秋田県横手市増田町 千葉建築のブログ

秋田県の県南、横手市増田町の工務店、(有)千葉建築のブログです。
よろしくお願いいたします。

土砂災害について

2016-06-30 07:18:21 | 消防団と防災
6月30日(旧暦5月26日 干支=癸未 九星=八白 六曜=赤口)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。

6月最後の日は、薄曇りの朝となりました。

梅雨空か晴天の繰り返しが続き、なかなか洗濯物を干すタイミングも難しいかと思います。


秋田県はそのような状況ですが、九州の豪雨被害は土砂災害を引き起こし、各地で被害が発生しています。

近年では、平成26年8月の広島での土砂災害に見られるように、短期間での集中豪雨で大規模な土砂災害となるケースが発生しています。

気象庁でも、特別警報や土砂災害警戒情報を発表し、自治体も避難勧告を発令することで、災害から少しでも人命を守る体制を作っていますが、前例や予想もつかない雨量だったり、あるいは情報の遅れや伝達方法など、課題はたくさんあるものと思います。


土砂災害は、土石流やがけ崩れ、地滑りなど、山に面した急斜面や低い土地などで発生しやすく、または地震などで地盤が緩んでいる地域もそのリスクがあります。

山が多く、地震や台風の多く発生する日本列島は、地理的・気候的な要因で、他国と比べても被害が発生しやすいといえます。

古来より、水害や土砂災害の発生は繰り返し起こっており、地名や住所にその名残が見られたり、あるいは伝承によって警鐘を訴えているところもあります。

そのリスクのある個所は、全国で53万か所に上るともいわれています。

政府広報オンライン 土砂災害の危険個所は全国で53万か所!


上記のリンクでも紹介していますが、災害から身を守るためには、

1、自分の住んでいるところが土砂災害危険個所か確認すること

2、雨が降り出したら、土砂災害警戒情報に注意すること

3、2が発令されたら、すみやかに避難すること

が挙げられています。

国土交通省 各都道府県が公開している土砂災害危険個所と土砂災害警戒区域


梅雨入りする6月は、土砂災害防止月間となっているそうです。

6月は今日で終わりですが、明日からも意識をしていきましょう。


補助金やローンなどのご相談も承ります。
お問い合わせ先

有限会社 千葉建築

〒019-0701 秋田県横手市増田町増田字伊勢堂南6-4

電話 0182-45-2325 FAX  0182-45-2304
携帯 080-1837-5342

mail kchiba@poem.ocn.ne.jp


4人はアイドル

2016-06-29 04:58:26 | こよみ
6月29日(旧暦5月25日 干支=壬午 九星=九柴 六曜=大安)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。

晴れやかな朝となりました。

ところによっては大雨だったりと、今年は毎日のように天気が様変わりしています。

荒れない天候を願いたいと思います。


20日前、6月9日の記事は、ロックについてでした。

私は楽器が弾けませんので、偉そうなことや音楽の専門知識は全くありません。

洋楽も英語がよくわからないので、カラオケでも適当にごまかして歌っています。


洋楽は高校時代、たしか2年になろうとした辺りから聴き始め、東京へ居た時期は学校が水道橋でしたので、神田神保町の中古レコード店などに足しげく通い、ジャケット買いや聞いたことのあるアーティスト名を頼りに購入し、少しずつその数を増やしました。

全くのにわかでしたので、はじめは知ったかぶりをしていましたが、洋楽好きの佐野くんをはじめ、友人からいろいろと教えてもらったりしたおかげで、結構な額がCDに変わってしまいました。

現在は、itunesにそれらをまとめ、あるいはダウンロード購入が多くなってしまいましたが、たまにamazonなどで購入したアルバムを、自作のCDラックに突っ込んで、一人で悦に浸るという、はたから見れば気持ち悪い趣味を持っています。


その中でも、ザ・ビートルズの赤盤・青盤は、かなりの頻度で聴いていたと思います。

さすがに曲順を全部答えなさいとか、全タイトルを歌えといわれれば少し困りますが、私自身好きなバンドの一つであり、言うまでもなく全世界規模でももっとも有名なバンドといっても過言でないと思います。

