tokyo_mirage

東京在住・在勤、40代、男。
孤独に慣れ、馴れ、熟れながらも、まあまあ人生を楽しむの記。

朝日新聞「子どもの声は騒音か」 “粗雑で、危険”な宇野常寛の主張

2015-01-20 18:31:32 | 物申す
「声がうるさい」と保育園建設に反対が起きたり、子どもを外で遊ばせられなかったり。こんな動きが広がり、東京都は関連の条例を見直します。あなたは、うるさく感じますか?

■未来に賭ける視野ほしい 宇野常寛さん(評論家)

日本社会の世代間の断絶や劣化を思い知らされる話題ですね。僕に子どもはいませんが、同世代の友人たちが共働きをしながら子育てに奮闘している様子を間近で見て、悩みも聞いています。「子どもの声がうるさい」と苦情を寄せる人たちには、中高年層が多いと聞きます。自分の環境を静かに穏やかに保つためなら、いま育っている子どものことなんて知らないよ、って話でしょうか。

上の世代が子どもの声さえ我慢できないのは、つまり子どもを社会全体の財産とみなせないということです。自分たちの世代の利害を中心に考える、こんな姿勢がまかり通るのなら、たとえば高齢者に有利な年金制度なんか、やめるべきです。

いまの年金制度は、下の世代のクレジットカードを高齢者が使っているようなもの。個人的には不満だし、将来の年金制度の崩壊への不安もあるけど、いちおう民主国家で決められたことだから従っています。

寒々しい分断状況の根っこには、「未来に賭ける」という考え方がこの社会で愕然(がくぜん)とするほど薄れてしまった状況があるように思います。その考え方は僕たちの社会が成立する最低限のルールのはずなのに。

そうした風潮は原発問題などとも無縁ではありません。僕は、何が何でも原発反対を唱える主張とは一線を画した上で、長期的には原発を見直していくべきだと考えています。未来に負債を残すべきではないから。生まれてくる世代に少しでも良い世の中を残したいから。いまあるものを食いつぶすだけでは、社会の持続性が失われてしまうと危惧しています。

世の中すべてが近視眼的になり、小さなパイの取り合いのような議論しかできていない。50年単位で物事を考えていく長期的視野が必要です。

ただ、ここまで薄らいでしまった社会の相互理解は、すぐに修復できるものとは思えません。短期的には説得を諦めて、実際的なアプローチを試みてはどうでしょう。

たとえば、IT関連企業の従業員が加入する「IT健保」のような仕組みをイメージすればいい。加入者の平均年齢が若いため、保険料なども割安に抑えられるのがIT健保の利点のひとつですが、要は一度、子育て世代など若手世代がまとまって、相互扶助を行うことを考えていいのではないかということ。そうした動きが、政治的な圧力団体としての活動につながってもいいはずです。

こうした足場を固めた上で、自分たちの意見を広く社会や上の世代にも訴えかけて、同時に上の世代の意見も聞く。そうした試みを重ねて、ギブ・アンド・テイクの社会を取り戻すしかない。そういう局面にきているように思います。(朝日新聞 1/17)



あらかじめ言っておくが、僕はこの筆者・宇野と同世代である。
彼が攻撃するところの「高齢者」世代ではない。
したがって、「自分の世代の利害が侵されているから」という動機によって、
これから滔々と反論を記すのではない。

なんともひどい文章だと思った。

まず、「『子どもの声がうるさい』と苦情を寄せる人たちには、中高年層が多い」
というのは、正確な事実なのか。事実なら、その論拠を記すべきだろう。
なにしろ彼は、「中高年層が多い」と決めつけることで、
「高齢者に有利な年金制度なんか、やめるべき」とまで言っているのだから。

「中高年層が多い」のが事実だとして、その「中高年層」は、
相手が「子どもだから」という理由で、殊更に苦情を浴びせているのか?
もしかしたら、「コンビニにたむろする<若者>」にも同様に苦情を寄せる人かも知れないし、
「電車の中で騒ぐ<年寄り>」にも同様に苦情を寄せる人かも知れない。
もしもそうだとすれば、
「中高年層 VS. 子ども」という世代の図式だけを殊更に取り上げるのは、事実を歪ませる。

