きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(6)・本土最後の地上戦

2013年08月15日 | 思い出探し
写真;父の遺品の樺太開拓四十年史より。終戦前の泊居町

 以前読んだ福井晴敏の小説「真夏のオリオン」(映画化された)の中に、米駆逐艦と日本潜水艦が最後の戦闘をしたのが実は8月16日で(戦争は15日で終結していた。)、それを知った両艦が戦闘をやめて、互いに敬意を表しながら別れる(祖国に戻る)シーンがあるが、これはチョッと話が美しすぎる。
情報伝達が混乱していた当時の戦場では、終戦を知らずに戦闘を継続して亡くなった兵士も多かったであろう。

毎年訪れる8月15日は決して「終戦の日」ではない。

1945年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄してソ連赤軍の日本国(満州や樺太など)への侵略・占領作戦が開始された。
8月15日の終戦の「玉音放送」後も戦闘は続いており、樺太全島のソ連軍による占領により戦闘が終了したのは8月28日ということである。つまり、終戦後2週間近く戦闘が続いていたことになる。
この戦闘が「第二次世界大戦における、日本本土最後の地上戦」であったと言われている。

 この混乱の中で多くの悲劇が生まれ、あるものは後世に伝えられ、あるものは世に知られることなく埋もれてしまった。
沖縄戦については映画やドラマや小説で後世に伝えられていることは多いと思うが、それに比較して樺太に関してはあまりにも情報が少ないのでは無いだろうか。
真岡郵便電信局で女子交換手9人が自決した悲劇(映画「樺太1945年夏、氷雪の門」樺太終戦記録などがある)、朝鮮人の殺害事件や暴動事件、引揚げ船3隻がソ連潜水艦に撃沈され多くの人が無くなった話など、一部映画化されたものはあるものの、戦闘の状況や当時樺太在住40万人の日本人に起こった様々な出来事はあまり知られていない。

 私の結婚したばかりの父母が新居を構えていた泊居町は間宮海峡に面する樺太西海岸に位置し、当時の人口は12,000人程であり、製紙工場の他、缶詰工場、ビール工場などがあったようだ。赤軍の侵攻後、近隣の町でも朝鮮人労働者の暴動があって警察官や役人などが殺害されたとか、スパイ容疑で連行された朝鮮人が警察署内で射殺されたとか、女性が暴行をうけたとか、混乱の中でいろいろなことがあったようだ。
 当時、樺太に住んでいた一般の日本人の少なからずがピストルなどで準武装していたそうであるから、混乱の中で悲惨な事件が多く起こったと推測される。

 営林署勤務の父も役人の端くれであり、近所の警察官が殺害されたりする中で、身の危険を相当感じたに違いないが、幸いにも危害を加えられることも無く、逆に赤軍が町に入ってきたときには、知り合いの朝鮮人がかくまってくれたりしたそうである。
「自分も若かったから、役人風を吹かせるようなことも無く、近所の朝鮮人たち(製紙工場などで多くの労働者が働いていた)とピンポンをして遊んだりして、分け隔てなく付き合っていたのが幸いしたのだろう。」と後年父はよく話していたが、これも子供達に聞かせるために多少は教訓的に脚色されているようで、実際は生きるか死ぬかの状況下での苦労は想像するに難くない。

 赤軍が町に入って来た時には、どうなる事かと思ったが、腕時計を取られたりの掠奪行為はあったが、危害を加えられるようなことは無かったという。
やってきた赤軍兵士は皆若くて、むしろ彼らの方がビクビクしていたそうである。

 1949年6月に国家行政組織法の施行を以って泊居町は消滅するのであるが、その時すでに父母や祖父母などの一族は樺太を引き揚げており、それぞれの落ち着き先での新たな生活が始まっていたのだった。

ちなみに、この年、昭和24年12月に群馬県沼田市で私は生まれたのです。

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