創作欄 取手の人々

2019年06月10日 18時36分45秒 | 創作欄

昨年4月以降、新しい方向へ踏み出そうと大田修は想っていた。
だが、不本意な条件で仕事を継続することとなった。
相手は大田にとって恩義ある人であった。
「人間の道として忘恩の人間にだけはなるまい」と決意してこれまで生きてきた。
当然、育てもらった親に対する恩もある。
大田は借金を重ねて、度々親の援助を受けてきた。
兄の勇治は「親父、おふくろさんも修に甘い。何時までも修は頼り切るだろう。金は老後のために取っておけよ。修の借金の尻拭いはよしたらどうか」と諌めた。
「お前は私立の歯科大学を出た。それなりに金をかけた。修は高卒でそれほど金をかけなかったから、300万円、500万円の借金は仕方ない」不動産業の父親は修をかばう。
「修の借金は競輪や競馬だろう。ドブに金を捨てるようなもんだ。親父もそろそろ修を突き放せよ。あいつはそうしないと一人前の人間になれない」
勇治はそろそろ開業を考えていたので、開業資金の一部を当てにしていた。
「親父、どせなら生きた金を使うべきだ」と自分の思惑に誘導する。
父の豪は茨城県取手市の農家の3男に生まれたが、農業高校を卒業すると東京に働きに出た。
だが、昭和40年代になって、取手市も大きく変わっていく。
多くの田圃や畑が公団住宅や市営住宅、民間住宅に変わっていく。
豪の実家の農地も宅地造成に組み込まれ、長男は土地成金になっていた。
豪は東京の町工場の工員に見切りをつけ不動産業に転身した。
豪は地縁などを生かして不動産業で成功を修めた。


創作欄 取手の人々

2019年06月10日 18時31分41秒 | 創作欄

大田修は広告代理店の営業や印刷会社の営業などをしてきた。
あるいは小さな出版社の営業もしてきた。
上司から編集の仕事を打診されたこともあったが、文章を読むことや書くことが苦手なので断った。
ただ、世の中には自費でも本を出したい人が以外に多く、大田は依頼者の相談に乗りながら、ゴーストライターと顧客の間を繋げてきた。
ゴーストライターの一人である木嶋孝介とは同じ競馬好きであることから、意気投合して土日には競馬場へ通ったものだ。
木嶋は元は経済雑誌の記者であったが、株のインサイダー取引に関与したことで解雇された過去を持つ。
重要事実の公表直前の売買、売り要因の重要事実を知っての買付け、買い要因の重要事実を知っての売付け、あるいはスクープ記事・憶測記事などで株価に多少の影響を与えたこともあった。
木嶋は酒を飲まされ、知人などに情報を流していたのだ。
自分にはまとまった金がないので、株で儲けた人間からおこぼれを貰ってきた。
木嶋は東京・中野に住んでいたので、大田は終電を逃すと木嶋のアパートに度々泊めて貰っていた。
上野発取手行きの最終電車は24時20分であり、新宿で飲むことが多かったので木嶋のお世話になっていた。
二人はいわゆるサラ金に手を出してまで競馬をしていた。
初めは10万円を借りて儲けて、直ぐに返済したこともあったが、そうとばかりは限らない。
大田は借金が200万円に膨らん時には、どうにもならなくなり母親の千代に泣きついたのだ。
「利子ばかり、毎月払っているんだね。バカバカしい。一括で返済するんだね。これはお前のために積んだ郵便貯金だよ。大事にしな」と通帳とハンコを出した。
太田は通帳を見て目を見張った。
500万円も積まれていたのだ。
結局、親バカであることが裏目に出た。
懲りない大田は今度は300万円の借金をしていた。
また、母親に泣きついたのである。
今度は300万円を抱えた母親が街の金融機関に同行し、「2度と息子に金を貸さないようにしてくださいね」と頭を下げた。
2年後に母親が急性心筋梗塞で亡くなった。
60歳の若さであった。
大田は「親不孝」だったと葬儀の場では反省したが、さらに3年後、500万円の借金をしていた。
大田は結婚もせず32歳になっていた。
兄の勇治は歯科大学の附属病院に勤務していたが、取手駅近くのビルで矯正専門医として開業していた。
勇治の妻智子は同期生であり、小児と一般歯科をやっていた。
父親も息子の修に甘かったのである。
「競馬で金儲けなど考えるな。俺の不動産業を手伝わんか。これはお前に渡す最後の金だ」 銀行の通帳と印鑑をよこす。
そこには1500万円が積まれていた。
大田は初めて父親に謝罪し「2度と競馬はしません」と念書まで自ら書いたのだ。
兄の勇治が以前「親父、おふくろさんも修に甘い。何時までも修は頼り切るだろう。金は老後のために取っておけよ。修の借金の尻拭いはよしたらどうか」と諌めたことが大田の脳裏に浮かんだ。

 


