10月22日(旧暦9月15日 七赤 大安 乙巳)
こんばんは。横手市増田町の工務店、千葉建築です。
今日は法事があったため、このような時間の更新となりました。
おとといの十三夜に続いて、昨夜の小望月はきれいでした。
今日も外を見上げると、満月を見ることができます。
そうした穏やかな東北ですが、鹿児島県の奄美諸島地方で降り続いている豪雨は、犠牲者がでるとともに、電話などの通信手段が遮断され、連絡の付かない地区もあるようです。
政府もようやく救援に向けた活動を開始し、自衛隊や医療チームの派遣を行っています。
一刻も早い復旧を願いたいと思います。
日本の「首都」の話題は、以前の記事でも紹介しました。
現在は東京がそれにあたり、東京都は1300万人の人口を誇る世界屈指の大都市として存在しています。
江戸時代には江戸城に徳川将軍が在し、日本各地の大名家を管轄していました。
天皇は京都御所におわして、名目上は天皇が将軍へ政治を「委任」しているものとしていましたが、事実上は将軍が日本における統治者として、およそ260年にもわたってその地位にありました。
この時代の首都としては、京都御所のある京都がそれに当たりますが、政治・経済の中枢、都市整備の観点から観ると、すでに江戸が事実上の首都にあたっていました。
江戸時代末期になると、諸外国との条約締結に際して、手続き上で天皇の許しを得る必要があったこと、突然始まった外国との接触から、外国人を排斥しようという気運の高まり(攘夷)、諸外国に対する国力増強のため、今まで支配されていた側の地方の藩が結束へと向かい、天皇を後ろ盾として幕府に対抗しようとしたことなど、さまざまな要因から幕末・維新へと向かっていったという流れが作られていきました。
大政奉還によって明治期に江戸へ天皇が遷ったことで、名実ともに「首都=東京」という位置づけが確定しました。
さて、時代はもっとさかのぼり、784年(延暦3年)11月に、第50代天皇の桓武天皇が平城京(奈良県)から長岡京(京都南西部)へと都を遷し、その10年後の794年(延暦13年)10月22日に、現在の京都市に位置する平安京へと遷りました。
日本の歴史においては、平安時代が始まり、以後400年近くにわたって京都を中心とした政治が行われるようになりました。
今日は「平安遷都の日」という記念日となっています。
平安時代は長い期間続いたため、一言で歴史を紹介するのは難しいことですが、奈良時代から続いていた中央集権的な律令制が衰退し、朝廷から大きな権力を委譲された国司による地方分権的な政治へと移行していきました。
また、中央の貴族や大寺社、地方の有力豪族による土地の開発が進み、開発された土地は「荘園」という呼び名の大規模私有地として発展していくことになります。
地方において、武官系の貴族や新たに土地を開発した領主が武装して荘園を自衛したことが、武士の起こりの一説にもなっています。
中央でははじめ、天皇とその親類(外戚)による政治が行われ、とくに奈良時代の成立から皇室と関わりの深い藤原氏が、代々天皇の摂政・関白(補佐官)として栄華を極めた時期の後、天皇の前代の天皇(上皇)による政治(院政)へと移り変わっていきました。
平安時代末期に、皇室・摂関家の内紛から起こった武力衝突に、武士が活躍したことから、平氏・源氏を始めとする武士の中央政界進出が実現し、やがて平清盛による日本初の武家政権が成立しました。
1185年(寿永4年・元暦2年)に壇ノ浦の戦いによって平氏をたおした源頼朝が、1192年(建久3年)に征夷大将軍として鎌倉に幕府を開き、平安時代は終焉となり、鎌倉時代へと移っていきました。
昔は、鎌倉時代の始まりは1192年でしたが、平氏をたおして権力を不動のものとした1185年がその始まりという説が有力となっています。
長い時代であったことで、平安時代の文化も時期によって移り変わっていきます。
はじめは中国の唐にならい、仏僧が唐に渡って仏教を持ち帰り、最澄が天台宗、空海が真言宗を開祖しました。
894年に遣唐使が廃止されると、それまで中国に倣っていた文化から、日本独自の文化へと深化していきました。
漢字から仮名が生まれ、古今和歌集などの和歌集がつくられたり、源氏物語、枕草子、土佐日記、伊勢物語など古典の大作が著されました。
建築においては、平等院鳳凰堂や中尊寺金色堂などが造られ、建物も貴族の邸宅が「寝殿造」と言う造りで建てられました。
京都市の画然とした都市構成も、平安京の構成をそのまま残すような形で作られており、長く続いた日本の古都の面影をうかがわせる様相となっています。
京都は高校時代の修学旅行で訪れたことはありますが、高校時は世界史の専攻だったため、日本史についての知識はあまり持っていませんでした。
今度京都を訪れるときは、一つテーマを決めておいて、じっくりと歴史をたどれるようなルートを選定したいと思います。
補助金やローンなどのご相談も承ります。
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有限会社 千葉建築
〒019-0701 秋田県横手市増田町増田字伊勢堂南6-4
電話 0182-45-2325 FAX 0182-45-2304
携帯 080-1837-5342
