秋田県横手市増田町 千葉建築のブログ

秋田県の県南、横手市増田町の工務店、(有)千葉建築のブログです。
よろしくお願いいたします。

猛暑とエアコン

2011-06-30 18:00:53 | 建築日記
6月30日(木曜 旧暦5月29日 二黒 先負 丙辰)


こんばんは。横手市増田町の工務店、千葉建築です。


今日も蒸し暑い一日となりました。

今、消防団の大会へ向けての練習があり、私が所属する部は早朝の時間に練習していますが、ちょっと動いただけでも全身から滝のような汗が流れ出て、おかげさまで前日に飲んだビールの水分を吐き出すこととなりました。

それが良いかどうかは別として、やはり全国的に猛暑となって熱中症が多発し、さらに電力事情の切迫があって冷房の使用を控え、それがさらに暑さを助長しているような気がしています。


エアコンは、家庭の消費電力の4分の1(25%)を占めるというデータがあるように、非常に電気を使う家電製品となっています。

節電意識の高まりによって、エアコンがない時代の夏場に活躍した扇風機や団扇といったものが注目され、エアコンのスイッチを押すことが後ろめたく思う方がいらっしゃるかと思います。

しかし、最近のエアコンは以前のものに比べて省エネ効率はアップしており、さらに使い方を意識することによって、節電に気を遣いながらも快適に過ごすこともできます。


最も手軽な方法としては、やはり設定温度を冷房なら高め(28℃)、暖房ならば低め(20℃)くらいにしておくことです。

また、エアコンを使用する前に少し窓を開けて換気を行い、ある程度部屋の熱と湿気を入れ換えてから運転すると、より効果的となります。

さらに、温度が高くても湿度が低ければ「蒸し暑さ」を感じないということから、特に梅雨の中休みのような今頃の時期には、冷房で一旦空気を冷やした後は除湿運転をすることも効果的です。


ただし、除湿には「弱冷房除湿」と「再熱除湿」という2種類があり、後者は冷房よりも電力を消費します。

機種によってはこの両方の除湿を切り替えられるタイプもありますが、そうでないものもあるため、使用前に取扱説明書を読むか、メーカーに問い合わせるということも重要です。

あるいは、逐一リモコンで運転モードを切り替えるよりも、設定温度を高めにして「自動」モードで運転することのほうが、トータルで節電できる場合もあります。


また、つい忘れがちなことですが、エアコンの室内機のフィルターが汚れていないかどうかをチェックすることも重要です。

さらに、エアコンの室外機の吹き出し口の前に物が置かれていたりすると、風通しが悪くなって消費電力もアップします。

これは換気扇にも言えることであり、生活しているとつい見落としがちなことでもあります。

All About エアコン節電対策の5つのポイント



このブログでも、何度か内窓の設置についてご紹介したことがあります。

窓の断熱・気密性能を上げると、暖房効果が上がる一方で、夏場の外気からの熱もさえぎり、さらに冷房の効果も上がることとなります。

最近の住宅では、「Low-E」といったガラスもあり、種類によっては太陽からの日射熱をカットできるものもあり、これらを導入することで電力代や灯油代を抑えるという効果も期待できると思います。


日本の夏場は蒸し暑く、非常に体力を奪われやすい時期ともなっています。

昔はエアコンがなくても耐えていたといいますが、やはり35℃以上の猛暑や、40℃ちかい酷暑となると、人間の限界を超えるものであると思います。

この暑さから、去年のような記録的な酷暑となるかが頭をよぎりますが、暑いときは無理をせず、適度な休憩や水分補給をして、夏場を乗り切っていくしかないと思います。


つらいニュースが続いた2011年も、明日からは折り返し地点となります。

悪いことの後には良いことがあると思い、気持ちを盛り上げて残り半分を過ごしていくことが、一年の終わりに少しでも良い結果となるように祈りたいと思います。



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〒019-0701 秋田県横手市増田町増田字伊勢堂南6-4

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星の王子さま

2011-06-29 11:34:08 | 歴史と文化
6月29日(水曜 旧暦5月28日 一白 友引 乙卯)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。


