車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

可睡斎(かすいさい)~其の一 in 静岡県袋井市

2019年03月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

袋井市久能にある「萬松山(ばんしょうざん)可睡斎(かすいさい)」。寺紋は「丸に三つ葵」。 旧遠江国の三古刹を意味する「遠州三山」の一つとして知られています。私たちは2011年11月に一度、そして御朱印を頂くため、2016年12月に二度目の参拝をしました。

由来【当寺は室町時代初期の応永年間、『恕仲天誾(にょちゅうてんぎん)禅師』によって開山され、「万松山東陽軒」と名付けたのが始まりとされている古刹です。
11代目住職『仙麟等膳(せんりんとうぜん)和尚』は、武田軍から逃れた幼い家康とその父を戦乱の中から救い出して匿い、岡崎城へと送り届けました。】

後に浜松城主となった家康は、和尚を招き旧恩を謝したのですが、すでに相当の年齢であった和尚。 なんとその席上で居眠りを・・(^^;)、周囲の空気は凍りついたでしょが、その様子を見た家康。
「和尚我を見ること愛児の如し。故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ、和尚、眠るべし」と言ったとか。
以来、和尚は「可睡和尚」と呼ばれるようになり、後に寺号も「万松山可睡斎」と改められました。

可睡斎の入り口ともいえる「総門」は、高さ・幅共に十メートル弱で、木造・瓦ぶき。 1959年の伊勢湾台風で倒壊したものの、後に再建されたと、売店に居た人が教えてくれました。
総門には「萬松山」の扁額が架けられ、天井部分には十二干支の方位版がおかれています。

右手に立派な御神木(お寺の場合は何と呼ぶ?)が聳える長い石段の先に参拝者を迎える「山門」。「山門」は禅宗寺院の七堂伽藍の一つとされており、寺院への正式な入口となります。門には「三つ葉葵」の幕が掛けられ、さらに門の両袖には阿吽の仁王像が置かれています。

山門案内に【昭和10年に当時、建築界の重鎮、特に寺社建築の泰斗であった伊東忠太博士に設計依頼しておりましたが、完成にまで至らず、76年の歳月を経てこの度、伊東忠太博士の設計図を基に平成22年に落慶致しました。】(実は、『伊東忠太』博士が関わった別の建築物が境内に存在しますが、それはまた次の項で。)

仁王は正式には「金剛力士」と呼ばれ、仏教の護法善神(守護神)である天部の一つとされます。一般的に、阿形像は怒りの表情を顕わにし、吽形像は怒りを内に秘めた表情と言われています。

まだ新しい山門の屋根には、ご亭主殿の好物(笑)の装飾瓦がいぶし銀の輝きを見せていますが・・さて、これは何と呼ぶのが正しいのでしょうか?鬼・・にも見えますが、獅子・・にも見えます。ご亭主殿に尋ねた所、「やっぱり一応は鬼じゃないの?」と、何とも曖昧なお返事(笑)。

山門を潜って右手に見る建物は、迎賓施設として使われる「瑞龍閣(ずいりゅうかく)」。木造二階建、妻入り、入母屋造桟瓦葺で下屋を廻らし、正面には唐破風玄関を構えています。 昭和12年(1937)に建築されたもので、2014年12月に、国登録有形文化財に指定されました。

山門を潜って左手に見えるのは、2008年の修復工事で移設された「可睡斎輪蔵(りんぞう)堂」

中央の心柱を支えとする八角形の回転書架には、「一切経(大蔵経)」が納められているのだとか。 信心をもってこの書架を一回転させると、一切経読誦の御利益が得られると言われています。 信心深いとはお世辞にもいえない身ですが、今は亡き大切な人の後生を願って・・・・

輪蔵堂内の正面には、輪蔵を考案した『傅大士(ふだいし)』の木像を安置。傅大士像は常に微笑の相を表していることから、 俗に「笑い仏」ともよばれています。

「僧堂」は坐禅堂とも称し、修行僧はこの一畳の畳に起居し、坐禅修行に励むのだそうです。 「今は直(じき)に今なり、一切もちゆることを必要とせずこれ単(ひとえ)なり、これを示せるは禅なり」

「僧堂」の前に建立された「慈母観音」。その慈悲の目には、どんな世界が映っているのでしょうか。

まだまだ続く「可睡斎」参拝の思い出、明日は『聖観世音』を本尊とする「本堂」から紹介です。

参拝日:2011年11月16日&2016年12月14日

 


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