取手の人々

2019年06月10日 18時27分43秒 | 創作欄

人生をどうのうに捉えるのか?
肯定か否定か、確信か不信かで自ずと結果は大きく分かれるはずだ、と大田は気付いたのだ。
大田の高校時代の友人の倉持勉が、26歳で網膜色素変性症のために失明した。
倉持は調理師になっていたが、失明してから水戸の盲学校へ入学し、3年後、「あん摩マッサージ指圧」の国家試験に合格し、取手市内に治療院を開いていた。
大田はその年の冬の大雪の雪かきで腰を痛め、倉持の治療院に通った。
「大田、お前の腰の治療をするとは思わなかったな。まあ、俺に任してくれ」倉持の声は確信に満ちていた。
「俺も、倉持の治療を受けるとはな。人生色々あるな」大田はどこか引け目を感じていた。
「俺は、目が見えなくなって、人の声に敏感になった。大田元気がないな、どうしたんだ?悩みでもあるのか?そうなら話してくれ。胸の内を明かすことで気持ちは楽になるものだよ」
倉持は治療の手を止めた。
「最近、ツキに見放されてしまって、競馬で15連敗もしている」大田は自嘲気味に言った。
「競馬か、俺も調理師時代は取手競輪に通ったが、競輪は難しいな」倉持の指に力がこもった。
大田は取手に在住していたが、競輪場へ足を踏み入れたことはなかった。
「賭け事にのめり込むのは業のようなものだと、俺は失明して思った」
「業か、そうに違いない」大田は苦笑を浮かべた。
「大田、俺は思うのだが人生はどう生きるか、それで決まる。俺は失明したことは悪くなかったと今は思えるのだ」
倉持の言葉は確信に満ちているように力強かった。
「大田、何かに挑戦することに意味がある。そう思わないか?」
大田は沈黙して聞いていた。
治療の効果で腰の痛みが和らいでいた。
「倉持、なかなかの腕前ではないか。ありがとう。だいぶ腰が楽になった」
大田は心から率直に感謝して治療院を出た。
そして中山競馬場へ向かった。
新松戸から武蔵野線に乗り換えると車内はかなり込んでいた。
競馬人口の多さは競輪ファンの比ではなかった。
大田は船橋法典駅から競馬場へ続く長い通路の中で、気持ちが何時もと違うような高揚感を覚えていた。

 


娘夫婦が同居した日々

2019年06月10日 18時11分19秒 | 創作欄

2012年1 月 6日 (金曜日)

娘夫婦は東京の北千住のマンションに住んでいたが、子どもが生まれて実家に戻って来て、貴子たちと同居することになった。
半年が経過した頃から、貴子はイライラが募ってきた。
孫娘は夜中によく泣いた。
貴子は熟睡ができずに睡眠不足のまま朝を迎え家事をした。
夫は午前5時30分に起きて、自動車で千葉県市川市内の仕事場へ向かう。
娘の夫は歯科技工士であり、深夜に帰宅する日が続いていた。
娘は、「子育てに精いっぱい」と自分の夫の食事の支度を母親任せにしている。
「私のことを、お手伝いの婆やと思っているのじゃないの!」と貴子は声を荒げた。
「ごめんね、おかあさん、暫く頼むわ」
娘はニヤリと笑って申しわけ程度に首を竦めるだけだ。
睡眠不足が重なったので、貴子は寝室を2階から1階に移した。
そして、2世帯住宅のつもりで、夫と自分だけの食事の支度をした。
娘に甘い夫は、酒を飲んで帰宅すると娘たちの部屋へ顔を出して出て来ない。
そればかりではない、娘の夫の食事の支度までやった。
夫は貴子が結婚した頃は東京・日本橋の料理屋の板前をしていた。
だが、35歳の時に夫は、兄に説得され建設業に転じた。
色々な経緯があって、夫の兄の建設業は借金を重ねた挙句に倒産した。
「いずれ、料理屋を開くという貴方と結婚したのに、兄さんにさんざ利用されるだけ利用されて、放り出されたのね」
貴子は嫌味を並べたが、夫は詫びるわけではない。
不機嫌に黙り込み、朝から酒を飲んで憂さを晴らしていた。
45歳になって貴子は、近所の不動産屋の事務として働きだした。
失業した夫は47歳であった。
「中途半端な年齢なんだ、どこも雇ってくれないな」
夫は職安から帰ると冷蔵庫からビールを取り出して飲んだ。
息子は自動車販売のセールマンとなっていた。
娘は歯科技工士として、歯科医院に勤務していた。
貴子は寝れない夜、過去の忌わしさんなどを思い出した。
「明日は、娘夫婦に家を出てほしい」とハッキリと言おう。
決意をすると、貴子は深い眠りにつくことができた。


初めてチェーホフの小説を読む

2019年06月10日 17時52分37秒 | 創作欄

2012年1 月 2日 (月曜日)

些細なことには、怒ることはよそう。

新年にあたり、指針として人生の師は、「朗らかに生きよう」と呼びかけた。
腹は立てるもではなく、腹を揺する。
つまり、笑い飛ばして、力強く歩むのだ。
神奈川県の小田原で昼食のために、その店に入る。
主人らしい50代の男性と、30代と20代と思われる店員が居た。
そして、厨房に1人。
ところで、主人はことあるごとに、20代の店員に文句を言っていた。
「遅い! 早く」
「ぼんやり、立っているんじゃない。かたずけろ」
「何度、言わせるんだ。早く」
「お茶が出てない。先にお茶を出すんだろ」
「ハイ分かりました」「ハイ、すいません」と若者は感情を表に出すこともなく率直に返事をしていた。
食事をしながら若者の様子が気になりだした。
立ち居振る舞いが、緩慢なのだ。
知的障害者のようにも思われた。
徹はイジメにあっても、何時も何事もなく微笑んでいた若者がいたことを思い出した。
それは、学生のころにアルバイトをしていた東京・新宿の居酒屋でのことであった。
ある日、終電に乗り遅れて、徹は若者のアパートに泊めてもらった。
歌舞伎町から職安通りを渡り、柏木の若者が住む古い木造のアパートへ向かった。
4畳半一間の部屋には、机と本箱だけがあった。
読みかけであったのだろうか、机の上にチェーホフの短編集があった。
本棚に目をやると、露西亜の作家の単行本が多かったので、「ロシアが、好きなの」と聞いてみた。
「18世紀、19世紀のロシアが好きだね。でもソ連は嫌だ」と微笑んだ。
徹はフランス文学やドイツ文学、そしてイギリスの文学を好んでいた。
露西亜文学に対しては、暗く重苦しいイメージを抱いていたのだ。
「チェーホフの短編集、君に貸すよ。認識を変えてしい」
若者は頬を紅潮させて、はにかむように言った。
徹は裸電球の下で、ページをめくった。


