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Peace to the pacifism world

12月20日、コザ暴動からちょうど40年

2010年12月20日 17時55分35秒 | 歴史の証言
[コザ騒動40年]今も続く理不尽な状況

 「ひんがさんきよぉー」

 殺気だった群衆の中から逃がすなと鋭い声が飛んだ。
「憲兵に車を渡すな。
糸満の二の舞いになるぞ」


 異常事態発生の情報は、瞬く間に飲み屋に広がり、午前2時を過ぎているというのに事故現場には500人余の人だかりができた。
「アメリカーたーんかい、うせーらってぃないみ」(アメリカーにばかにされてたまるか)。
「たっくるしぇー」


 群衆の中から投石が始まると、中の町派出所近くに集結していた応援のMP(米憲兵)が一斉に威嚇(いかく)発砲した。

興奮した群衆は黄色のナンバープレートをつけた外国人車両を次々にひっくり返し、車体に火を放った。
一団は胡屋十字路近くの事故現場から諸見、島袋方向に進み、別の一団は嘉手納基地の第二ゲートに向かった。


 黄色ナンバーの車だけを選んで引っ張り出し、次々にガソリンをぶっかけた。

 「したい。ゆーせーさ」。

燃え上がる炎を見てカチャーシーを踊り出す人もいた。
群衆の一部は第二ゲートを突破して米人学校に火をつけた。


 被害に遭った黄色ナンバーの車両は70台を超える。
米軍は高等弁務官の許可を得て暴動鎮圧用の催涙ガスを使い、鎮圧に乗り出した。
 

1970年12月20日。

日米両政府を震撼(しんかん)させたコザ騒動から、今日でちょうど40年になる。


 米軍基地をめぐる理不尽な状況は、解消されるどころか、深まる一方である。
コザ騒動は決して過ぎ去った過去の出来事ではない。


 当時、米兵がらみの事件・事故は日常茶飯事だった。
米兵がらみの事故はすべてMPが処理するため、交通事故の被害に遭っても泣き寝入りすることが多かった。

 糸満市で酒によって主婦をひき殺した米兵に無罪判決が言い渡されたことで、住民感情は極度に悪化していた。

コザ騒動が起きたのは、そんなころだ。
米軍兵士の乗用車が道路横断中の軍雇用員をはね、頭にけがを負わせたことがきっかけだった。


 「騒動」という言葉を使いながら、どこか引っかかりを感じるのは、混乱の中に、ある種の秩序があり、暴力性の中に、抑圧からの解放を求める民衆の希求が感じられるからだ。


 人はプライドや尊厳が傷つけられたときに、敏感に反応する。
コザ騒動は、多くのウチナーンチュの心を激しく揺さぶった。
多くの沖縄県民がその記憶を反すうしながら、普天間問題に向き合っている。


 復帰によって米軍は「基地の自由使用」の権利を確保すると同時に、基地運用によって生じる住民との摩擦の処理を日本政府にゆだねた。
しかし、日本政府には、国内法に基づいて問題を処理する十全の権利が与えられているわけではない。
地位協定によって主権行使に大きな制約を受けており、その結果、住民が著しく不利益を被っているのが現実だ。

その上、普天間問題である。


 この理不尽な状況を日米両政府は一体、いつまで放置し続けるつもりなのか。
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