tokyo_mirage

東京在住・在勤、40代、男。
孤独に慣れ、馴れ、熟れながらも、まあまあ人生を楽しむの記。

とある軽トラ生活者の奇妙な言い分(昨晩のNHK「所さん!大変ですよ」)

2017-05-26 15:55:10 | 物申す
昨晩のNHK「所さん!大変ですよ」。テーマは「人生の楽園!?謎の“改造軽トラ”」。

軽トラの荷台に載せることができる小屋を手作りする人々が増えている。
わずか1.6畳のスペースに、ベッドはもちろん、水回りや電気まで完備し、
移動しながら暮らすことができる「モバイルハウス」だ。
退職後、旅行を楽しみたくても余裕がない高齢層や、
自分の書斎が持てない中年サラリーマンなどの心をつかみ、
作り方を教えるDIY教室は、毎回、満員御礼だという。
小さな車体に多くの希望を載せた軽トラの摩訶不思議な世界。(番組HP)


この「軽トラハウス」、ホームセンターで手に入る材料で自作可能で、費用は数万円~20万円で済むらしい。
寸法と最大積載量さえクリアできれば、「車体の改造」ではなく、「貨物」という扱いになるそうだ。
退職後に日本縦断の旅に出た夫婦、ひとりの時間を確保するために書斎として使っている一家の父親など、
その用途は微笑ましい。

中にはこれを「住み家」としている人もいる。そのひとり、ある出演女性の言い分が引っかかった。

彼女は東日本大震災の時、「それまで享受してきた便利さに疑問を抱き」、
「自分の暮らしは誰かを踏み台にしている。今あるもので充分生活していける」と、
この軽トラ生活を選んだのだという。

「誰かを踏み台にしている」と悟ったから、誰にも負担をかけぬよう、
「自給自足」で自己完結できる生活を始めた…とでもいうのなら、話は分かる。
しかし、この軽トラ生活を送ることが果たして、「誰かを踏み台にしていない」ことになるのだろうか?

軽トラで道路を走ることも、行く先々で駐車スペースに車を停めて宿泊することも、
そして何より、自前の上下水道を持たない生活であるがゆえの日々の炊事や排泄も、みんな、
「誰かの負担に基づいて作られたもの」を利用しなくては成り立たないと思うのだが。

そう、彼女の言う、「今あるもので充分生活していける」の「今あるもの」とは、
「誰かの負担によって築かれた社会資本」を指すのである。
それに寄りかかることを前提とした生活というのは、「誰かを踏み台にしていない生活」どころではない。
その正反対の、「誰かを踏み台にしているからこそ成り立つ生活」、
そしてまた、「誰かから踏み台にされないように立ち回る生活」ではないか。

彼女はディレクターの前で1か月の出費を紙に書き出していき、
「わずか3万円しかかからないんですよ」と言う。
だが、その費用項目には、当然のごとく、税金も、社会保険料も書き込まれていない。
(たまにアルバイトはしているようだから、全く納税していないわけでもないだろうが、
少なくとも彼女の意識の「出費」の中には、そうした概念は含まれていないと見える)

「誰かを踏み台にした生活」がいけないと言っているのではない。
人は真の自給自足生活でも遂げない限り、誰かを踏み台にしなければ生きていけないのだから、
所詮は「程度問題」に過ぎない。
だが、「誰かを踏み台にしている」事実を批判的に捉えているのなら、
彼女は言行不一致をきたしていると思う。
猛暑の日、エアコンの効いた施設に入り込んで涼んでおきながら、
「私は電力を使う社会に疑問を感じています」と、団扇でパタパタ扇ぐ真似事をしている
…そんな感じの滑稽さを覚えるのだ。

