tokyo_mirage

東京在住・在勤、40代、男。
孤独に慣れ、馴れ、熟れながらも、まあまあ人生を楽しむの記。

吉田潮の「いいともフィナーレ」批判はなぜ的外れなのか

2014-04-06 12:11:07 | 物申す
「『いいとも』フィナーレ、壮大な内輪ウケのうんざり感と、沈む大きな船には乗らないタモリ」
(吉田潮/ライター・イラストレーター)

主要なテレビ番組はほぼすべて視聴し、「週刊新潮」などに連載を持つライター・イラストレーターの吉田潮氏が、忙しいビジネスパーソンのために、観るべきテレビ番組とその“楽しみ方”をお伝えします。

壮大な内輪ウケの1週間がようやく終わった。「タモリさん、おつかれさまでした」の言葉とは裏腹に、タモリをさしおいて自分たちの感情論と世界観を広げようと躍起になるタレントやB級アイドル、芸人たち。それがまた時代遅れというか、オワコン感もたっぷり。ホント、こういうのは打ち上げで居酒屋とかでやってくれよ、という内容だった。何がって、『笑っていいとも!グランドフィナーレ』(フジテレビ系/3月31日放送)である。

先週から最終回までの通常放送でも、記念写真撮るわ、出演者の思い入れだけで構成するわ、やりたい放題好き放題。視聴者は完全に置いてけぼり。それでも許されるのは「32年間単独司会者」「生放送8054回」という偉業があるからこそ。視聴者はこの数字によって、心のハードルを下げて、ちょっと優しい気持ちで見守るだけの余裕があったのかもしれない。好意的な目で観る人も多かったようだが、個人的にはなんかちょっと違和感。

そもそもこれだけ盛り上がるくらいなら、視聴率も取れていたはず。裏番組の『ひるおび!』(TBS系)に流れたり、『ヒルナンデス!』(日本テレビ系)派になった人が、急に「いいとも!終了」に乗じて、感動するフリをしているのだから。たぶんこういう人たちが佐村河内守のCD買ったんだろうな。

生ぬる~く見守ってきたこの1週間だが、胸のすく瞬間はあった。

まず、『いいとも!』派閥に属さないビートたけしの「猛毒表彰状」。これは外様だからこそ言えることであり、たけしだからこそ言えることでもあった。ぬるい温度でダラダラと内輪ウケしている流れに、ひと盛りの毒。かなり効果的だったと思う。

同日のテレフォンショッキングでは、たけしとタモリで、先輩・大橋巨泉に罵詈雑言。テレビ局の玄関先でやたらと先輩風を吹かせて、売れている後輩に営業する巨泉のことを「玄関先で仕事するなんて、田舎のニワトリのようだ」と評したタモリ。しみじみ。タモリのこういう表現力がハッとさせるんだよなぁ。こはぜがのどを駆け巡る瞬間、である。

●壮大な内輪ウケ感を醸し出す人々

そして、『グランドフィナーレ』で延々と同じことをしゃべる明石家さんまには辟易した。ここ10年ほど、さんまを面白いと思ったことが一度もないし、タモリをねぎらうどころか「笑いの指導」までし始める始末。タモリもそんな昔のボケ作法など覚えているはずもないし、それを強要するとは。イライラ&うんざりが頂点に達し、チャンネルを替えようかと思ったその瞬間、ダウンタウンが出てきて鋭くツッコミ。この時ほど、胸がすいたことはなかった。ありがとう、浜ちゃん!! すっきりしたわ~。この時点でたぶん多くの視聴者の溜飲が下がったと思われる。その後、爆笑問題やらとんねるずが出てきて、またうんざりが上昇しはじめたのだが。

吉永小百合が中継で出ようが、SMAPが微妙な歌声を披露しようが、特別感も感慨もなかった。涙腺もほぼ刺激されず。歴代レギュラーのスピーチも延々やることかどうか疑問。