6月も終わりとなってきました。

例年にない暑さに見舞われ、これからの盛夏に向けて不安な気持ちを抱いている方もいらっしゃるかと思います。


7月に入ると間もなく、私もまた一つ年を重ねることとなります。

年を取ると、時間の感覚が早く感じることは、身を持って体験していますが、果たして中身のほうはそれに追いついているのかと自省するところであります。

来年の7月が来たとき、僅かでも成長の証が見られるように、日々努力していきたいと思います。


誕生日というものは、この世に生を受けた人は誰しも持っているもので、暴論ではありますが、やがて訪れる死とともに貧富貴賎関係無に平等なものであると思っています。

1年365日(366日)の全てにおいて、それぞれが誰かしらの誕生日であることは、語るまででもない常識ではありますが、それは現代の有名人や過去の歴史上の人物にも当てはまり、自分の誕生日は誰かの誕生日と一緒だと知ると、良くも悪くも不思議な共通点ができたような感じがするかと思います。

もちろん、それはあくまで偶然であり、また生まれた年代が違ったり、住んでいる環境が違う人物とは何の関わりもないことは言うまででもありません。


さて、今日が誕生日となっている人物には、フランスの作家アントワーヌ・ド・サン・テグジュぺリがいます。

彼は1900年6月29日に、フランスのリヨンで生まれました。

彼の父親の家系は、はるか昔の十字軍時代から続く旧家であり、母方も過去に大司教や宮廷侍従、音楽家なども出た名家でありました。


サン・テグジュペリは、カトリック系の学校などで学び、そこで文学にも勤しみました。

やがて軍務に就くことを志願するようになり、受験に何度か失敗しつつも義務兵役を経て航空隊へと入隊し、士官となって軍用機の操縦士となりました。

軍務を退役した後、民間の航空会社へと入り、26歳のときに執筆活動を本格的に始めました。


彼は飛行士としての体験をつづった作品を発表し、1931年に出版された『夜間飛行』は、世界中で読まれるヒット作となりました。

第二次世界大戦では教官として召集されますが、彼は前線を希望して偵察隊へ属しました。

しかし、第二次世界大戦の緒戦は、破竹の勢いのナチス・ドイツにフランスまでもが降伏し、彼はアメリカへと亡命しました。


その後アメリカが大戦へと参戦し、ようやく連合国の反攻が始まると、彼は亡命先から北アフリカ戦線へと赴きました。

大戦後期となる1944年7月31日に、偵察のために単独で飛行しましたが、そのまま地中海上で行方不明となり、二度と帰還することはありませんでした。

大戦から半世紀以上が経った2003年に、彼の機体が洋上へと引き上げられたそうです。


彼の代表作は『星の王子さま(Le Petit Prince)』であり、現代でも読まれ続けている作品となっています。

有名な作品ですので、読んだ方も多いと思われますが、飛行機がサハラ砂漠に不時着した飛行士と、星間を旅してきた不思議な王子さまが出会うという話となっています。

これは、彼自身が1935年にリビア砂漠に不時着した経験から、彼自身が作中に出てくる飛行士として登場していると言われています。


この話は、タイトルからして子供向けに作られているようにも感じますが、その内容からむしろ大人が読んだほうが良い本の一つであるとされています。

全く話は変わりますが、手塚治虫の代表作でもある『火の鳥』の「望郷編(単行本版)」のラストに、『星の王子さま』の一説を朗読する場面があり、話としてもクライマックスというところでもあって、個人的にはそこを読むたびに胸が熱くなるシーンの一つとなっています。


それだけではなく、『星の王子さま』は名言の宝庫でもあり、その一つ一つを取り上げても深く印象に残るフレーズがいくつもあります。

つぶさにここで取り上げるよりも、実際に読んでいただいてそれぞれが感じていただくことが、作者のサン・テグジュペリが望んでいることかもしれません。


星の王子さま公式ホームページ

緑の部屋 サン・テグジュペリ年譜

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消防団の大会

2011-06-28 11:44:29 | 消防団と防災
6月28日(火曜 旧暦5月27日 九紫 先勝 甲寅)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。