たとえばの話、「無為徒食ですが、世間の恩沢に浴して生きています」とちゃっかり言えてしまう人間は、
図々しくはあるけれど、人によってはまあ、憎めないところもあるかも知れない。
でも、そのように生き延びるつもりなら、自分の境遇に対する一服の「含羞」は必要だろう。
「現代社会は人を踏み台にしている」と高邁な批判的御託を並べながら、
その社会の便益にはしっかりあずかって憚らない人間とは、随分と臆面もないものだよなあ、と思ってしまう。

僕は世捨て人に憧れながら、それになり切れないでいる人間だが、その自覚があるゆえに、
「エセ」の“世捨てパフォーマンス”には、このように厳しい目を注いでしまうのだ。


受動喫煙対策法で路上喫煙が増加したら元も子もない

2017-05-22 13:38:37 | 物申す
受動喫煙対策法はぜひ進めるべきだと思う。

しかし気がかりなのは、飲食店を原則禁煙とすることだ。
(30平米以下のバーやスナックは規制の例外にする、という話もある)。

これでは絶対に、「店の外で一服する」という客が続出するに違いないからだ。
その店に用はないのに、その店の前の路上を通るたびに煙を吸わされては、かえって迷惑だ。
法の施行と同時に、路上喫煙がしっかり取り締まられるようにならない限り、
喫煙者と非喫煙者のトラブルは、むしろ増えてしまうかも知れない。
(厳密な意味での「路上」に限らない。
路上に隣接する「敷地内」で喫煙されても、煙は路上にまで漂ってくる)

ならば、飲食店はすべてを禁煙にする必要はないのではないかと思う。

喫煙可能な店であることを入口に明示してもらえば、タバコ嫌いは近づかない。
そして一方で、「禁煙を明示する居酒屋」にもどんどん出てきてほしい。
両者がしっかり住み分けされるようになれば、それで充分ではないかとも思える。

ともかく、この法の施行で「路上喫煙が増加」するような事態にはさせないでほしい。
それでは元も子もない。

それから、「タバコ屋の店頭には灰皿を出して喫煙所としてよい」といったい誰が決めたのか?
あの灰皿(もっぱらJTから支給されているようだが)も、厳格に撤去させるべきだろう。


「警察は慎重に捜査を進めています」

2017-04-27 12:35:12 | 物申す
テレビのニュース原稿の結びによく使われるフレーズで、
「警察は慎重に捜査を進めています」というのがある。
あれがいつも不思議で仕方がない。
バスの運転士が「慎重に」ハンドルを握るのが当たり前なように、
警察が「慎重に」捜査を進めるのは当たり前なことではないのか?
言わずもがななことではないのか?
その対に、「警察は今回は“大胆に”捜査を進めています」という表現がありうるのなら、
敢えて「慎重に」と付け足すのもまだわかるが、あいにく「大胆に」とは聞いたことがない。

しかも、捜査の何をもって判断して「慎重に」という修飾語が付けられるのだろう?
記者は捜査の現場を観察し、「ああ、これは実に慎重なやり方だ…」と実感できる何かを得たのか?
ならば、その「慎重さ」の判断の根拠となる事柄を描写することこそが、ニュースだと思うが。
根拠が示されないまま、記者の「所感」だけ聞かされても、意味がない。
そしてもしも、ろくに現場を見ずに「慎重に」という修飾語を漫然と付与しているのなら、
それは単に、警察のやり方を無批判に認め、迎合しているだけである。
報道する側の姿勢として、実に恥ずかしい話だと思うのだが。

「警察は丁寧に捜査を進めています」というリポートがテレビから聞こえてきたら、
「えっ?『丁寧に』ってわざわざ言うのはどういう意味?」と誰しもツッコむだろう。
しかし、それとほぼ同じ意味の「慎重に」は、表現としてあまりに陳腐化しているせいか、
みんなスルーしてしまっている。

今日も能のない記者は、「警察は慎重に捜査を進めています」という結び言葉を、
深く意識せずに用いてリポートするのだろう。
その表現を無自覚に用いているかどうかで、その記者の取材力・リポート力など、知れたものである。


