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Peace to the pacifism world

コザ騒動(コザ暴動)事件

2010年12月17日 15時29分13秒 | 歴史の証言
「新たな暴動 懸念」 コザ騒動 騒乱罪見送り

当時の捜査トップ 比嘉氏証言
 

群衆が米軍人らの車両約80台を焼き打ちにした1970年12月20日のコザ騒動事件(コザ暴動)で、当時、捜査の最高責任者だった琉球高等検察庁の元検事長・比嘉良仁氏(96)が16日、那覇市内で沖縄タイムスのインタビューに応じ、騒動に加わった多くの人が立件される「騒乱罪」の適用を見送ったことについて、「革新団体や住民に手を付ければ、(新たな)暴動に発展する可能性もあった。
単なる酔っぱらい(が起こした)事件として処理した」と証言した。

 コザ騒動(コザ暴動)事件は、旧コザ市の路上で米軍人が起こした人身事故をきっかけに発生。
当時、米軍人の事件・事故が多発し、軍事裁判では「無罪」判決が続いたことから、怒った沖縄の群衆が米側車両を次々に放火した。

 琉球警察(復帰前)は騒乱罪の適用も視野に、82人を琉球検察に送検した。
比嘉氏らは罪状を細かく検証し、騒乱罪の適用を見送るとともに、10人を凶器準備集合罪や放火で起訴し、大半は罪に問わなかった。

 比嘉氏は「捜査中、活動家からは『騒乱罪適用なら殺す』との脅迫電話や、米兵らが『那覇を火の海にする』と怒っているとの報告を聞かされた。
事件に加わった人々は革新陣営にとって『英雄』、米側には『暴徒』と正反対に見えた。

 検事人生で一番難しい事件だった」と振り返った。
米軍上層部が車両の補償方針を打ち出したため、米兵らの怒りも沈静化した。

 比嘉氏は「琉球検察は米軍の傀儡(かいらい)と言う人もいたが、違う。
軍トップの圧力はなく最後まで独自に判断していた。

 コザ騒動(コザ暴動)事件も正しい判断だったと思う」と語った。

 コザ騒動(コザ暴動)事件に関する研究書の編集責任者の経験もある元沖縄市役所職員の今郁義氏(64 北谷町生涯学習プラザ館長)は「騒乱罪の不適用は住民にとって望ましい判断である一方、日本復帰後の米軍基地の安定使用が課題だった日米両政府にとっても事件の沈静化は望むところだった。
捜査当局が事件をどう見ていたのかを裏付ける当事者の証言は初めてで、40年前の政治事件を考える上で重要」と話した。
 

コザ暴動(コザぼうどう、Koza Riot)コザ騒動とは

 1970年12月20日未明に琉球政府統治下のコザ市(現在の沖縄県沖縄市)で交通事故を契機に発生した車両焼き討ち事件である。
当時の沖縄は米国民政府によるアメリカ合衆国の施政権下にあり、米軍人や軍属などが琉球人に対して行なった犯罪や事故に対して下される処罰が軽微であるとして、群衆の間に不満があったことがその背景にあるとされている。
コザ騒動(コザそうどう)、コザ事件(コザじけん)、コザ騒乱(コザそうらん)、コザ暴動(コザぼうどう)とも呼ばれる。

 コザ市(現在の沖縄県沖縄市)は戦前は越来(ごえく)村という人口7,000人ほどの農村にすぎなかったが、沖縄戦で上陸したアメリカ軍が同村字胡屋に野戦病院・物資集積所等を建設した。
その後難民収容所を開設し「キャンプ・コザ」と称し、戦後、米軍人相手の飲食街を中心として市街地が形成され、1956年に市制を施行してコザ市となった。

 当時、ベトナム戦争のさなかで戦場を行き来していた米軍人たちの消費活動は著しく、市の経済の約80%は基地に依存していたが、暴動の発生した1970年前後には年間約1,000件の外国人犯罪、年間約3,000件の交通事故があり、犯罪の中には殺人・強盗などの凶悪犯罪、交通事故の中には死亡事故も含まれていた。
しかし、米軍人・軍属による事件は被害者が琉球人であってもMPによって処理され、非公開の軍法会議において陪審制による評決が行なわれており、無罪や軽罰になる場合が多かったため、琉球の人々の間には不満が鬱積していた。

 交通事故に関して言えば、1963年2月28日に那覇市の中学生が横断歩道を横断中に赤信号を無視した米軍人の車にはねられる死亡事故があったが、加害者は軍事裁判において「夕日が信号機に当たって見えなかった」などと主張し、最終的に5月に無罪判決が言い渡された。
これに対しては琉球全土を挙げた抗議運動が展開された。

 また、1969年9月18日に糸満町(現・糸満市)の糸満ロータリー付近でアメリカ軍軍曹が泥酔運転をして、歩道を歩いていた金城トヨさんを死亡させる事故を起こした。
それに対し地元の青年たちはMPへの事故車引き渡しを拒否、地元政治組織とともに事故対策協議会を発足させ、警察を通じてアメリカ軍に対し司令官の謝罪・軍事裁判の公開・遺族への完全賠償を要求していたが、事件直前の1970年12月7日に軍事裁判は軍曹を「証拠不十分」により無罪とした。