この壮大な内輪ウケ感を醸し出した人々は、ちょっぴり終焉の信号が点滅中でもある。沈みゆく船に乗っている人々。視聴者はうすうす気づいているけれど、この船に実はタモリは乗っていない。タモリは最初っから大きな船には無関心で、無頼派。タモリだけは初めから手漕ぎの小さな救命ボートに乗って、大海に浮いているのだから。

しかし、関根勤の「芸能界的顔面オーバーリアクション愛想笑い」は職人技の域だよね。(Business Journal)



僕はあの「フィナーレ」を見ていて、しみじみ心を動かされた。
いまだに不意に「ウキウキWATCHING」が頭の中に鳴り響いてしまうことがあるくらいだ。
(YouTubeに上がっている「ウキウキWATCHING」の再生回数が、ここ何日かで激増している。
 僕と同じような喪失感を抱えている人は多いのだろう)
でも、あれに感動できなかった人に対して、「感動しないのはおかしい」などと言うつもりはない。
番組への思い入れの「個人差」の問題だからだ。
長寿番組の終焉だからって、無条件に称賛したり、感情移入したりする必要はない。
僕だって、たとえばNHKの超長寿番組『のど自慢』が終わるとしても、何の感慨ももたないだろう。
思い入れがないからだ。
だから、あの「フィナーレ」を楽しめない人だっているだろうとは思う。
何を感じるか、何を言うかは自由である。

しかし、この吉田潮のコラムについては、「的外れ」という批判が浴びせられるべきだと思う。
なにしろこのコラムは、不遜にも、「観るべきテレビ番組とその“楽しみ方”をお伝えします」
などと謳って憚らないからだ。その書き手、ましてプロの書き手ならば、
当然テレビに対する慧眼を持ち合わせていなければならないのに、
このコラムにはそれがまったく見受けられない。
ただただ、度し難い「認識のズレっぷり」への違和感が込み上げてくるのみ。

言ってみれば、このライターは、たとえば『水戸黄門』というドラマに対して、
「悪人に最初から印籠を突き付ければ簡単に解決するのに、
 終盤になるまで出さないので、無駄に1時間を過ごした」
と批判してみせたり、あるいは、プロレスに対して、
「相手にコーナートップに上がられたら避ければいいのに、その場に立ち尽くしているから、
 ミサイルキックを浴びる羽目になる。実にわざとらしい」
などと批判をしてみせ、その自分の指摘の安上がりな“正論ぶり”に酔い痴れて、悦に入っている。
そんな空気を感じるのだ。

多分このライターは、その世界ごとにある「文脈」とか「様式美」というものを理解できないのだろう。
半径数メートルにしか届かない自分のアンテナで検知できることが、自分のすべて。
これが、ズブの素人や、異文化圏から来たヨソ者の発言なら、「素朴で正直なツッコミだね」で済む話だが、
TVウォッチャーを自認してこのコラムを書いているのなら、「見識が低い」と言わざるを得ない。

「内輪受け」と彼女は批判する。

その言葉の裏には、「視聴者たる自分は、彼ら出演者とは無関係の、外側の人間である。仲間ではない」
という認識があることが前提になるわけだが、『いいとも』の32年間という放送年月、
ひとりの人間が生まれて・成長して・成熟していくに充分なほどの長い長い年月を考えれば、
自分たちもその「内輪」の同士である、という思いに駆られる視聴者が数多くいたっておかしくない。
あの「フィナーレ」にあったのは、
「あなた(出演者)は面白いショーを見せてくれる人 / 私(視聴者)はそれを享受する人」
という分断の関係ではなく、自分たちもその場の「参加者」であるかのように思えたほど、
共感の渦で渾然一体となった関係だったのだ。
それは視聴者側だけの意識ではなく、出演者側についても言える。
彼らの多くが、出演者である以前に、この番組の視聴者である時期があったはずだから。
視聴者は出演者の意識を共有でき、出演者は視聴者の意識を共有できていたのだ。