更新をつい怠ってしまい、いつもご覧頂いている皆様に対し、非常に申し訳なく思っております。

今日からまた、出来る限り更新を続けていきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。


大雨と猛暑とが交互に続き、節電の夏は非常につらい思いをされている方も多いと思います。

先日の大雨では、秋田県内でも大きな水害となった地域もあり、ここ横手市でも土砂崩れなどが発生し、高速道路も一時通行止めとなっていました。

雄物川や皆瀬川なども増水し、茶色の濁流がその降雨量のすさまじさを物語っているように思えました。


今回の大震災と巨大津波でも分かるように、災害はいつ発生してもおかしくはありません。

それ以外にも今回の大雨や、今年の冬の大雪など、自然の脅威というものは容赦なく、時に非情とも取れるような事態を引き起こします。


また、災害には自然が起こす天災と、人為的なミスによって引き起こされる人災というものがあります。

火災はその両面の原因で起こる災害であり、一度発生すると人間の生命や財産をあっという間に奪ってしまいます。

火災はある程度予防できるものもありますが、万が一発生した場合には少しでも早く消火活動を行うことによって、延焼や全焼を免れる場合もあります。


各地には消防署が設置されており、消防隊員の方々の懸命な活動によって、被害が最小限に抑えられることがよくあります。

また、地域住民などから構成される消防団というものも、災害時の活動の際には重要な役割を果たしているといえます。

消防団には、年に一度の訓練大会があり、わが増田町では来月の7月10日にとり行われる予定となっています。


市町村合併により、わが増田町は「横手市増田消防団」という団体になっており、町の中でも地域ごとの分団と、さらに部や班などに細かく分けられています。

残念ながら、少子高齢化と人口減少によって、団員の確保というものはとても厳しい状況となっており、これからはますますそうした傾向となることが予想されています。

私の所属している部も、人数は足りておらず、日々人員確保には頭を悩ませていることも確かです。


しかし、消防団に入っていることで、他市町村の団員となっている方とも共通の話題ができますし、自分の住む地域においても、コミュニケーションのきっかけとなる場合もよくあります。

また、同じ町の中でも訪れたことの無い場所や、身近にある危険な箇所などにも注意を払うようになり、より町を注意してみるようになり、それが町に対する愛着となることもあると思います。

大会中は練習がきつい場合もありますが、その分終わった後の達成感なども、続けていける意欲となっています。


私はまだ所属して4年ほどですが、私にとって夏場の大会は、そろそろ年間のリズムとして定着しつつあります。

今年も大会まで練習を頑張り、終わった後の達成感を楽しめるようにしたいと思います。


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フランス革命と英雄⑥

2011-06-24 12:32:34 | 歴史と文化
6月24日(金曜 旧暦5月23日 五黄 先負 庚戌)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。


大雨が続いており、風も時折強く吹いています。

天候はこれからよくなっていくとのことでしたが、沖縄のほうでは台風も接近してきているとのことで、それによって梅雨前線が活発になっていく恐れもあります。


ここ何年か、梅雨時期には非常に激しい豪雨となり、それによって土砂災害や洪水も発生する地域もあります。

震災の被災地も、地震で地盤が緩んでいるところもあって、大雨の行方は非常に心配されるところです。

雨が少しでも弱まってくれることを願いたいと思います。


フランス皇帝ナポレオンは、ヨーロッパの大部分を支配化におき、支配地と同盟国に「大陸封鎖令(ベルリン勅令)」を打ち出しました。

大陸封鎖令は、イギリスの経済にダメージを与えることを目的としていましたが、すでに産業革命後のイギリス製品の流通によって人々の生活は変わっていたこともあり、民衆に不満を募らせ、さらに同盟国としてはうまみの少ない政策であり、フランスの軍事支配と共に不平の種となっていました。


こうした背景から、同盟国の中には、大陸封鎖令に違反する国が相次いでいました。

その一国が、イベリア半島のポルトガルであり、ナポレオンはこれを討伐するためにスペインに軍を派遣しました。

しかし、そこでスペイン国内での政治内紛に巻き込まれ、1808年にクーデターまで発生する事態となりました。


ナポレオンはこの事態を収拾するため、兄でナポリ王であったジョゼフを「ホセ1世」としてスペイン王位に就かせ、ホセ1世は自由主義的な改革を推し進めていきました。

これに国内の聖職者らは反発し、それに民衆も同調して、一大反ナポレオンキャンペーンへと発展しました。

こうして「スペイン独立戦争」と呼ばれる戦争が始まり、スペインはポルトガル、イギリスと連合を組み、フランスへ対抗しました。


イギリスはフランスとの戦争において、海戦ではフランスを何度も退けていましたが、陸戦では決め手を欠き、フランスに押されていました。

後にワーテルローでも活躍する、イギリスの名将・ウェリントン公率いる軍勢は、半島の民衆によるゲリラ戦を指揮してフランスを苦しめました。

この戦争は6年にもわたる長期戦となり、1813年にはホセ1世も退位し、戦いを通じてフランスは国力が疲弊し、スペイン側も国土が徹底的に荒廃してその後も内戦が続き、ラテンアメリカ(南米)の植民地が次々と独立してしまう事態となっていきました。