 これらの事件が、人々の間に米軍人による事故の処理に不満を抱かせていた。
こうした感情が高まっていた1970年12月20日午前1時過ぎ、コザの中心街にある胡屋十字路から南に500メートルほどの地点で、軍雇用員の琉球人男性がアメリカ軍教務兵の運転する乗用車にはねられる事故が発生した。

 事故自体は軽微なものであったが、MPによる事故処理に不信感を持つ群衆が事故現場を取り囲み、MPによる不満を口々に叫ぶなど周囲は騒然となった。
MPは現場での取り調べをあきらめ、近くにあったコザ警察署(現沖縄警察署)に加害者を連れて行こうとした。
 
 これが群衆には加害者を隠匿するかのような行動に映り、MPと加害者を移動させまいと群衆との間でもみ合いになった。
加えて、近くでもう一件の交通事故が発生し、周囲の混乱がさらに大きくなったところでMPが群衆に対して威嚇射撃を行ない、これを契機に群衆がMPと加害者に襲いかかった。
群衆はさらに、当時色によって区別されていた米軍人・軍属用ナンバーの車両に次々と放火した。

 事件の発生に対応して、琉球警察やMPが暴動の沈静化を図ったが、午前2時半になると群衆は5,000人を超え、交番などにも投石を行ない、胡屋十字路から数百メートルのところにある嘉手納基地第2ゲートから基地内へ侵入した。
基地内ではゲートに設けられているガードボックスや米人学校が放火された。
アメリカ軍では催涙ガスを使用してそれ以上の基地内への侵入を抑えた。

 琉球政府も行政主席(本土の県知事に相当)が東京へ出張していたため、ナンバー2の行政副主席が現地に赴いて事態の収拾を図った。
そのため夜明け前に群集が家路についたため暴動は自然消滅した。

 結果、アメリカ軍人の車両70台以上が炎上し、警官5人・琉球人十数人・アメリカ兵十数人が負傷したが、民家からの略奪行為は発生しておらず、アメリカ軍のみを標的にした暴動であった。
警察は騒乱罪を適用し、バーのボーイ・マネージャー5人、工員2人、無職3人の市民10人を逮捕したが、いずれも証拠不十分で起訴されなかった。

 事件に対し、当時の日本国首相であった佐藤栄作は、このような暴力行為はアメリカ合衆国政府との沖縄返還交渉に悪影響を与えると「警告」はしたが、沖縄住民の不満を理解することは無かった。
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コザ騒動(コザ暴動)事件

2010年12月17日 15時29分13秒 | 歴史の証言
「新たな暴動 懸念」 コザ騒動 騒乱罪見送り

当時の捜査トップ 比嘉氏証言
 

群衆が米軍人らの車両約80台を焼き打ちにした1970年12月20日のコザ騒動事件(コザ暴動)で、当時、捜査の最高責任者だった琉球高等検察庁の元検事長・比嘉良仁氏(96)が16日、那覇市内で沖縄タイムスのインタビューに応じ、騒動に加わった多くの人が立件される「騒乱罪」の適用を見送ったことについて、「革新団体や住民に手を付ければ、(新たな)暴動に発展する可能性もあった。
単なる酔っぱらい(が起こした)事件として処理した」と証言した。

 コザ騒動(コザ暴動)事件は、旧コザ市の路上で米軍人が起こした人身事故をきっかけに発生。
当時、米軍人の事件・事故が多発し、軍事裁判では「無罪」判決が続いたことから、怒った沖縄の群衆が米側車両を次々に放火した。

 琉球警察(復帰前)は騒乱罪の適用も視野に、82人を琉球検察に送検した。
比嘉氏らは罪状を細かく検証し、騒乱罪の適用を見送るとともに、10人を凶器準備集合罪や放火で起訴し、大半は罪に問わなかった。

 比嘉氏は「捜査中、活動家からは『騒乱罪適用なら殺す』との脅迫電話や、米兵らが『那覇を火の海にする』と怒っているとの報告を聞かされた。
事件に加わった人々は革新陣営にとって『英雄』、米側には『暴徒』と正反対に見えた。

 検事人生で一番難しい事件だった」と振り返った。
米軍上層部が車両の補償方針を打ち出したため、米兵らの怒りも沈静化した。

 比嘉氏は「琉球検察は米軍の傀儡(かいらい)と言う人もいたが、違う。
軍トップの圧力はなく最後まで独自に判断していた。

 コザ騒動(コザ暴動)事件も正しい判断だったと思う」と語った。

 コザ騒動(コザ暴動)事件に関する研究書の編集責任者の経験もある元沖縄市役所職員の今郁義氏(64 北谷町生涯学習プラザ館長)は「騒乱罪の不適用は住民にとって望ましい判断である一方、日本復帰後の米軍基地の安定使用が課題だった日米両政府にとっても事件の沈静化は望むところだった。
捜査当局が事件をどう見ていたのかを裏付ける当事者の証言は初めてで、40年前の政治事件を考える上で重要」と話した。
 