mail kchiba@poem.ocn.ne.jp
こんばんは。横手市増田町の工務店、千葉建築です。
今日は法事があったため、このような時間の更新となりました。
おとといの十三夜に続いて、昨夜の小望月はきれいでした。
今日も外を見上げると、満月を見ることができます。
そうした穏やかな東北ですが、鹿児島県の奄美諸島地方で降り続いている豪雨は、犠牲者がでるとともに、電話などの通信手段が遮断され、連絡の付かない地区もあるようです。
政府もようやく救援に向けた活動を開始し、自衛隊や医療チームの派遣を行っています。
一刻も早い復旧を願いたいと思います。
日本の「首都」の話題は、以前の記事でも紹介しました。
現在は東京がそれにあたり、東京都は1300万人の人口を誇る世界屈指の大都市として存在しています。
江戸時代には江戸城に徳川将軍が在し、日本各地の大名家を管轄していました。
天皇は京都御所におわして、名目上は天皇が将軍へ政治を「委任」しているものとしていましたが、事実上は将軍が日本における統治者として、およそ260年にもわたってその地位にありました。
この時代の首都としては、京都御所のある京都がそれに当たりますが、政治・経済の中枢、都市整備の観点から観ると、すでに江戸が事実上の首都にあたっていました。
江戸時代末期になると、諸外国との条約締結に際して、手続き上で天皇の許しを得る必要があったこと、突然始まった外国との接触から、外国人を排斥しようという気運の高まり(攘夷)、諸外国に対する国力増強のため、今まで支配されていた側の地方の藩が結束へと向かい、天皇を後ろ盾として幕府に対抗しようとしたことなど、さまざまな要因から幕末・維新へと向かっていったという流れが作られていきました。
大政奉還によって明治期に江戸へ天皇が遷ったことで、名実ともに「首都=東京」という位置づけが確定しました。
さて、時代はもっとさかのぼり、784年(延暦3年)11月に、第50代天皇の桓武天皇が平城京(奈良県)から長岡京(京都南西部)へと都を遷し、その10年後の794年(延暦13年)10月22日に、現在の京都市に位置する平安京へと遷りました。
日本の歴史においては、平安時代が始まり、以後400年近くにわたって京都を中心とした政治が行われるようになりました。
今日は「平安遷都の日」という記念日となっています。
平安時代は長い期間続いたため、一言で歴史を紹介するのは難しいことですが、奈良時代から続いていた中央集権的な律令制が衰退し、朝廷から大きな権力を委譲された国司による地方分権的な政治へと移行していきました。
また、中央の貴族や大寺社、地方の有力豪族による土地の開発が進み、開発された土地は「荘園」という呼び名の大規模私有地として発展していくことになります。
地方において、武官系の貴族や新たに土地を開発した領主が武装して荘園を自衛したことが、武士の起こりの一説にもなっています。
中央でははじめ、天皇とその親類(外戚)による政治が行われ、とくに奈良時代の成立から皇室と関わりの深い藤原氏が、代々天皇の摂政・関白(補佐官)として栄華を極めた時期の後、天皇の前代の天皇(上皇)による政治(院政)へと移り変わっていきました。
平安時代末期に、皇室・摂関家の内紛から起こった武力衝突に、武士が活躍したことから、平氏・源氏を始めとする武士の中央政界進出が実現し、やがて平清盛による日本初の武家政権が成立しました。
1185年(寿永4年・元暦2年)に壇ノ浦の戦いによって平氏をたおした源頼朝が、1192年(建久3年)に征夷大将軍として鎌倉に幕府を開き、平安時代は終焉となり、鎌倉時代へと移っていきました。
昔は、鎌倉時代の始まりは1192年でしたが、平氏をたおして権力を不動のものとした1185年がその始まりという説が有力となっています。
長い時代であったことで、平安時代の文化も時期によって移り変わっていきます。
はじめは中国の唐にならい、仏僧が唐に渡って仏教を持ち帰り、最澄が天台宗、空海が真言宗を開祖しました。
894年に遣唐使が廃止されると、それまで中国に倣っていた文化から、日本独自の文化へと深化していきました。
漢字から仮名が生まれ、古今和歌集などの和歌集がつくられたり、源氏物語、枕草子、土佐日記、伊勢物語など古典の大作が著されました。
建築においては、平等院鳳凰堂や中尊寺金色堂などが造られ、建物も貴族の邸宅が「寝殿造」と言う造りで建てられました。
京都市の画然とした都市構成も、平安京の構成をそのまま残すような形で作られており、長く続いた日本の古都の面影をうかがわせる様相となっています。
京都は高校時代の修学旅行で訪れたことはありますが、高校時は世界史の専攻だったため、日本史についての知識はあまり持っていませんでした。
今度京都を訪れるときは、一つテーマを決めておいて、じっくりと歴史をたどれるようなルートを選定したいと思います。
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有限会社 千葉建築
〒019-0701 秋田県横手市増田町増田字伊勢堂南6-4
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