スペイン情勢が泥沼化の展望となるのを見たオーストリアは、1809年にイギリスと第5次対仏大同盟を組んで、フランスへ反攻を開始しました。

フランスは敗北と勝利を繰り返しながら、辛くもオーストリアを下し、再び和約を結んで大同盟を崩壊させます。

このとき、ナポレオンは妻ジョゼフィーヌと離婚し、オーストリア外相のメッテルニヒの仲介もあって、オーストリア皇女のマリー・ルイーズと再婚しました。


大陸封鎖令以降、産業革命で発展したイギリスの代わりを、フランスが勤めるのには無理があり、ヨーロッパ全体の経済は悪化していきました。

ついに大国ロシア帝国も、この令に反対してイギリスとの交易を再開しました。

1812年5月、フランスはロシアに対して大軍で押しかける「ロシア遠征」が始まりました。


ナポレオンのフランスと、支配地と同盟国との軍勢は60万を超え、そのうち半分近くは同盟国からの兵士で構成されていました。

対するロシア側は20万であり、フランスは重装備でロシア軍を即決で倒すため、行軍スピードを速め、モスクワを9月に陥落させました。


ロシア軍は退却を繰り返しながら、退却する際に田畑や家屋を焼き払っていきました。

広大なるロシアの大地の奥深くにまで引き込まれる形となったフランス側は、伸びきった補給路と、現地での徴発ができない状態に悩まされました。

モスクワに到達した際、フランス側はたいした戦闘をしていないにもかかわらず、飢えと疲労で兵力は11万まで激減していました。


ここで再三にわたってロシア皇帝に降伏を促しましたが、ロシア側からは一向に返答がありませんでした。

そうした中の10月半ばに、モスクワに初雪が降りました。

初夏に行軍を開始し、速攻でロシアを下そうと考えていたフランス側は、冬を越える装備など当然用意しておらず、結局撤退を余儀なくされました。


11月には、気温は氷点下をはるかに超え、軍馬の食料も尽きる中で、ロシア側のコサック騎兵がフランス撤退軍を容赦なく攻め立てました。

ナポレオンもいち早く帰国し、12月に軍勢はロシア領から撤退を終えました。

60万の軍勢は、帰国した兵はわずか5千人を数えるほどであり、ナポレオンはその野望と共に完膚なきまでに叩きのめされることとなりました。


ロシア遠征の大敗により、対フランスに対して再び包囲網が築かれました。

1813年2月、プロイセンの呼びかけで、ロシアとオーストリア、イギリスらは「第6次対仏大同盟」を組み、それにかつての部下が王太子となっていたスウェーデン、ナポレオンによって成立させられたライン同盟も加わり、ナポレオンに対して総攻撃を行いました。

ロシアで失った軍勢を、新兵を中心に立て直していたフランスは、劣勢に追い込まれていきました。


1813年10月、ライプチヒにおける連合国との決戦は、フランスの敗北に終わりました。

1814年3月末には、ついにパリも陥落し、側近にも見限られてナポレオンは無条件で退位させられ、彼は故郷コルシカ島そばのエルバ島へと追放させられました。

フランスではブルボン朝のルイ18世が即位し、フランス革命が起こる以前の状態へ戻ろうとしていました。


ナポレオンによる各国との戦争の中で、すでに名前だけでありながら中世より長い歴史を続けていた神聖ローマ帝国もなくなっており、戦後のヨーロッパ大陸の秩序を話し合う「ウィーン会議」が開かれました。

「会議は踊る、されど進まず」という、各国の利害がひしめく中で、会議は長引いていました。

さらに、革命によって一度自由を知り、再び前時代的な王政が復活したフランスでは、民衆の不満は高くなっていました。


そういった情勢の変化を感じたナポレオンは、エルバ島から脱出しフランスへと戻りました。

民衆は彼を歓迎して、ルイ18世から捕縛のために送られた軍勢は、そのままナポレオンの旗下となり、その軍勢はパリへ向かうほどに大きくなっていきました。

1815年3月、新国王ルイ18世は逃亡し、ナポレオンは帝位へ復帰しました。


すぐさま周辺国は「第7次対仏大同盟」を組んでフランスを包囲し、ナポレオンは最後の戦いを繰り広げることとなりました。

緒戦では勝利し、ナポレオンの影響の強さを証明していましたが、6月18日の「ワーテルローの戦い」によって、プロイセンとイギリスの連合軍に完敗し、「百日天下」は終焉しました。