つまり『いいとも』というのは、「出演者/視聴者」「内輪/外野」という区分けが意味をなさなくなるほど、
数多くの人々の記憶に、生活に、もっと言ってしまえば「人生に」沁みわたってきた、
実に稀有な存在の番組だったのだ。
「フィナーレ」で起きていたことの表層だけを見て取れば「内輪受け」と見えてしまうことが、
「内輪受けだって別に構わないじゃないか。そもそも俺たち視聴者も、まるで『内輪』の中にいるようだし」
と温かく許容されてしまうほどの。

その「内輪」に入れず疎外感を覚えるのは勝手だが、だからと言って、
物を知らずに外野から内輪を批判してみせるのは「野暮」というものだ。
このコラムは、そのおのれの「野暮」さに気づけていない。そこがなんともイタい。
番組の32年間・8054回の連綿たる軌跡への感動と、佐村河内のチープで笑止な自己演出への感動を
同一視してみせるような粗雑な筆致にも呆れてしまう。

登場したお笑い芸人たちに対する認識も首を傾げる。

彼らはまさしく「芸人」であって、あの場で演じていることは「芸」であるのに、
どうやらこのライターはそれを「真に受けている」らしいのだ。

たけしの表彰状を「外様だからこそ言える、たけしだからこそ言える」と評している。
あのスピーチがあたかも、たけしの「純然たる本音」であるかのように見ているようだが、
たけしは表彰状を読み上げる冒頭でこう煙に巻いていたではないか。
「これはゴーストライターが書きました」と。
たけしは、「本音のスピーチをしに」あそこに来たのではない。
たけしという「役割を果たしに」、あの「芸を披露しに」あそこに来たのだ。
それが、芸人の「同士」であるタモリに対する、彼なりのはなむけである、と理解したうえで。
(もちろん、本音の垣間見えない芸が人の心を打つことはないから、
 一服の本音があのスピーチに含まれていることは間違いないが)

さんまに対する、「タモリをねぎらうどころか『笑いの指導』までし始める始末」という理解も、
見当はずれも甚だしい。
確かに、さんまが神妙に言葉を選びながら真顔でタモリをねぎらう姿も見てみたくはあるが、
それは彼のキャラクターではないし、彼に求められる芸でもない。
そのかわりにさんまは、番組の往年の名コーナーのノリをそこに再現してみせ、
ともすれば「タモリ礼賛」に転んで“こそばゆく”なりがちなあの場の空気を、
制限時間も無視したオーバーなハイテンション芸で振り払ってみせた。
それはさんまの芸の真骨頂とでも言うべきものだし、
タモリとともに「お笑いBIG3」の一翼を担う彼のポジションだからこそできたことだろう。
台本どおりの尺に整然とトークをおさめ、ADのカンペに従ってさばさばとステージを去っていくさんまを、
誰が見たいだろうか?
過剰すぎるくらいが彼の持ち味なのであって、その持ち味をここで披露しないで、
同士・タモリに対する一世一代のはなむけになろうはずもない。
(さんまのこの溢れんばかりの“サービスてんこ盛り”精神は、後に登場する松本の
 「昨日は『パッとやって、パッと帰るから』と言ってたくせに、嘘ばっか!」
 というツッコミで、さらに裏打ちされることになる)

さんまのトークに乱入した浜田のツッコミも、「ボケ」あってのツッコミ、
「ボケ」を引き立てるためのツッコミなのであって、さんまの「延々と終わらないトーク」というフリ、
客席の清水ミチコのモノマネの不発(マイクが付いていなかったから仕方がない)を見極めての
絶妙なタイミングでの登場、これらは、芸人たちのチームワークが織り成す「一連の芸」なのに、
このライターはそれを見て、ただ「イライラ」としか感じられなかったわけだ。
どうやら浜田に対して、本気で、「さんまを止めてくれてありがとう」と思っているみたい。
なんたる浅はかさか。