また、いわゆる「雷おやじ」「世話焼きおばさん」というのは、えてして中高年層である。
十把一絡げに「苦情」と括られている彼らの行為も、
彼らが彼らなりの“教育的指導”を発揮しているだけ、というケースも、まったくないとは言い切れない。
子どもが極端に騒げば、「コラッ!」と一喝する大人(=中高年層)というのは、昔からいたものだ。
それは、彼らなりの、子どもたちの「未来に賭け」た行為かも知れないし、
彼らなりの「社会が成立する最低限のルール」に則った行為かも知れない。
(もちろん、それがすべてとも思わない。いかにも理不尽な苦情だって、きっとあるだろうが)

宇野は「偏狭な中高年 VS. 無垢の子ども」という、
極めて単純化し、デフォルメした図式を、執拗に描き出そうとしているのだ。
僕はそこに「悪意」を感じる。
「世代間の軋轢」を、無用に煽っているからだ。
「世の中すべてが近視眼的になり、小さなパイの取り合いのような議論しかできていない」などと、
「どの口が言うか?」という気がしてしまう。
冒頭で「日本社会の世代間の断絶や劣化を思い知らされる話題ですね」などと嘆いているのも、
もはや「滑稽」としか言いようがない。

議論がアサッテの方向に飛んでいる「原発」のくだりは黙殺するにしても、
到底見過ごせないのは、「圧力団体」「ギブ・アンド・テイク」のくだりだ。

喩え話をしよう。

誰かの行為を「迷惑だ」と感じて、その行為について意見を申し入れようとするのは、
常識的な…とまでは言わないにしても、少なくとも、「理解されうる」人間のふるまいである。
そこでどれだけ平和裏に相手を説得でき、また、どれだけ自分が譲歩できるかで、
その人間の「品性」が測られるわけだ。

それに対し、誰かの行為を「迷惑だ」と感じて、
その行為とは直接関係のない「交換条件」を引き出そうとする(たとえば金品を要求する)のは、
ユスリ・タカリの「ヤクザ」のふるまいである。
言うまでもないが、そこに「品性」はない。

同様に、「子どもをうるさいと感じる人がいる」という問題が生じているなら、
「どうすればうるさくせずに済むか」、または「どうすればうるさく感じずに済むか」と考え、答えを導こうとするのが、
品性ある人間のふるまいである。

ところが、宇野の主張は違う。

彼は、子どもをうるさいと感じる中高年がいるのなら、
彼らにとって「有利な年金制度」など「やめるべき」と言い、
「子育て世代など若手世代がまとまって、相互扶助を行」って、中高年世代との対立軸を構築した上で、
「圧力団体」として活動したらどうか、と言うのだ。

他者を「敵か味方か」で塗り分け、相手を「敵」と見なせば、
問題の本質と直接関係のない「交換条件」(しかもまさしく「金目」の条件)を持ち出し、
自分の主張を通そうとする…まさに、「ヤクザ」のふるまいではないか。

金目の「圧力」で「ギブ・アンド・テイク」の落としどころを探ろうとする社会。
…なんと殺伐しているのだろう。ゾッとする。

しかも彼は、これを「皮肉」として書いているのではない。
「実際的なアプローチ」などと真顔で言っているのだ。
これのいったいどこが、「50年単位で物事を考えていく長期的視野」に当たるのだろうか?

しかし実は、この問題の核心は、宇野の主張の中身にあるのではない。
所詮それは、「彼個人の“一風変わった意見”」と片付けてしまうことが可能だからだ。

それよりも僕は、朝日新聞の「子どもの声は騒音か」という、
きわめて乱暴な争点設定こそに、実は一番の問題があるように思う。

――「こどもの声は騒音か」
この問いに、「YESかNO」で答えられるはずがない。
トラブルはあくまで個別に発生しており、それぞれに、事情も、対処法も異なるからだ。
しかし、そこに無理矢理「騒音か、否か」という2分法を持ち込み、
本来は「個別の問題」のはずの案件を、無理矢理「社会問題」として括る。
不必要にコトを大きくして、火のない所に火をつける。
そこへ現れるのが、宇野の主張のような、
おかしな「世代論」にまで敷衍してしまった議論、というわけだ。

「問題」を「提起」するのは新聞記者や評論家の職務かも知れない。
だが、「問題」を「発生」させるのは、
少なくとも“良識ある”新聞記者や評論家の職務ではないだろう。

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