ナポレオンはイギリス領の南太平洋の孤島・セントヘレナ島へ流され、わずかな従者とイギリス軍の厳しい監視の元で病を得、1821年5月5日に壮絶なる51歳の生涯を終えました。


ナポレオンは最期に、「フランス、軍隊」と途切れ途切れにつぶやき、かつての妻であった「ジョゼフィーヌ」の名も口にしたとされています。

ロシア遠征の失敗とエルバ島への流刑後、ジョゼフィーヌは間もなく肺炎で亡くなっていましたが、彼女の最期の言葉も「ナポレオン」であったという説もあります。

軍人として華々しく表舞台へ立ち、フランス革命後の混乱を収拾してヨーロッパに新たな秩序をもたらしたナポレオンは、同時に諸国との戦争によって、自国民と周辺国民へ多くの血を流させました。


その一方で、ナポレオンは民衆と軍人、小規模のブルジョワの人々の厚い支持を受け、各国との戦争でフランス革命の思想が各国に輸出されるという面をもたらしました。

ナポレオン法典は修正を加えながら、各国の近代的法体制の基礎となり、それははるか極東の日本にも波及したともいわれています。

また、ナポレオンが完全に失脚した後、フランスでは再び王政に戻り、1830年にブルジョワ主体による「フランス7月革命」が起こり、さらに1848年には労働者が主体となった「フランス2月革命」が起こり、フランスは「第二共和政」という政体へと変遷をしていくこととなりました。


しかし、フランス第二共和政も、ナポレオンに対する国民の敬慕の意思を利用する形で、ナポレオンの甥であるルイ・ナポレオンがナポレオン3世として帝位についたことでわずか4年で終焉し、1852年からはフランスは「第二帝政」へと移り変わっていきました。

各国の動きとしては、ナポレオン後に成立したヨーロッパの秩序(ウィーン体制)の中で、完全に抑制された自由主義と民族自決は、フランス2月革命でヨーロッパ全土へ波及していきました。

ウィーン体制の崩壊によるドイツやオーストリアでの政変、イタリア統一やクリミア戦争など、ここから第一次世界大戦前まで続いていく世界秩序へも影響を与えることとなりました。


そうした中で、ナポレオンの遺骸は1840年にセントヘレナ島より返還され、すでに完成していたエトワール凱旋門をくぐってパリへと帰還し、遺体はアンバリッド廃兵院に安置されました。

この廃兵院はエッフェル塔の近くに存在し、「太陽王」ルイ14世の時代に、戦争で傷ついた兵士のための病院として建てられました。

「愛するフランス国民に見守られ、セーヌ川のほとりで眠りたい」という遺言が刻まれた碑とともに、6重の層でできた棺の中で現在でも眠っています。


フランス革命からナポレオンの話をしてきましたが、こうした激動する時代の中で多くの人物が活躍し、あるいは志半ばで消えていきました。

最終的にフランス革命の「実」を取ったナポレオンも、その栄枯盛衰を歴史に刻んでいくこととなりました。

仮定の話になりますが、歴史に名を残した人物は、その人がどの時代で生まれても名を残すとは限らず、その人物が生きた時代背景や周囲の環境というものに左右され、「なるべくしてなった」というよりも、「そうせざるを得なかった」という状況にいて、結果として名を残した、という側面もあるかと思います。


歴史に「もし」は禁物ですが、もしフランス革命が無かったらナポレオンも一軍人として終わっていたかもしれませんし、ルイ16世やマリー・アントワネット、ロベスピエールらも断頭台で命を落とすことも無かったのかもしれません。

また、教科書に書かれていない民衆の一人ひとりも、同時にこの時代の主人公であるともいえ、それは現代に生きている我々にも、歴史に対しての責任と義務を負っていることだと思っています。

革命の発生も英雄の登場も、突発的に起こるものではないことをあらためて思いつつ、もっと掘り下げて学んでいきたいと思います。

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フランス革命と英雄⑤

2011-06-23 09:17:10 | 歴史と文化
6月23日(木曜 旧暦5月22日 四緑 友引 己酉)


こんにちは。横手市増田町の工務店、千葉建築です。


朝起きると、かなりの雨が降っていました。

今週はずっと雨マークがついている予報でしたので、事故などに十分に注意したいと思います。


さて、フランス革命とナポレオンの話題も、そろそろ終わらせていきたいと思います。

1804年12月に、ノートルダム大聖堂で戴冠式を行った「人民の王」ナポレオン1世は、ローマ教皇ピウス7世の前で、「自らの手で」冠をかぶり、宗教的権威も自らの制御下に置くという意思を表しました。

