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カール・ゴッチ死去

2007年07月31日 | 桜庭和志
 日本のマット界、特に新日ストロングスタイル⇒UWFに大きな影響をもたらした「プロレスの神様」カール・ゴッチが、28日(日本時間29日)、自宅のある米フロリダ州タンパの病院で死去した。82歳だった。

 本名カール・イスターツ。1924年8月3日にドイツ・ハンブルクで生まれる。13歳でグレコローマンスタイルのレスリングを始め、16歳の時にアマチュアレスリング全ドイツ・ヘビー級王座を獲得、1948年ロンドン五輪にも出場した。その後、31歳でプロレス入りし、35歳で米国進出した。1962年にはAWA世界ヘビー級王座を奪取した。しかし、ファンにアピールしない地味なスタイル、それでいてストイックなファイトはプロモーターに煙たがられタイトル挑戦の機会はあまり与えられなかった。NWA世界ヘビー級王座(王者ルー・テーズ)には9度挑戦し善戦するも奪取できず「無冠の帝王」と呼ばれた。

 先ごろプロレスリング無我の最高顧問になったばかりで、代表の藤波辰爾、西村修らの筋によれば大動脈瘤破裂が死因となった模様。藤波は「今年の春、西村と酒を酌み交わしたし至って元気な様子だったので、この訃報は信じられない。すぐ西村をタンパに行かせました。」と語っている。

 1961年4月、日本プロレスに参戦するためカール・クライザーのリングネームで初来日。吉村相手に芸術品といわれた「ジャーマン・スープレクス・ホールド(原爆固め)」を初披露し日本マット界にインパクトを与えた。1968年には日本プロレスのコーチに就任。「ゴッチ教室」を開き、アントニオ猪木に卍固め、スープレクスを伝授した。「ゴッチ教室」では時間厳守で、星野勘太郎や大熊元司が時間に遅れて練習を受けられなかったことも。

 1972年1月の新日本プロレス設立に猪木に助太刀。自らメインイベントに出場し、団体の創始者アントニオ猪木をリバーススープレックスで3カウントを奪い、強い者が勝つストロングスタイルを印象付けた。

 その後はタンパの「ゴッチ道場」で木戸修、藤原喜明、藤波辰爾、長州力、佐山聡、前田日明、高田延彦、船木誠勝らを育成。“ゴッチイズム”を崇拝するものは多い。1982年1月の東京・後楽園ホールで木戸と対戦したエキシビションマッチがレスラーとして最後の試合といわれる。

 心よりご冥福をお祈りします。

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