心が乾き買い求めたのが「チェーホフの言葉」

2019年06月10日 17時43分31秒 | 創作欄

2012年1 月 2日 (月曜日)
1970年(昭和45年)12月24日、徹は銀座の何時もの喫茶店でその人を待っていた。
徹の友人2人が都合で来られない。
現代風に表現すれば合コンの約束だった。
その人は友人を連れてくると言っていたが、30分遅れてやってきた時は、1人であった。
笑顔がないので、その人は高慢な女性に映じた。
「あら、1人なのね!」
声にも人を突き放すような響きがあった。
「明日にしましょう」
その人は席に座らず、踵を返して店を出ていった。
徹はソーダー水を半分残して席を立った。
会計をすますのももどかしい。
外へ出て、その人の姿を探したが既に見えない。
何時も以上に銀座は人並みで溢れていた。
空しさが広がり、心の渇きを覚えた。
徹は銀座から東京駅まで歩いた。
1か月前、その人と一緒に映画を観た映画館の前で立ちどまり、ポスターを確認した。
だが、上映されているのは戦争映画だった。
ひどく落ち込んでいたので、見る気になれない。
結局、八重洲まで歩いて、ブックセンターへ入る。
そして、買い求めたのが「チェーホフの言葉」佐藤 清郎訳編(彌生書房)だった。
次の日の12月25日、作家の三島由紀夫が死んだので、その年は忘れられない年となった。


待つ身はつらい

2019年06月10日 17時04分12秒 | 創作欄

201112 31 (土曜日)

澤田奈那子は渋谷の道玄坂にある法律事務所でバイトをしていた。
彼女は司法試験に2度落ちて、3度目の挑戦するところであった。
徹の父は大学病院の心臓外科医であった。
父の医療訴訟を請け負ったのが、渋谷・道玄坂の法律事務所であった。
父の東京地裁での裁判を傍聴した時に、徹は奈那子と出会った。
徹は裁判所へ足を踏み入れたのは初めてでる。
建物に威圧され、胸をドギマギさせ途方に暮れた少年のように戸惑っていた。
徹の脇を通り過ぎた若い女性が振り向いた。
その場の雰囲気を和ませるような女性の爽やかな笑顔であった。
「学生さんね? 傍聴なのね?」
「ハイ」徹は助け船を得たような気持ちとなった。
「今日は、医療訴訟の裁判があるの、傍聴するなら一緒に行きましょう」
「医療裁判?!」徹は腰が引けた。
身内の裁判を赤の他人に傍聴されたくない、と思ったのだ。

徹は緊張しながら傍聴していたが、どうやら裁判では父親の医療過誤過を問えないように思われた。

徹は父親が弁護士と話をしていたので、声をかけずに法廷を出た。

「どう、よければ松本楼でお茶でも御馳走するわ」女性から思わぬ誘いを受けた。
初めて出会った女性を懇意になるとは思わなかった。

出会ってから数日後に、奈那子から電話がかかってきた。
「今、何をしているの?」
「これから、学校へいくところ」
「今日、会えるでしょ?」
「ハイ」
居間で母親が聞き耳を立てていた。
電話は玄関の幅広いシューズボックスの上に乗っていた。
脇には花瓶があって、母親は活けた百合の花が香っていた。
「徹ちゃん、誰かが側に居るのね?」
「まあ・・・」
「渋谷に来て、午後6時に、来られるわね。ハチ公の前にいるわ」電話はそれで切れた。
結局、その日は30分余、遅れて奈那子はハチ公の銅像の前に現れた。

何故、冤罪が起こるのか?

夏目徹は考え続けた。

眠れない夜であった。

書棚から判例集を出して読んでいた。

時計を見ると、午前2時を回っていた。

終電車は既に終わっていた。

結局、待ち人は外泊をしたのだった。

徹は居たたまれない想いに駆られ、絨毯の上に仰向けになる。

そして、昼間、澤田奈那子と新宿駅で別れたことを思い浮かべる。

奈那子は、新宿駅の西口に何時ものように30分余送れてやってきた。

遅れて来たのに、小走りになるでもなくユッタリした足取りで改札口を通過する。

イライラして、不機嫌な顔をしている徹の姿を雑踏の中で目ざとく見つけると、こぼれるような笑顔になった。

徹はその笑顔に魅せられて、何時も怒る気になれない。

徹の前に立つと奈那子は、西洋の劇の中に出てくる少女が演技をするように足を一歩前に出して、腰を屈めて挨拶をした。

奈那子が両手でミススカートを持ち上げたので、太股が露となった。

徹は周囲の視線を感じた。

奈那子がそのような仕草をする時は、何かがある兆候でもあった。

「徹ちゃん、悪いわね。私、用事が出来ました。なるべく早く帰るので、私のマンションで待っていてね」

黒皮の真四角な小さなハンドバックからマンションの鍵を出した。

キーホルダーは、徹が東京タワーで買ったものだ。

徹は言いたいことが喉に詰まった。

奈那子は右手をひらひらさせ身を翻すようにして、足早に去って行く。

奈那子から何度か約束を裏切られてきた。

「もう、いい、お別れだ」徹は投げやりな気分となった。

 

 


「新聞はまず毎朝、死亡欄から見る」

2019年06月10日 16時48分55秒 | 創作欄

2011年12 月31日 (土曜日)

あと、何年生きられるだろうか?

徹は、毎年、12月の末日が迫ると想ってみた。
昔、徹が勤めた会社の社長が、「新聞はまず、毎朝、死亡欄から見る」と言っていた。
社長は徹より、7歳年上である。
死亡欄にまず目がいくと言う経営者に、30歳代の徹は侮蔑の目を向けた。
「後ろ向きで、性格が暗いから社員が定着にないのだな」
酒を飲むと後輩に対して、経営者批判をした。
その後輩の一人は遅刻が重なって突然、社長から解雇された。
「彼は、とても優秀ですよ。取引先の方たちからも、可愛がられています。戦力として欠かせません。解雇を撤回してください」
徹は社長に率直な気持ちを伝えた。
「遅刻し過ぎだ。もういいよ。だめな奴はだめなのだ!」
社長が自分で雇ってのだから、解雇の決断も自分がするのは必然。
徹は口をつぐんだ。
社長は生真面目な人間であるが、狭量でもあった。
「影でとやかく言うな。文句があるなら俺を説得してみろ」
誰にも文句を言わないトップの強引さのなかで、徹は言うべきことを言ってきた。
「こんな会社、いつでも辞めてやる」
腹のなかの気持ちである。
それから10年が経過して、リストラ解雇されると徹の気持ちは、大きく変化していた。