都電になにやら怪しげな“愛称”をつけようとしているらしい

2017-03-21 16:08:24 | 物申す
都電荒川線に愛称「東京○○トラム」…一般から意見募集

東京都交通局は3月17日、都電荒川線に愛称を付けると発表した。一般から意見を募集し、同月下旬に発表する。

都電荒川線は、三ノ輪橋(荒川区)~早稲田(新宿区)間12.2kmを結ぶ路面電車。東京都心部に残る唯一の都電だ。交通局は「都電荒川線の魅力を国内外に積極的にアピールし、さらなる利用者の誘致、沿線地域の活性化に寄与していくため、外国人を含む観光客の方にも親しみやすい愛称を付ける」として愛称を付けることにした。

発表によると、愛称は「東京○○トラム(Tokyo ×× Tram)」。「○○」はカタカナ・ひらがな、「××」はアルファベットで、「都電や沿線をイメージできるような」(交通局)複数の候補を設定。一般からの意見を参考にして決める。

候補の言葉は「ローズ(Rose)」「さくら(Sakura)」「フラワー(Flower)」「ブルーム(Bloom)」「クラシック(Classic)」「レトロ(Retro)」「ノスタルジック(Nostalgic)」「レガシー(Legacy)」の8種類。意見の応募は交通局の特設ウェブサイトで受け付けている。締切は4月7日。(レスポンス)


愛称なら「都電」がいちばん簡潔で親しみやすいだろう。
「都電」は日本にこの荒川線ただ一路線しかないわけだし。
わざわざとってつけたような新しい愛称を与える必要もない。

「外国人に親しみやすく」を狙いたいのなら、「愛称」ではなく「英訳」を決めればいいこと。
しかも、その英訳に「フラワー」だの「ノスタルジック」だのの余計な修飾語を付けて
覚えにくくさせる必要もない。
まして「レガシー」など、本気で付けようと思っているのか?
「外国人にわかりやすく」だから横文字になるわけだろうが、
当の外国人の使い勝手を第一義におくのではなく、
「日本人にも親しまれるように」、日本人に選ばせてしまうから、
外国人にはわかりにくく、日本人には親しみにくい、中途半端な代物ができあがってしまう。

だいたい、愛称とは、自然発生的に生まれるからこその「愛称」だ。
「愛称を今からこうすることに決めました」という発想自体が、ナンセンスという気がする。

「お上が決めた愛称」など、「E電」を例に出すまでもなく、定着しないに違いない。


パソコン画面に伝言メモを貼らないでほしいのだが

2017-02-01 17:38:26 | 物申す
会社のデスクで伝言メモを残されることがあるが、
付箋をパソコンの画面上に貼り付ける人がいる。
程度はともあれ、跡が付くのでやめて欲しいのだが。

「嫌でも目につき、間違いなく伝わる場所に」っていう思いでここに貼るんだろうか。
しかし、僕のデスク上は伝言メモが埋もれてしまうほど物で溢れてはいないし、
パソコンに貼るにしたって、画面ではなく、キーボード部分にすればいいと思うのだが。

画面に跡が付くことなんか気にしないし、
目の前に「これでもか」とばかりにバチーンと貼る「押しつけがましさ」も顧慮しない、
そういうガサツな人間のやることと思いきや、
意外と“エレガント風”な女子でもこれをやるんだよね。

「パソコン画面は指で触れるもんじゃない」という意識が僕にはある。
メガネをかける人間なら、「レンズを指で触らない」という意識
(というより、もはや無意識)があると思うが、それと同じ。
しかしもう、もしかすると、これは古臭いものの見方になりつつあるのかも知れない。
スマホにしても、タブレットにしても、画面を指で触りまくるもんな。

小うるさい人間とは思われたくないから、いちいち「貼らないで」と注意したりはしないけど、
釈然としないものを感じるのであった。