今日は50年前の1966年に、そのビートルズが来日した日となっています。


6月27日、世界ツアーのオープニングのドイツ公演を終えたビートルズは、日本航空の412便に乗り、日本へ向けて出発します。

翌日到着のはずでしたが、台風の影響でアラスカ州アンカレジにて待機し、到着はその翌日にずれ込みました。


6月29日、午前3時39分、羽田空港。

ポール・マッカートニー、ジョン・レノン、リンゴ・スター、ジョージ・ハリスン。

4人の世界のスーパースターが、到着した日航機のタラップから手を振りながら降り立ちました。

彼らは、日航から送られたハッピをまとい、報道関係者の前でその姿を披露しました。

この様子は、昭和の何大ニュースという番組で、おそらく何度かご覧になったかと思います。


彼らはそのままピンクの1959年式キャデラックへ乗りこみ、滑走路から直接高速道路を通って、宿泊先の永田町・ヒルトンホテルへと走りました。

この間、交通規制によって車を一切通さず、マネージャーのブライアン・エプスタインは「日本は車が無いな」とまで言ったそうです。


翌6月30日、夕方17時、公演会場の日本武道館が開場しました。

世界規模のアイドルグループであったビートルズは、これまでも公演先の各地で熱狂的なファンの騒動がついてまわりました。

皇居の近くにある武道館での、海外バンドでの演奏を快く思わない団体の脅迫などもあったため、多数の警官と機動隊、装甲車やパトカーが付近に配置され、周囲の警備に当たりました。

会場内の警備の数も、観客1万人に対して3千人。

まさに厳戒態勢でした。


前座が始まり、いよいよ次は!という時に現れたのは、あのザ・ドリフターズというのは、有名な話です。

1時間半もの前座が終わり、19時半過ぎ、ついにビートルズのライブが始まりました。

「Rock And Roll Music」から「I'm Down」までの11曲、会場は熱狂のるつぼとなった、とは言えず、あまりの厳戒態勢のためか、アリーナには客を入れず、観客は立ち上がることすら止められ、手拍子足踏みも起こらない、静かなライブとなったそうです。

メンバーも当初はその静かさに驚きつつも、自分たちの演奏の音がよく聞こえ、音の外れなども確認できたくらいだそうです。

静かながら、観客は演奏を聴き入り、その姿はメンバーにも好意的に受け入れられたそうです。


7月2日まで、3度のライブが行われ、その間メンバーはホテルに缶詰め状態でした。

ホテル内には、メンバーのために日本のお土産コーナーが設けられるなど、厳戒態勢の中でも何とかしてもてなしを行おうとしました。

ただし、ジョンとポールはこっそり外出し、警官に見つかってほどなくホテルに戻されたそうです。

雑誌の取材に応じたとき、ジョンとポールは漫画「おそ松くん」のイヤミのシェーのポーズをするなど、窮屈な中でも印象的な場面を残してくれました。

しかし、やはり自由の利かない立場から、相当なストレスが溜まっていた様子も、数少ない記録の中でうかがえました。


7月3日、羽田に集まったファン2千人は追い返され、1千人の警備の警官に見送られながら、午前10時43分、次の公演先のフィリピンに向けて、日航機が離陸しました。

その後、この4人がそろって日本に降り立つことは2度とありませんでした。


1970年4月10日、ポールがビートルズを脱退。

ビートルズは解散し、ソロとなったジョンは、オノ・ヨーコと共に幾度か日本を訪れます。

しかし1980年12月8日、ニューヨークのダコタ・ハウス前で、ジョンは凶弾に倒れ、帰らぬ人となりました。

その時、病院のスピーカーからは、バンド時代の楽曲「All My Loving」が流れていたとされています。


ビートルズの楽曲で、何が一番好きだろうという話題があれば、私はその時々の気分で違う曲を答えます。

忙しいときは「Help!」。

帰り道なら「Get Back」。

明日の段取りが決まってないときは「Tomorrow Never Knows」。

ギターが鳴いているときは「While My Guitar Gently Weeps」。

初心に帰りたいときは「I Saw Her Standing There」…きりがないので、やめておきます。


私物です。イエローサブマリンがありませんでした。


補助金やローンなどのご相談も承ります。
お問い合わせ先

有限会社 千葉建築

〒019-0701 秋田県横手市増田町増田字伊勢堂南6-4

電話 0182-45-2325 FAX  0182-45-2304
携帯 080-1837-5342

mail kchiba@poem.ocn.ne.jp


ホースを干す

2016-06-28 06:06:00 | 消防団と防災
6月28日(旧暦5月24日 干支=辛巳 九星=一白 六曜=大安)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。