そして、皮肉にも徹は新聞の死亡欄が気になる年代となっていた。

数少ない親友たちが50歳代で逝くことが重なったことも、影響した


創作コーナー:「全然、大丈夫な人なの」

2019年06月10日 16時29分32秒 | 創作欄

2011年12 月30日 (金曜日)

人を好きになる感情は、何であるのか?
徹は、新松戸駅前の居酒屋で考えてみた。
50歳を超えた男の朝のときめく心が、尋常でない。
その女性は、天王台駅から乗った。
取手駅の一つ先だ。
10人の女性がいたとしたら、その人は6番目か7番目かの容姿であろうか。
徹は面食いであるが、これまで愛した女性はそれほど美しくはない。
面食いであるのに、女性の声に惹かれる質でもあった。
「声美人」
そのような表現を徹は、高校生の頃、詩で表現した。
アナウンサーの北玲子さんに惚れ込んでいた。
ハスキーな声であるが甘い。
人の心を包み込むような響きだ。
東京上野の美術館で、マドンナの絵画を見た時、この人が声を発したら北玲子さんのような語りかけをするだろうかと想って絵の前に佇んだ。
人の出会いは不思議なもので、60代の徹が再就職した職場に、天王台駅から乗る女性が働いていた。
「どこかで、会っていますよね」
挨拶をした時、女性から問われた。
「そうです。私は取手に住んでいますから、電車内で貴方を見かけたことがあります」
「ああ、電車で見かけました。何時も大きなリックを背負っていましたわね」
徹は苦笑した。
ノートパソコン、新聞、書物、ノート、カメラ、掲載ラジオ、録音のためのカセットなどでリックは膨らんでいた。
徹が新しく勤めた職場は、20名余の規模であり、社長が50歳で40歳代が2人、30歳代3人、あとは20歳代の若い人たちだった。
駅から徒歩7、8分、徹は職場に溶け込もうと社へ向かう社員たちに声をかけた。
「どこから通っているのですか?」
「出身は何処ですか?」
ところが、ある社員には3度も聞いてしまった。
「岩手と言いましたよ!」
相手は当然、むっとして言い返した。
迂闊であり詫びたが、相手は常にイヤホーンで音楽などを聞いているので、その後は声をかけずにいた。
ところで、徹が惚れ込んだ女性は「声美人」であった。
何時か食事か、酒の席に誘いたいと思っていた。
その日、電車内で声をかけた。
その人は何時も本を読んでいるので、徹は車内では声をかけずにいたが、降りた新松戸の駅で肩を並べたので聞いた。
「正月は、何処かへ行ったのですか?」
「秋田の実家へ帰りました。大沼さんは、どうされたのですか?」
問いかけに徹は、「この声だ」と胸が高鳴った。
乗り換えた車内では取り留めのない話をした。
そして突然、思い出したので言った。
「大井さんに3度も、出身は何処ですか?と聞いてしまったのです」
その人は声を立て笑った。
「3度も? でも大井さん、全然、大丈夫な人なの。気にすることはないですよ」
徹は、<大丈夫な人>と言う表現に何か救われた気持ちになった。
ある意味で、この人の人柄の良さを感じた。
徹は惚れ直したのだ。
だが突然、別れは訪れた。
その人が退社したのである。
ある意味で徹の心は、平静を取り戻した。
淡白な60代の心のときめきは、引き潮のようなものであった。


美登里の青春

2019年06月10日 16時02分42秒 | 創作欄

2012年2 月 7日 (火曜日)
「私が休みの日に、何をしているのか、あなたには分からないだろうな?」
北の丸公園の安田門への道、外堀に目を転じ美登里は呟くように言った。
怪訝な想いで徹は美登里の横顔を見詰めた。
徹を見詰め返す美登里の目に涙が浮かんでいた。
「私が何時までも、陰でいていいの?」
責めるような口調であった。
区役所の職員である36歳の徹は、妻子のいる身であった。
「別れよう。このままずるずる、とはいかない」
美登里は決意しようとしていたが、気持ちが揺らいでいた。
桜が開花する時節であったが、2人の間に重い空気が流れていた。
乳母車の母子の姿を徹は見詰めた。
母親のロングスカートを握って歩いている少年は徹の長男と同じような年ごろである。
「私は、何時までも陰でいたくないの」
徹の視線の先を辿りながら美登里は強い口調となった。
徹は無表情であった。都合が悪いことに、男は沈黙するのだ。
北の丸公園を歩きながら、美登里は昨日のことを思い浮かべていた。
九段下の喫茶店2階から、向かい側に九段会館が見えていた。
美登里は徹と初めて出会った九段会館を苦い思いで見詰めていた。
美登里は思い詰めていたので、友人の紀子に相談したら、紀子の方がより深刻な事態に陥っていた。
「私はあの人の子どもを産もうと思うの。美登里どう思う?」
美登里はまさか紀子から相談を持ち掛けらるとは思いもしなかった。
「え! 紀子、妊娠しているの?」
紀子は黙って頷きながら、コーヒーカップの中をスプーンでかきまぜる仕草をしたが、コーヒーではなく粘着性のある液体を混ぜているような印象であった。
「美登里には、悩みがなくて良いわね」
紀子は煙草をバックから取り出しながら、微笑んだ。
「私しより、深刻なのね」美登里は微笑み返して、心の中で呟いた。 
結局、美登里は紀子の前で徹のことを切り出すことができなかった。


郵便局主催の「第2回とりでカラオケまつり」

2019年06月10日 15時33分00秒 | 日記・断片

郵便局主催の「第2回とりでカラオケまつり」が6月9日(日曜日)取手福祉会館2階小ホールで開かれた。
主催は関東地方郵便局協会・茨城県南部地区取手支部(13局)。
午後2時に開演、48名が歌った。
プロ歌手なみの派手なドレス姿で歌ったご婦人も少なくなかった。
友人、知人の歌に思わず拍手を贈った。
審査員もいて結果の発表・商品授与とプログラムにあるが、阪神と日本ハムの野球をCSテレビで観戦するために、20人ほどの歌を聴いた退場した。


創作欄 真田の人生 1)

2019年06月10日 13時57分38秒 | 創作欄

2013年12 月22日 (日曜日)

真田は斜めに世の中を見てきた男である。

3億円事件が起きた時、戦後の多くの事件の謎に通底する事件だと思った。

通底とは、ある事柄や思想などがその基本的なところで他と共通性を有することを意味する。

重大な事件は何故、迷宮入りすのか?