コザ暴動(コザぼうどう、Koza Riot)コザ騒動とは

 1970年12月20日未明に琉球政府統治下のコザ市(現在の沖縄県沖縄市)で交通事故を契機に発生した車両焼き討ち事件である。
当時の沖縄は米国民政府によるアメリカ合衆国の施政権下にあり、米軍人や軍属などが琉球人に対して行なった犯罪や事故に対して下される処罰が軽微であるとして、群衆の間に不満があったことがその背景にあるとされている。
コザ騒動(コザそうどう)、コザ事件(コザじけん)、コザ騒乱(コザそうらん)、コザ暴動(コザぼうどう)とも呼ばれる。

 コザ市(現在の沖縄県沖縄市)は戦前は越来(ごえく)村という人口7,000人ほどの農村にすぎなかったが、沖縄戦で上陸したアメリカ軍が同村字胡屋に野戦病院・物資集積所等を建設した。
その後難民収容所を開設し「キャンプ・コザ」と称し、戦後、米軍人相手の飲食街を中心として市街地が形成され、1956年に市制を施行してコザ市となった。

 当時、ベトナム戦争のさなかで戦場を行き来していた米軍人たちの消費活動は著しく、市の経済の約80%は基地に依存していたが、暴動の発生した1970年前後には年間約1,000件の外国人犯罪、年間約3,000件の交通事故があり、犯罪の中には殺人・強盗などの凶悪犯罪、交通事故の中には死亡事故も含まれていた。
しかし、米軍人・軍属による事件は被害者が琉球人であってもMPによって処理され、非公開の軍法会議において陪審制による評決が行なわれており、無罪や軽罰になる場合が多かったため、琉球の人々の間には不満が鬱積していた。

 交通事故に関して言えば、1963年2月28日に那覇市の中学生が横断歩道を横断中に赤信号を無視した米軍人の車にはねられる死亡事故があったが、加害者は軍事裁判において「夕日が信号機に当たって見えなかった」などと主張し、最終的に5月に無罪判決が言い渡された。
これに対しては琉球全土を挙げた抗議運動が展開された。

 また、1969年9月18日に糸満町(現・糸満市)の糸満ロータリー付近でアメリカ軍軍曹が泥酔運転をして、歩道を歩いていた金城トヨさんを死亡させる事故を起こした。
それに対し地元の青年たちはMPへの事故車引き渡しを拒否、地元政治組織とともに事故対策協議会を発足させ、警察を通じてアメリカ軍に対し司令官の謝罪・軍事裁判の公開・遺族への完全賠償を要求していたが、事件直前の1970年12月7日に軍事裁判は軍曹を「証拠不十分」により無罪とした。

 これらの事件が、人々の間に米軍人による事故の処理に不満を抱かせていた。
こうした感情が高まっていた1970年12月20日午前1時過ぎ、コザの中心街にある胡屋十字路から南に500メートルほどの地点で、軍雇用員の琉球人男性がアメリカ軍教務兵の運転する乗用車にはねられる事故が発生した。

 事故自体は軽微なものであったが、MPによる事故処理に不信感を持つ群衆が事故現場を取り囲み、MPによる不満を口々に叫ぶなど周囲は騒然となった。
MPは現場での取り調べをあきらめ、近くにあったコザ警察署(現沖縄警察署)に加害者を連れて行こうとした。
 
 これが群衆には加害者を隠匿するかのような行動に映り、MPと加害者を移動させまいと群衆との間でもみ合いになった。
加えて、近くでもう一件の交通事故が発生し、周囲の混乱がさらに大きくなったところでMPが群衆に対して威嚇射撃を行ない、これを契機に群衆がMPと加害者に襲いかかった。
群衆はさらに、当時色によって区別されていた米軍人・軍属用ナンバーの車両に次々と放火した。

 事件の発生に対応して、琉球警察やMPが暴動の沈静化を図ったが、午前2時半になると群衆は5,000人を超え、交番などにも投石を行ない、胡屋十字路から数百メートルのところにある嘉手納基地第2ゲートから基地内へ侵入した。
基地内ではゲートに設けられているガードボックスや米人学校が放火された。
アメリカ軍では催涙ガスを使用してそれ以上の基地内への侵入を抑えた。

 琉球政府も行政主席(本土の県知事に相当)が東京へ出張していたため、ナンバー2の行政副主席が現地に赴いて事態の収拾を図った。
そのため夜明け前に群集が家路についたため暴動は自然消滅した。

 結果、アメリカ軍人の車両70台以上が炎上し、警官5人・琉球人十数人・アメリカ兵十数人が負傷したが、民家からの略奪行為は発生しておらず、アメリカ軍のみを標的にした暴動であった。
警察は騒乱罪を適用し、バーのボーイ・マネージャー5人、工員2人、無職3人の市民10人を逮捕したが、いずれも証拠不十分で起訴されなかった。

 事件に対し、当時の日本国首相であった佐藤栄作は、このような暴力行為はアメリカ合衆国政府との沖縄返還交渉に悪影響を与えると「警告」はしたが、沖縄住民の不満を理解することは無かった。
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