今日は記事の前に、皆様にお詫びを申し上げたいと思います。

facebookを始めたのですが、初期設定が良く分からず、無差別に通知を行ってしまいました。

申し訳ございませんでした。


今日はふざけたタイトルのように思えますが、記事はちゃんとした内容にしたいと思います。

昨日はあまり天気が良かったので、仕事を一時サボり抜けて、街を歩きました。



この時期は、横手市のいたるところでこの風景を見るはずです。

すぐにわかる人は今の時期、本当にお疲れ様です。



消防団の増田大会まで、あと一週間を切りました。

小型ポンプ操法に用いる消防ホースも、練習のたびにこうしてつりさげ、表面を乾燥させて巻きなおします。

私の所属する横手市増田消防団第1分団第2部は、増田の街中地区の半分が活動エリアであり、増田小学校の裏門の一角にポンプ置き場があります。


1年に1度の消防訓練大会は、ポンプを使って火を消す「小型ポンプ操法」と、団員の集団行動の基本となる行進を行う「規律訓練」があり、ところによっては「ポンプ車操法」がこれに加わります。

現場に行ったときの器具の取り扱いや、指示系統の確認などが主な目的だと思いますが、大会ではこれに評点やタイムがつけられ、それで順位がつけられます。

各地区の各競技で1位になったところは、横手市の大会に出場することになり、市で優勝するとさらに上の県大会に出場することになります。


消防団に入ってもう8年ほどになりましたが、大会前のこの時期に関してはだいぶ慣れてきて、寝不足なのを除けばつらいことはありません。

しかし、まだまだ実際の火災現場に行くと、戸惑うことが多いです。


火災現場は住宅地であったり、農作業小屋であったり、あるいは原野火災や山火事、車両火災などがありますし、人命がうしなわれるケースもあります。

もちろん火災は昼夜を問いませんし、同じ日に連続して発生する場合もあります。

水利をどこからとるか、火をどこから消していくか、危険物や倒れそうなものはないか、自分の身は守れるかなど、その場で判断が求められるケースが多くあります。


そうした中で、火事の現場に行くと、他の部の団員の方々がいて、共に聞いたり手伝ったりしあったりと、自然と連携が取れて行く時もあります。

そういったときは、団員でよかったと思い、緊迫した現場でも一つ安心感を感じる時があります。

または、同じ町に住んでいながら、まだまだ自分の知らないところも多くあるため、現場近くの団員の方がいると、現場の状況もよく知ることができます。


現在、私の部も人員が足りなく、また会社勤めで日中の出動が難しいケースもあって、現場には数人しか行けない場合もあります。

訓練大会も、規律訓練の人員が全く足りず、少ない部同士で人を貸し借りしたりと、団員の負担も大きくなっています。

40を目前としている私が、部では下から数えて2番目ですので、高齢化も進んでいます。

街にいる若い人に、「俺と一緒に消防しない?」と誘うのですが、ほとんど返事は「ノー」であります。


消防団に入っていて大変なこともありますが、私としては自分の街により愛着が生まれますし、仕事においても火災に関してより配慮する設計など、良い面もそれ以上にあると思っています。