その後の、松本の「とんねるずが出てきたらネットが荒れる」というフリ、
それに見事呼応し、「殴り込み」をかけて登場してきたとんねるずと爆笑問題、
ゆえに成立した「奇跡のステージ」。
これは間違いなく、番組の白眉のひとつであった。
TVウォッチャーでなくとも、誰のファンとか誰のアンチとかを抜きにしても、
並みの「テレビ好き」ならみな固唾を呑んだあの場面を、
このライターは、「爆笑問題やらとんねるずが出てきて、またうんざりが上昇しはじめた」と、
(どうでもいい個人的感想を)ただ1行記すのみ。
その救い難い「読解力」の欠如については、もはや、言葉もない。
果たしてこの人にテレビを語る資格はあるのだろうか?
「自分の好き嫌いを書けば批評になる」と思っている、その程度の次元で。

極めつけの勘違いは、これである。

「この壮大な内輪ウケ感を醸し出した人々は、沈みゆく船に乗っている。
 この船にタモリは乗っていない。タモリだけは初めから救命ボートに乗っている」

僕があの「フィナーレ」でいちばん胸を打たれたことは何かと言えば、
番組の後半、共演者たちのスピーチをひとりひとり聞いていたときの、あのえも言われぬ、
タモリの表情の「優しさ」だった。
僕らはタモリと言えば、クールでドライでシニカルなところが持ち味の芸人と思っていたのに、
これほど温かく、柔和で、品があって、包容力のある、優しい表情を浮かべているなんて!

共演者たちのスピーチは続く。そこでさらに、はっと気づく。

『いいとも』のオープニングでも、『Mステ』でも、まして、『タモリ倶楽部』のオープニングでさえも、
トレードマークのように常に必ずハンドマイクを握っていたタモリさんが、
今はもう、マイクを持っていない。
タモリさんはついに「マイクを置いた」のだ!
番組は終わってしまうのだ…!

…さて、その時のタモリは、まんまと逃げおおせた「救命ボート」の上から、
「沈みゆく船」に乗り合わせた人々を冷ややかに見つめている、そんな眼差しを浮かべていただろうか?

タモリの瞳はサングラスの奥に隠れていて、その真相はわからない。
真相をサングラスの裡に秘めておくことこそが、タモリの一貫して変わらないスタイルであり、美学であり、
その意味するところは、僕らの想像に委ねられる。

でもね、吉田さんよ、あなたの目は間違いなく「節穴」だと思うよ。


<追記>

実はこの吉田潮のコラムについて、僕などが長々と反論を書く必要はなかったのだ。
反論はすべて、あの「フィナーレ」の出演者の発言の中にあったのだから。

吉田が嫌悪感しか抱けなかったドタバタ、カオス状態に対しては、勝俣州和のこの言葉が。

「スタッフに常に言われてたのは、リハ通りにやったらつまらないということですから。
 今のが『いいとも』の集大成だと思います。メチャクチャにすることが『いいとも』のライブですから」


終わることが決まっている番組に対して、視聴率がどうだの、オワコンがどうだの、
「だから終わるんじゃないか」という、反論のできないトドメを刺す批評の仕方は、
批評としてとても「はしたない」と僕は思うが、
だからこそ、「終わり」を覚悟して受け入れた、SMAP中居のこの言葉が光る。

「バラエティーって非常に残酷なものだなと思います。歌の世界にはライブの最終日があって、
 ドラマにはクランクアップがあって、映画にもオールアップがあって、
 ゴールに向かって、それを糧にして進んでいくものだと思います。
 でもバラエティーは、終わらないことを目指して進むジャンルなんじゃないかなと。
 覚悟をもたないといけないジャンルなんじゃないかなと。
 バラエティーって、ゴールのないところで終わらなければならないので、
 こんなに残酷なことがあるのかなと思います」 


そして、「沈みゆく船」だの「救命ボート」だのの比喩で何事かを言い得たつもりになって、
したり顔を浮かべているのには、鶴瓶の、的確で秀逸なこの比喩が。

「タモリさんは芸人にとって、港みたいな人なんです」

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