言わばそれは、それまでの常識を超えているからだ。

正解を導き出す手法の一つとして、過去の経験に負うところが大きい。

だが過去の経験や想定がないころで事件や事故は常に起こり得る。

日本の裏とも言える闇社会やギャンブルの世界に生きてきた真田にとって、過去の経験や想定など無に等かった。

つまり未来など予想できないのである。

だからギャンブルはギャンブルなのだ。

真田は闇の世界でそれなりに金銭を蓄積した。

だが、東京・新宿で出会ったわずか27歳の大沢拓郎は、麻生の高級マンションを購入していた。

「真田さん、一度、うちのマンションに来てください」と大沢は得意気に言う。

真田は直感的に大沢が3億事件に絡んでいると思った。

3億円事件は単独説ともされていたが、「複数氾だと」真田は直感していた。

さらに、この事件を国の暗部とも結びつけて考えていた。

犯人検挙のためにローラー捜査も行われた。

結果として、学生運動やいわゆる過激派運動家の封じ込めに、公安警察の情報活動にも名目を与えたのではないか?

真田は不可解な日本の戦後の事件などから類推して想像を膨らませていた。

2013年12 月23日 (月曜日)

創作欄 真田の人生 2)

真田は戦後、闇市から身を起こし危ない仕事や取引にも手に出したり、裏社会の人間とも繋がってきたが、一度も警察に逮捕されたことがなかった。

違法な賭博の場が警察官たちに踏み込まれた時も、裏口から逃げて無事であった。

思い返せばただ単に運が良かったのである。

身を守るために短剣を所持していた時期もある。

また、22口径の拳銃も身に忍ばせていたが、一度も使用しないですんだ。

昔の人は「短気は損気」とは言ったものだ。

激情にかれて人を殺める場合もあるだろう。

弾みが怖い。

弾みで電車に飛び込む人もいるだろう。

真田は金儲けに長けていたので、金で苦労したことがなかった。

つまり、多額の借金の経験がない。

常に100万円くらいは所持していた。

だから、どのような店へ入ろうと支払いについて頭を巡らせることがなかった。

多くの女性と深い関係になろうろ一度もトラブルはなかった。

だが、取手に移り住んだ真田は、初めてトラブルに巻き込まれた。

その男は小柄であり何時もカウンターの端に居て黙ってウイスキーを飲んでいた。

「何者かと」と真田は目にとめたが、それほど気にしなかった。

数日後、真田は取手競輪場のゴール前の正面スタンドから、男を見かけた。

男はいわゆる競輪のノミ屋であり、ファンの間を動き回りながら投票用紙と現金を受け取っていた。

真田はノミ屋が相手にする一般の客と違って、一桁車券の購入額が違っていたので、的中したらノミ屋も払い切れないであろう。

5000円単位、1万円単位で車券を投票をしていた。

的中すれば、払い戻しは数十万円になっていた。

大穴なら数百万であり、地元の銀行の帯付が付いた札束が数束、大口の専用窓口で払い戻されるので、周囲に居た者は度肝を抜かれる状態となった。

真田のようなファンは後楽園競輪場に居たが、昭和40年代の取手競輪場では見かけなかった。

真田には希な博才が備わったいたのだ。

たまには農地を売って勝負をするファンも居たが、負けて破滅していくだけであった。

「1点勝負はよしな。裏も返せ」と仲間がアドバイスをしたのに、その男は本命の1点勝負である。

真田は本命買いはしない。

冷ややかに見ていたら、レースの結果は案の定、車券の裏で決着した。

男は落胆しその場にしゃがみこんで、しばらく立ち上がれなくなった。

2-5の車券の配当は3倍。

男は100万円を2-5に投じたが、結果は5-2となる。

300万円を夢みて、車券は紙くずとなる。

「裏目で泣く」と言う典型的なパターンであった。

5-2は8倍の配当であったので、100万円を50万円に分けて二つの車券に賭けるべきであったわけだ。

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<参考>

 ノミ屋とは、日本に於ける公営競技などを利用して私設の投票所を開設している者のことである。

また、その行為を「ノミ(呑み)行為」と言う。 

例えば「ハズレ券の購入金額の10%を払い戻す」といった、特別なサービスを行っているノミ屋は少なくないという。

配当金の上限は100倍まで」などの制限を設けて対策している模様である。

現在ではノミ屋の排除は主催者・警察により積極的に実施されている。

そのきっかけになったのは1985年2月23日に高知競輪場の場内で発生したノミ屋の縄張り争いも一因となった暴力団抗争による発砲事件で、これにより死者2名重傷1名が出た事である。

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「短気は損気」気が短くて怒りっぽいと、自分の損になることが多いということ

2013年12 月23日 (月曜日)

創作欄 真田の人生 2)

