行為で傷つけられ、命を奪われたら、私はその犯人を殺してやりたい。償われるより、死んでくれた方がマシ、と思うはずです。
ささやかで不甲斐ないお詫びをされるよりかは、いっそAや私たちが死んだ方が、せいせいされることでしょう。きっと被害者のご家族は、私たちが存在していること自体、嫌悪されているのではないでしょうか。
いつの日かAを連れて、お詫びに行くなどとんでもなく、虫のいい話かもしれません。
被害者のお宅にAが姿を見せたとすると、ご家族の方々に「死んで償え」と罵倒され、たとえその場で殺されたとしても、当然の報いで仕方がないことだと思います。
でも、その時は私に死なせてください。(中略)
私は夫のためには死ねませんが、息子のためであれば、死ねます。Aのやったことはあの子を生み、育てた私の責任です。〉(同書)
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■「できれば、この題名にしていただきたい」

 ここに母親の悔いと、Aへの愛情が凝縮されている。

 『「少年A」この子を生んで……』という本のタイトルは、実は母親がつけたものだ。ある日、森下記者が戸惑ったような表情で、一枚の紙片を持ってきた。

 「お母さんが、『本の題名はこれでどうでしょうか』と言ってきたんですけど……」
「えっ、これでいいと言ってるの? 」
「ずっと考えてたそうです。『できれば、この題名にしていただきたい』と……」

 編集者には付けられない、思い切ったタイトルだ。両親の手記なのに、母親が一人で全責任を背負おうとしている。そんなぎりぎりの思いが伝わってくる気がして、一字一句も直さず、そのまま採用すると決めた。
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松井 清人(まつい・きよんど)
文藝春秋 前社長
1950年、東京都生まれ。東京教育大学(現・筑波大学)卒業後、74年文藝春秋入社。『諸君!』『週刊文春』、月刊誌『文藝春秋』の編集長、第一編集局長などを経て、2013年に専務。14年社長に就任し、18年に退任した。


爆走機関車 シベリア・デッドヒート(2010年製作の映画)

2019年08月11日 05時35分21秒 | 社会・文化・政治・経済
爆走機関車 シベリア・デッドヒート

製作国:ロシア
 
  • 出演者

CSテレビのムービープラスで観賞した。

午前2時45分から

解説

 極寒のシベリアを舞台に、列車とスピードに魅了された者たちが、スピードと誇りをかけておくる超重量級スペクタクルアドベンチャー。第二次大戦終結直後のシベリア。そこにはソビエト領内の反体制分子を捕らえた収容所があった。その地に蒸気機関車の機関士として赴いた戦争の英雄イグナトだったが、トラブルから前任者に機関士の職を追われてしまう。そんな時イグナトは、離島に動かせなくなった機関車が放置されていることを知る。島には朽ち果てた機関車に隠れ住む若いドイツ人女性エルザが。2人は橋を修理し、機関車を動かそうと試みるのだが…。

爆走機関車 シベリア・デッドヒート

■内容・詳細

第二次大戦終結直後のシベリア、ソ連領内の反体制分子を捕らえた収容所があった。その地に戦争の英雄・イグナトが蒸気機関車の機関士として赴任する。

しかし、女を巡るトラブルから前任者に機関士の座を追われたイグナトは、収容所から離れた島に橋が壊れたため動かせなくなった機関車が放置されていることを知る。島には朽ちた機関車に隠れ住む若いドイツ人女性・エルザがいた。

2人は協力して橋を修理し、機関車を動かすべく奔走するが……。戦争で傷ついた2人の、どん底からの脱出と誇りをかけた闘いが始まろうとしていた。

■キャスト・スタッフ

ウラジミール・マシコフ、アンジョルカ・ストレチェル、ユーリア・ペレシルド 監督:アレクセイ・ウチテル

 
 ---第二次世界大戦中

1000万人以上のソ連人が
ナチスドイツの捕虜となった
戦後 帰還した者の多くは
僻地で強制労働 あるいは収容所送りに---

1945年9月シベリア。

戦後複雑になってしまった人間関係だけど、愛が解す。機関車のように力づくに真っ直ぐに。機関車そのものだけでなく、そこに居る人々もどこか機関車っぽく無骨で素朴な雰囲気が味わいあって良い。
頭に来たらすぐに「ボコッ!」って手が出るんだけど、その殴り方すら味がある。
全体を通しての雰囲気が好きです。

