大田修は広告代理店の営業や印刷会社の営業などをしてきた。
あるいは小さな出版社の営業もしてきた。
上司から編集の仕事を打診されたこともあったが、文章を読むことや書くことが苦手なので断った。
ただ、世の中には自費でも本を出したい人が以外に多く、大田は依頼者の相談に乗りながら、ゴーストライターと顧客の間を繋げてきた。
ゴーストライターの一人である木嶋孝介とは同じ競馬好きであることから、意気投合して土日には競馬場へ通ったものだ。
木嶋は元は経済雑誌の記者であったが、株のインサイダー取引に関与したことで解雇された過去を持つ。
重要事実の公表直前の売買、売り要因の重要事実を知っての買付け、買い要因の重要事実を知っての売付け、あるいはスクープ記事・憶測記事などで株価に多少の影響を与えたこともあった。
木嶋は酒を飲まされ、知人などに情報を流していたのだ。
自分にはまとまった金がないので、株で儲けた人間からおこぼれを貰ってきた。
木嶋は東京・中野に住んでいたので、大田は終電を逃すと木嶋のアパートに度々泊めて貰っていた。
上野発取手行きの最終電車は24時20分であり、新宿で飲むことが多かったので木嶋のお世話になっていた。
二人はいわゆるサラ金に手を出してまで競馬をしていた。
初めは10万円を借りて儲けて、直ぐに返済したこともあったが、そうとばかりは限らない。
大田は借金が200万円に膨らん時には、どうにもならなくなり母親の千代に泣きついたのだ。
「利子ばかり、毎月払っているんだね。バカバカしい。一括で返済するんだね。これはお前のために積んだ郵便貯金だよ。大事にしな」と通帳とハンコを出した。
太田は通帳を見て目を見張った。
500万円も積まれていたのだ。
結局、親バカであることが裏目に出た。
懲りない大田は今度は300万円の借金をしていた。
また、母親に泣きついたのである。
今度は300万円を抱えた母親が街の金融機関に同行し、「2度と息子に金を貸さないようにしてくださいね」と頭を下げた。
2年後に母親が急性心筋梗塞で亡くなった。
60歳の若さであった。
大田は「親不孝」だったと葬儀の場では反省したが、さらに3年後、500万円の借金をしていた。
大田は結婚もせず32歳になっていた。
兄の勇治は歯科大学の附属病院に勤務していたが、取手駅近くのビルで矯正専門医として開業していた。
勇治の妻智子は同期生であり、小児と一般歯科をやっていた。
父親も息子の修に甘かったのである。
「競馬で金儲けなど考えるな。俺の不動産業を手伝わんか。これはお前に渡す最後の金だ」 銀行の通帳と印鑑をよこす。
そこには1500万円が積まれていた。
大田は初めて父親に謝罪し「2度と競馬はしません」と念書まで自ら書いたのだ。
兄の勇治が以前「親父、おふくろさんも修に甘い。何時までも修は頼り切るだろう。金は老後のために取っておけよ。修の借金の尻拭いはよしたらどうか」と諌めたことが大田の脳裏に浮かんだ。
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