真田は戦後、闇市から身を起こし危ない仕事や取引にも手に出したり、裏社会の人間とも繋がってきたが、一度も警察に逮捕されたことがなかった。

違法な賭博の場が警察官たちに踏み込まれた時も、裏口から逃げて無事であった。

思い返せばただ単に運が良かったのである。

身を守るために短剣を所持していた時期もある。

また、22口径の拳銃も身に忍ばせていたが、一度も使用しないですんだ。

昔の人は「短気は損気」とは言ったものだ。

激情にかれて人を殺める場合もあるだろう。

弾みが怖い。

弾みで電車に飛び込む人もいるだろう。

真田は金儲けに長けていたので、金で苦労したことがなかった。

つまり、多額の借金の経験がない。

常に100万円くらいは所持していた。

だから、どのような店へ入ろうと支払いについて頭を巡らせることがなかった。

多くの女性と深い関係になろうろ一度もトラブルはなかった。

だが、取手に移り住んだ真田は、初めてトラブルに巻き込まれた。

その男は小柄であり何時もカウンターの端に居て黙ってウイスキーを飲んでいた。

「何者かと」と真田は目にとめたが、それほど気にしなかった。

数日後、真田は取手競輪場のゴール前の正面スタンドから、男を見かけた。

男はいわゆる競輪のノミ屋であり、ファンの間を動き回りながら投票用紙と現金を受け取っていた。

真田はノミ屋が相手にする一般の客と違って、一桁車券の購入額が違っていたので、的中したらノミ屋も払い切れないであろう。

5000円単位、1万円単位で車券を投票をしていた。

的中すれば、払い戻しは数十万円になっていた。

大穴なら数百万であり、地元の銀行の帯付が付いた札束が数束、大口の専用窓口で払い戻されるので、周囲に居た者は度肝を抜かれる状態となった。

真田のようなファンは後楽園競輪場に居たが、昭和40年代の取手競輪場では見かけなかった。

真田には希な博才が備わったいたのだ。

たまには農地を売って勝負をするファンも居たが、負けて破滅していくだけであった。

「1点勝負はよしな。裏も返せ」と仲間がアドバイスをしたのに、その男は本命の1点勝負である。

真田は本命買いはしない。

冷ややかに見ていたら、レースの結果は案の定、車券の裏で決着した。

男は落胆しその場にしゃがみこんで、しばらく立ち上がれなくなった。

2-5の車券の配当は3倍。

男は100万円を2-5に投じたが、結果は5-2となる。

300万円を夢みて、車券は紙くずとなる。

「裏目で泣く」と言う典型的なパターンであった。

5-2は8倍の配当であったので、100万円を50万円に分けて二つの車券に賭けるべきであったわけだ。

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<参考>

 ノミ屋とは、日本に於ける公営競技などを利用して私設の投票所を開設している者のことである。

また、その行為を「ノミ(呑み)行為」と言う。 

例えば「ハズレ券の購入金額の10%を払い戻す」といった、特別なサービスを行っているノミ屋は少なくないという。

配当金の上限は100倍まで」などの制限を設けて対策している模様である。

現在ではノミ屋の排除は主催者・警察により積極的に実施されている。

そのきっかけになったのは1985年2月23日に高知競輪場の場内で発生したノミ屋の縄張り争いも一因となった暴力団抗争による発砲事件で、これにより死者2名重傷1名が出た事である。

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「短気は損気」気が短くて怒りっぽいと、自分の損になることが多いということ

 

 

 

 

 

 


創作欄 真田の人生

2019年06月10日 13時26分59秒 | 創作欄

2014年3 月11日 (火曜日)

生きることへの明確な意思と目的、そして新しい視点をもつ必要がある。
真田は死に囚われ人の心の病を想ってみた。
人は多くの困難を抱えているが、それを何とか乗り越えて生きてきている。
つまり、日々の厳しい現実の生活に流されているが、それ相応に何とか対応して生きている。
木村哲夫に欠如しているのは、他者を思いやる温かい心情であったと真田には思われた。
的屋の小島に誑かされ、夫と子どもを棄て家から出た初子の姿を夫の木村に見せる。
それは木村にとっては酷であったが、現実逃避の木村へのカンフル剤になると想われたのである。
「愛しているなら女房を取り返せ」真田は木村の背中を押したのである。
木村は取手に在住してから喫茶店「たまりば」、スナック「みどり」、幼稚園「ひまわり」、古本屋「本の町」、旅行代理店「世界は友」などを経営した。
さらに木村のために割烹料理店「きむら」のオープンを構想していた。
戦後の闇取引や不動産取引、株の運用などで当時10億円余を得た真田は、何とか在住した取手の活性化を念じていたので、その構想の中で木村の立場も活かしたいと念じていたのだ。
的屋の小島の女となった初子は、八坂神社の祭の露天で焼き鳥を焼いていた。
「初子」と木村は声をかけた。
初子は木村が声をかけたことに動揺したそぶりを見せない。
したたかな女に変貌していた。
木村の腰は引けていた。
そこで真田は微笑みかけた。
「初子さん、今は幸せかい?」 初子は真田の問いかけに明らかに動揺した。
「真田さん、それ以上聞かないで!」 初子は露骨に嫌な表情を浮かべた。
真田は木村の背中を押して促した。
「初子、家へ戻ってくれ」 木村の声は弱く震えていた。
「初子さん、後は心配ない。私が話をつけるからね!」
真田は言葉に力を込めたのであるが、初子は木村の力量を信じていなかった。

2014年3 月10日 (月曜日)
創作欄 真田の人生
自殺したいと思う人は、視野狭窄に陥った人でもある。
「自分以外に目を向けてこそ人は刺激や生きがいを感じるはずだ」と真田は思った。
八坂神社の祭に木村を誘ったのは、木村の妻の初子の姿を見せる意味もあった。
的屋(露天商)の女になった初子の姿を真田は度々目撃していた。
それは取手競輪場内であった。
JR取手駅東口を降りて直進、30m程先を右折した通りが「大師通り」である。
ここは、古刹「長禅寺」の門前通りとして古くから人が往来した通りだ。
駅から歩いて2、3分の距離に位置するこの通りは、昭和の時代には駅前商店街として大変賑わいをみせた通りであったあった。
取手に一時在住した作家・坂口安吾と所縁があるの海老屋酒店も大師通りに現存する。
大師通りは漬物屋の新六と地酒の田中酒造が並ぶ旧水戸街道へ続く。
この旧水戸街道と平行するのが新道である。
八坂神社の祭は新道を交通止めにして屋台が店を連ねていた。
木村の妻の初子は屋台で焼き鳥を焼いていた。
昭和20年生まれの初子はこの年、29歳であった。
初子は8歳の息子を置いて家を出ていた。
31歳の木村は的屋である40歳の小島健作に女房を寝取られた身であった。
小島は脇で的屋仲間と談笑していたが、真田と目を合わせると逃げるように姿を隠した。
「初子を家へ帰せ」と真田に言われていたのである。
戦後の闇社会にも身を置いた真田は60歳に近い年代であったが、威圧感のある存在であったのだ。
真田は競輪場では、マスターとか社長と呼ばれコーチ屋や飲み屋、ヤクザ者たちからも一目置かれている存在であった。
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<参考>
コーチ屋とは:
「次のレースは○○がくるぞ!間違いない!!相手はコレとコレや!しっかり儲けてや!」と声をかける。
コーチ屋の予想が的中すると「おい!ナンボほど買うてん?教えてやったんやから半分よこせや!」となる。