タイトルにあるように機関車のシーンは迫力あります。

シベリアの森にあるKRAY村では第二次世界大戦終戦前ドイツに住んでいたロシア人を反逆者として連行しずっと強制労働させていた。
ドイツにも母国にも反感がある労働者のもとにソ連の戦勝功労者イグナトが機関車修理工として派遣される。
歓迎されないイグナトもまた戦争の後遺症で機関士免許を失った被害者…
そんな時、森に埋もれた機関車の情報で再び操縦への想いが湧き上がる。
シベリアの森に四年も隠れ生き延びたドイツ人女性と出会ったイグナトは次第にうち解け反感や逆境にも負けず、機関車を生き返らせ走らせる事に没頭する
ーーーーーーーーーーーーーーー
イグナトは怒りと哀しみを機関車にぶつけ戦争から奪われたものを取り戻そうと取り憑かれたようになっていて熱かった🔥
地味な話だとは思うけどホント魂を燃やしてた(ここだけはジャケに書いてある言葉合ってると思う)
最終的にはみな被害者なので悲しい…

1941年5月
戦争が始まり
シベリア クライ村を
フィッシュマン率いる部隊が村を横取りする
橋が壊れる
ドイツ人は殺される
グスタフ
パパ
エルザは川に流された

1945年9月
シベリア 
終戦直後のいろいろ不足してる時代
発作持ちがばれて
機関士の資格を失い
修理班長として派遣された男イグナト
森に苔むした機関車を取りに行くと
山猿のような女が住み着いていた
川に流されたはずのエルザだった

イグナトとエルザは2人で機関車と橋を修理して
村へ帰るが歓迎されず嫌われ者に
よそ者どうしたくましく生きる

全裸姿の女風呂でのキャットファイトというシーンも

ステパンは機関車AUもソフィアもイグナトに奪われたと恨んでいる
イグナトを気にくわないやつは村には何人もいる

イグナト
発作持ちのスピード狂

コリバノフ所長
右腕がない

ステパン機関士
サルキシャン機関士雌鶏飼ってる
ボトクス整備士

ソフィア
パーシャ

ボブカ
マチルダ
カルーシャ犬
ボリス
ゴロビナ
ボチャロフ

支配者のフィッシュマン


阪神・大山、意地の逆転サヨナラ3ラン

2019年08月11日 02時57分46秒 | 野球

6番降格の悔しさ晴らす人生初のサヨナラ弾

 「阪神6-5広島」(10日、京セラドーム大阪)

 阪神が、大山の逆転3ランで劇的なサヨナラ勝ちを収めた。

顔をクシャクシャにして大山を抱きしめる西

 3-5で迎えた九回。先頭のマルテが広島・フランスアから中前打で出塁すると、続くソラーテが四球を選び、一、二塁。ここで不調で4番から6番へと降格した大山が1-0からの2球目の外角ストレートをはじき返すと右翼席ギリギリに飛び込んだ。

 意地の一発を見せた大山はヒーローインタビューで「チャンスだったのでランナーを返すことだけ考えて打席に入った。ストレートが早いけど、ストレートを待ってしっかりとらえることができてよかった、入ってくれと思って走った。本当にうれしいの一言です」と噴き出す汗をぬぐいながら振り返った。

 打順降格について「もちろん悔しいけど、しっかりやるべきことをやるだけなので」と話したが、その悔しさを人生初というサヨナラ本塁打で晴らした。

 この日はマウンドを託された先発の西が、逆転した直後の三回に広島打線に5本の集中打を食らい、一挙4失点。3四死球を与えるなど制球にも苦しみ、6回7安打で、今季ワーストタイの5失点で降板した。

 またこの日は糸井が左足首の関節炎で離脱、不調の大山が4番から6番へと降格した。3番・福留、4番・マルテ、5番・ソラーテの新クリーンアップを組んだが…。二回に梅野が同点打、近本が一時勝ち越し打を放つのみで、三回以降は適時打なし。今季初の先発全員安打、広島を上回る安打を放ちながらつながりを欠いたが、最後の最後に主砲の一発でそのモヤモヤを吹き飛ばした。