発行人日記

図書出版 のぶ工房の発行人の日々です。
本をつくる話、映画や博物館、美術館やコンサートの話など。

博多港が、引揚げ港だったことを知っていますか?

2011年12月09日 | 本について
 博多駅からビルの立ち並ぶ大博通りを北に進むと、博多湾沿いに、国際センター、国際会議場、サンパレスホテル&ホール、マリンメッセなどが、一大コンベンションゾーンを構成し、大相撲やアイスショーなどのスポーツ、有名アーチストの音楽イベントや、見本市、世界規模の会議などが開催されている。すぐそばには船便としては日本一の旅客数を誇る国際旅客ターミナルがある。
 平和と繁栄の象徴のような臨海地区の、その一角に、赤いモニュメントが立っている。引揚げの記念碑である。
 海の方に、あまり行かない人であっても、福岡のテレビ電波の届くところの人には「博多通りもん」のコマーシャルで、長谷川法世さんが、博多っ子純情のキャラクター少年と話してるところに立っている赤い彫刻と言えばすぐわかる。
 博多港には、戦後、139万人に及ぶ人たちが引揚げてきた。
 139万人。
 この人数は、ちょうど2011年の国勢調査のときの奈良県の人口と同じである。奈良県の人口は、全国都道府県で30位なので、残り17県それぞれの、赤ちゃんから老人まで含めた全人口よりも多い人数である。
 それと同じ数の人々が、戦争が終わって「外地」から、博多港に還ってきた。
 
 戦争は、1945年8月15日に終わったというが、外地にいた民間人の多くにとって、この日が新たな戦争のはじまりといえた。
 その日を境に、追放されるべき侵略者として扱われ、それまで築き上げてきた生活の基盤を根こそぎ奪われ、着の身着のまま無秩序のなかに放り出され、そして引揚げ船の出る港まで、辛く長い旅をすることになったのである。空腹、寒さ、疲労、伝染病。ときに暴力や略奪。新たにはじまった「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」日々。
 人間の尊厳が集団ごと奪われ、生命そのものが危機に瀕する、という意味では、まったくもって引揚げは戦争そのものである。
 命からがら船に乗り、着いたのは空襲で焼け野原となった博多だった。
 博多に着いても、すぐ上陸できるとは限らない。コレラ患者の出た船は、全員検査の結果が出るまで上陸は延期された。そんななか、故国を目前にして自死する人もいた。
 親をなくしたり、はぐれたりした子供の中には栄養失調で死に瀕していたものもいた。大陸で混乱のなか陵辱され身体に変調をきたした女性たちもいた。
それを出迎えた人々がいた。
「なんとかしなくては」
 無事に故郷に還れた人々の多くは、新たな生活との戦いがはじまった。
 そして引揚げた人々の一部は、出迎える人々に加わった。

 たくさんの人々の並々ならぬ努力と献身があって、いまのこの国の姿があるのだということについて、私たちは知らなければならない。
 知らない人が多いのは、関心を持たれていないから、というより、関わった人々にとって、まさに「筆舌に尽くし難い」事象だからである。

 『博多港引揚』「引揚げ港・博多を考える会」監修(写真集)
 『日本に引揚げた人々』高杉志緒著(聞き書き)
  
 近日発刊。

 人々の努力と奮闘と献身、そして、混乱に巻き込まれ、生きながらえなかったすべての生命に頭を垂れる。

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3 コメント

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奇遇 (onecat01)
2017-09-08 12:56:52
管理人さん。

 初めてコメントを差し上げます。
私は三歳のとき、母に連れられ、駆逐艦萩に乗せられ、満州引揚者として、博多港に入港した者です。

 母が私の手を引き、沖合に停泊した船が陸を眺めながら、口に含んでいた梅干しの種を、デッキから飛ばしました。それが海面に落ち、沈んでいったと、そんな記憶だけが残っています。その母は現在95才です。

 あなたの写真集は、どうすれば入手できますか。またどうすれば、あなたと連絡ができるのでしょう。

 私のブログは、「ねこ庭の独り言」と申します。ご訪問いただければ幸いです。
返信する
Unknown (発行人)
2017-09-13 08:44:13
気がつくのが遅くて申し訳ありません。

現在のトップページ、8月8日の記事に、連絡先を載せています。お電話いただければ、私か編集長が出ます。

返信する
連絡がつきません。 (onecat01)
2017-09-20 15:52:49
発行人様。

 本日電話をいたしましたが、つながりませんでした。95歳の母は、最近弱っております。電話で話しましたところ、博多港の引き揚げを懐かしみ、写真があれば見たいと申しております。

 今一度、連絡方法を、私のブログのメッセージ欄でお知らせいただければ、幸いです。母に確認しましたところ、引き揚げの第一船で、駆逐艦萩だと申しておりました。
返信する

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