ノミ屋(ノミや)とは:

日本に於ける公営競技などを利用して私設の投票所を開設している者のことである。
また、その行為を「ノミ(呑み)行為」と言う。 

2014年3 月 9日 (日曜日)
創作欄 真田の人生 
「何とかできなかったのか?」と悔しさや落胆、心の傷などを残された者たちにもたらすでしょう。
だから、自殺は思い止まったほしいのです。真田は木村哲夫に手紙を書いた。
思えば、真田はほとんど手紙を書かない。
心は目には見えないが、真田の心を木村に届けるために手紙を書いた。
「木村哲夫様 ここ数日、見せてもらった遺書について考えてみました。
現在、哲さんはうつ状態にありますね。
うつ病は心の風邪とも言われ、誰でも罹るものです。
ですから、それに押しつぶされて死を選ぶのは、できれば避けてほしいですね。
生きてさえいれば、人生はどうにでもなると思うのです。
南の戦場で九死に一生を得た私は、死んだ戦友のためにも、また、東京大空襲で亡くなった妻子のためにも、生き続けたいと今日まで生きてきました。
つまり、儲けものような生をありがたく思って生きてきました。
自殺は自分だけの問題ではありません。
『何とかできなかったのか?』と悔しさや落胆、心の傷などを残された者たちにもたらすでしょう。
だから、自殺は思い止まったほしいのです。
哲さん何時でも相談に乗ります。
朝の散歩では八坂神社で哲さんのことを祈っています。
真田」
手紙を出してから、数日後、真田は木村を八坂神社の祭に誘った。
真田は加賀友禅の浴衣姿であった。
「俺も浴衣を着るか」と木村は笑顔で言い、部屋へ戻った。
玄関へ出てきた木村は頭に白地に藍染めの手ぬぐいを巻いて板前時代のように、粋な雰囲気であった。

 


創作欄 真田の人生 おわり

2019年06月10日 12時52分40秒 | 創作欄

2014年3 月12日 (水曜日)

創作欄 真田の人生

人を如何に励ますことができるか?

真田は思いを巡らせた。

あるいは生命をダイナミックに変革していく方途はあるのか?

死に神に取り憑かれたような虚無的な木村哲夫が、生きていくためには、夢と希望、生きがい、やりがいなどが不可欠だ。

木村に期待されるのは、「精神的回復力」「抵抗力」「復元力」「耐久力」であった。

兄に請われて、割烹料理店の板前から建築業へ転身したことが、木村の人生や生活の歯車を狂わせた。

「もう一度、木村が板前に戻ればいいのだ」と真田は思いついたのだ。

同時に家を出た木村の妻初子を呼び戻さねばならないと決意し、的屋の小島健作と交渉した。 料亭「高島」に小島は舎弟の近藤進を連れてやってきた。

小島は浴衣姿であった。

「マスターなんの用かい?」 席に着くなり小島は上目で睨むように切り出した。

「まあ、食事をしながらのことだ」真田は仲居に鰻重と刺身の盛り合わせなどを注文した。

それにビールを頼んだ。

「どうなの? 商売の方は?」穏やかな口調で問いかけた。

「ボチボチだね。マスターのような才覚が無いんで、肉体で稼いでいるよ」

舎弟の近藤はかしこまって正座のままだ。

「かたい、席ではないのだから、楽にしなさい」と真田は促したが近藤は膝を崩さなかった。 注がれたビールを小島は一気に飲み干した。

「マスターのことは競輪仲間にも聞いているが、凄いギャンブラーなんだね。この店は冷えていいや。外は暑いな。露天商は本当のところ肉体労働なんだ」小島はニヤリとしたが目は笑っていない。

「冬は寒くて大変だね」

「そう、寒くてな、でも焼き鳥だから、暖は取れるがね」 小島が真田にビールを注いた時、右手の上部の刺青が見えた。

小島は早食いであり、真田が鰻重を半分食べているともう食べ終わっていた。

ビールの後は酒にした。

小島は熱燗であり、真田と近藤は常温で日本酒を飲んだ。

真田は人づてに小島が多額の借金をしていることを聞いていた。

そこで切り出したのだ。 「初子のことだが、家へ帰してやってくれ。場合によっては手切れ金を出す」

「マスター、手切れ金。本気なのかい?」小島は頬を緩めた。

そして舎弟の近藤へ目をやった。 「証人もここにいるんだが、手切れ金をよこすんだね」

「そうしても、いいんだ」真田は穏やかに言った。

「この俺もマスターには、かなねえな。わかった」と小島は承諾した。

真田は麻のスーツから財布を取り出し、小切手を小島に示した。

「500万円?! マスター、こんなにいただいて、いいの」 小島は近藤を見ながら目を丸くした。

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<参考>

 的屋(てきや)は、縁日や盛り場などの人通りの多いところで露店や興行を営む業者のこと。

祭礼(祭り)や市や縁日などが催される、境内や参道、門前町において屋台や露店で出店。

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 レジリエンス(resilience)は「精神的回復力」「抵抗力」「復元力」「耐久力」などとも訳される心理学用語である。