明けて1805年には、アミアンの和約を破棄して海上封鎖を行い、フランスの経済に打撃を与えていた仇敵イギリスを下すため、ドーバー海峡のフランス側に大軍を結集させました。


イギリスは、ナポレオン1世の軍事行動を警戒し、ロシア帝国、オーストリア帝国(神聖ローマ帝国)、ナポリ王国、スウェーデン王国と「第3次対仏大同盟」を組みました。

プロイセンは、フランス側、大同盟側のどちらにも付かず、中立の立場をとりました。

結局、軍事の天才ナポレオンをもってしても、大英帝国の海軍を破ることはできず、1805年10月の名将ネルソン提督との「トラファルガーの海戦」でフランスは大敗して制海権を失い、フランスはイギリス侵攻を諦めざるを得ませんでした。


しかし、大陸ではバイエルン公国領内・シュツットガルトのウルムにてオーストリア軍を破り、ウィーンを陥落させました。

さらに、現在のチェコ領内で12月2日に行われた「アウステルリッツ三帝会戦」にて、フランス皇帝ナポレオン1世と、神聖ローマ皇帝(オーストリア)フランツ2世と同盟軍のロシア皇帝アレクサンドル1世とが激突し、フランス軍の勝利に終わりました。

ロシア帝アレクサンドル1世はほうほうの体で逃げ帰り、神聖ローマ帝フランツ2世は降伏しました。


ナポレオン1世とフランツ2世は、「プレスブルクの和約」を結び、フランスへの多額の賠償金と領土の割譲を認めさせ、北イタリアにナポレオン1世が成立させた「イタリア王国」を承認させるなど、大陸におけるフランスの優位は確実なものとなりました。

1806年、この勝利を受けて、ナポレオンはパリのシャンゼリゼ通りに「エトワール凱旋門」を建造させることを命じました。

ちなみに、30年後に完成したこの凱旋門は、ナポレオンは生きている間にくぐることはできず、死後1840年にパリに改葬されたときにようやくその下を通ることができた、というエピソードがあります。


ナポレオンは、兄ジョゼフをナポリ王に、弟ルイをオランダ王に就け、神聖ローマ帝国の領土に「ライン同盟」を結成させ、その覇権はプロイセンに大いなる脅威を与えました。

ロシアのアレクサンドル1世は、プロイセンとイギリス、ザクセン王国などと「第4次対仏大同盟」を組み、1806年10月から再び戦端が開かれました。

プロイセンは、イエナ・アウエルシュタットの両戦いでフランスに大敗し、ベルリンは陥落し、プロイセン王フリードリヒ・ビルヘルム3世は東プロイセン(ポーランド・ロシア・リトアニア領の一部)へ逃れました。


神聖ローマ帝のフランツ2世は、すでに形骸化していた神聖ローマ帝国皇帝の座を退き、長きに渡った神聖ローマ帝国は消滅し、自身は領土のオーストリアとハンガリー王国を「オーストリア帝国」として帝位に付き、またメッテルニヒを大使として登用し、彼は後の「ウィーン会議」で大きな活躍をすることとなります。

軍事的に攻略が困難なイギリスには、経済に打撃を与えるために大陸封鎖令を布告し、イギリスと大陸との貿易を禁止しました。

ロシアとプロイセンとの連合とは、1807年から戦争を行い、苦戦しながらも6月のフリートラントの戦いでフランスが大勝して、テルジット条約を結んでロシアと講和しました。


プロイセンは領土が半分に削られてしまい、また消滅していたポーランドは独立を回復しました。

スウェーデンには、フランスの軍人ベルナドットを王位継承者として送り込み、彼は後にカール14世ヨハンとして王位に付き、現在もこの王室の流れは続いています。

デンマークもフランスと同盟を結び、ヨーロッパはほぼ全土がフランスの支配圏となりました。


すでにその権勢と実力は最高潮となっており、その勢いで1806年からはスペインへと触手を伸ばしました。

しかし、ここからナポレオンのフランス帝国の斜陽期が始まったともいえ、対ナポレオンへの各国の動きが活発となっていき、さらに1812年のロシア遠征で、各国とのナポレオン戦争は一大転機を迎えることとなっていきます。


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