心理学、精神医学の分野では訳語を用いず、そのままレジリエンス、またはレジリアンスと表記して用いることが多い。

「脆弱性 (vulnerability) 」の反対の概念であり、自発的治癒力の意味である。

元々はストレス (stress) とともに物理学の用語であった。

ストレスは「外力による歪み」を意味し、レジリエンスはそれに対して「外力による歪みを跳ね返す力」として使われ始め、精神医学では、ボナノ (Bonanno,G.) が2004年に述べた「極度の不利な状況に直面しても、正常な平衡状態を維持することができる能力」という定義が用いられることが多い。

1970年代には貧困や親の精神疾患といった不利な生活環境 (adversity) に置かれた児童に焦点を当てていたが、1980年代から2000年にかけて、成人も含めた精神疾患に対する防衛因子、抵抗力を意味する概念として徐々に注目されはじめた。

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2014年3 月13日 (木曜日)

金がすべてはないが、金で解決できることもある。

金に困ると人は犯罪者にもなりかねない。

一番安易なのは、人を殺してまで金を奪うことだ。

奪った金はわずか500円。

財布には500円しか入っていなかったのである。

「500円?! 日当にもならん。この若者は無期懲役だろう」

真田は新聞の3面記事を読んで暗澹たる気持ちになった。

「愛と慈悲」について真田は考え、図書館で宗教関係の本を探し読んでみた。

さらに「最高の善とは何か?」と考え哲学書も読んでみた。

金儲けと博打などに生活の大半を注いできた真田には、心の栄養が不足していた。

思えば映画もほとんど見なかった。

ましてや元音楽教師でありながら歌劇やコンサートとは無縁な生活を送ってきた。

真田は取手音楽クラブの創設を思い立った。

音楽で取手の街を活性化する。

取手交響楽団が誕生したらそれを経済的に支える。

あるいは多くの著名で優れた音楽家や楽団を取手に招聘する。

真田は「最高の善」は、人に感動を与えることだとと思った。

木村は割烹「きむら」で再スタートしていた。

「マスターに俺の料理を食べてもらって、こんなに嬉しいことはない」

木村の顔は温和で端正になっていた。

人間は生きがい、やりがいがあれば蘇生するのもだ。

初子も紆余曲折があったが、木村の元へ戻っていた。

「私、家へ戻れない」と初子が言うので、しばらくみどりに託した。

「マスターの頼みだもの、しばらく初子さんをあずかるわ」

姉御肌のみどりは快く初子を受け入れた。

そして半年後、木村が初子を迎えに行き心のわだかまりが解けた。

「家へ戻れる資格はないのだけれど、許してもらえるなら・・・」

「一度、死んだも同然の俺だ。何もかもマスターのおかげだ。帰ってきてくれ」

木村は畳に頭をこすりつけるようにした。

「初子さん良かったわね。いい旦那さんなのだから、大切にしてね」みどりは初子の背中を押すようにした。

 



古河市 日光街道の宿場町・古河宿

2019年06月10日 12時18分14秒 | 社会・文化・政治・経済

古河市(こがし)は、関東地方のほぼ中央、茨城県西端の県西地域に位置する市である。人口約14万人。

旧・下総国(千葉県)葛飾郡。県西地域最大の都市。
関東大都市圏であり、また昭和30年代から工業立地が進み、近隣の3町などから労働人口流入があり、本市を中心とする古河都市圏を形成している。

古河総合公園の花桃


概要
「古河」は、古く「許我」と表記され、『万葉集』に当時の情景が二首詠まれている。

すでに奈良時代から渡良瀬川の渡し場として賑わっていたことが伺える。
平安時代には、9世紀初め〜10世紀における東日本最大級の“製鉄所”(川戸台遺跡)があった。

9世紀後半の「半地下式平窯」(江口長沖窯跡)も発見されており、製鉄や窯業の生産拠点でもあった。
室町時代後期から戦国時代にかけて古河公方の本拠地、江戸時代には古河藩の城下町、日光街道の宿場町・古河宿が盛えた。
古河藩領は下総国・下野国・武蔵国に跨り、市域も下総国、千葉県を経て茨城県に編入された経緯があることから、旧常陸国、水戸街道が中心となって形成された近代以降の茨城県の県史としては傍流的な位置づけになる。
江戸時代には渡良瀬川に河岸があり水運が盛んだった。
古河は農産物の集散地となり、高瀬舟が米や野菜を利根川、江戸川を経由して江戸に運搬していた。
明治期に入ると内国通運(現在の日本通運)が蒸気船を古河と東京の間に運行していた。1885年(明治18年)東北本線、古河駅開業。県内最初の鉄道駅になった。
製糸産業が発達し人口が急増、古河町(当時)は一時期、県内で二番目の人口となった。1958年(昭和33年)に東北本線が電化され、上野まで約一時間で結ばれるようになってからは、東京のベッドタウンの役割が加わって人口が増大し、合併前には人口密度で県内第1位となった。
現在の古河市は、都心回帰の影響で東京のベッドタウンとしての役割は薄れたが、人口では土浦市に次いで県内第6位である。

古河公方公園(古河総合公園)について

日本で初の受賞となる「ユネスコ・メリナ・メルクーリ国際賞」を受賞した公園。25ヘクタールに及ぶ広大な自然の中に、四季折々に咲く美しい花々が、訪れる人を和ませる。春には矢口、源平、菊桃など5品種の花桃が咲き誇り、まさに桃源郷を思わせる情景が広がる。初夏になると、藤、菖蒲、紫陽花が見どころ。夏には古代蓮の、実を発芽させた「大賀蓮」が2,000年の時を経て、訪れる人々を楽しませている。

渡良瀬川について

利根川水系利根川支流の一級河川。アユ、ウグイ、オイカワなど41種の魚が生息している。

古河総合公園の花桃

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TOPIC 古河桃むすめが茨城県知事に「古河桃まつり」をPR... TOPIC 桃まつり開園式終了後、渡辺徹、 ... 【期間】平成31年4月1日(月)~4月7日(日)【閉園時間】午後9時【 入園料・駐車場】無料※6日、7日は古河市... イベント終了 続きを読む. 第20回 古河まくら