何よりも、団員同士で同じ町や、あるいはほかの町の方々とも意識を共有できますし、その話で盛り上がれることが一番大きいかと思います。


先月末の日曜日、街並みを見るために岩手の住田町に行ってきました。

住田町へ着いたのが、11時過ぎでした。

街を歩こうとすると、消防団の制服を着た人々に出会いました。

その中にちょうど観光協会の方がおられたので、街を少し案内してもらいました。


話しながら歩いているうちに、住田町の消防の大会が一週間後にあるとのことで、練習後のお昼を食べるところだったそうです。

ここまで来たなら、沿岸部の方にも行きたくなり、再びオートバイのエンジンを掛けて東へ走り始めました。


住田町から陸前高田までは、車でわずか15分程度の距離です。

その間、至る所に消防団員が集まっていました。

仲間同士で楽しそうに笑っているその姿は、横手でもごくありふれた風景でした。


自分の街を自分で守る。

東日本大震災のとき、大津波で多くの消防団員が犠牲になりました。

陸前高田では、震災で1700人以上が亡くなり、その中で51人の消防団員が殉職したそうです。


陸前高田の沿岸に残る、被災した建物には、津波の到達高さが記されています。

その高さは14メートルを超え、建物の5階にまで達していました。

巨大津波が押し寄せる、一刻も早く自らも避難すべき状況の中、自分の地元を守るためという意識、強い使命感のもとであったことを考えると、同じ団員として涙が出る思いがします。


消防団は、基本ボランティアです。

ただし、特別職の地方公務員という位置づけがなされており、出動手当や公務災害による補償が市町村から受けられます。

事業所によっては、消防団活動を後押しするため、勤務時間内での災害発生時に出動を認めてくれる制度もあります。

また、全国的に女性の消防団員も増えていますが、横手ではまだ周知されていないところも、課題であると思います。

横手市 消防団員を募集しています


当たり前のように過ごしている日常。

歴史を刻む街並み。

素晴らしき自然と、丹精込められた農作物。

いつも顔を合わせ、声を交わす人々。

家族や友人、恋人。

自分が生まれ育ち、現在働き住んでいる街を、ともに守る力になること。

そういった気持ちを共有できる仲間が、一人でも増えてくれれば、ありがたいなあと、青空にたなびくホースを見てそう思いました。





補助金やローンなどのご相談も承ります。
お問い合わせ先

有限会社 千葉建築

〒019-0701 秋田県横手市増田町増田字伊勢堂南6-4

電話 0182-45-2325 FAX  0182-45-2304
携帯 080-1837-5342

mail kchiba@poem.ocn.ne.jp


あやめまつりイン平鹿

2016-06-27 06:29:57 | 横手市 増田町
6月27日(旧暦5月23日 干支=庚辰 九星=二黒 六曜=仏滅)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。


久々に青空の朝となりました。

パソコンの前にいると、スズメのさえずりが心地よく、彼らもまたこの晴天を喜んでいるのかもしれません。



6月も今週で終わります。

水田の稲も碧さが増しているようで、黄金色になる収穫期まで順調に育ってもらいたいと思います。




昨日は日曜日で現場は休みでしたが、私も仕事をせず、他のことをしに行っていました。

増田のお隣の横手市平鹿町にて、あやめまつりが行われていたため、そちらへお邪魔しつつ、8月16日に行われる「第30回全日本元祖たらいこぎ選手権」のPRをしてまいりました。


第35回浅舞公園あやめまつり



梅雨空のあいにくの天候でしたが、あやめは見どころでした。

公園内にも、多くの家族連れや愛好家の方々が訪れていて、9時過ぎには第1第2駐車場までいっぱいになっていました。

わがよこて市商工会青年部の平鹿の部員も、飲食ブースや運営の方で慌ただしく動いている中、増田の変な連中を受け入れていただきました。

ありがとうございました!



たらいこぎのPRキャラ、カッパーズのうち、あおがっぱはキュウリの摘み取り作業のため欠席したので、やむなくももがっぱのみ出席となりました。




ももがっぱ


PRは、おおむね成功といえるでしょう。

みての通り、不気味さと可愛さの両方を兼ね備えていますので、子供たちに大人気でした。

何人かに泣かれてしまったのは秘密です。


このあと、増田のふれあいプラザで行われた、地域センターまつりにもPRに行ってまいりました。

あいにく写真を撮り忘れてしまいましたので、様子を紹介することはできませんでしたが、これもよいPRだったと思います。


たらいこぎは今年で30回。

実行委員長の笹くんの年齢と同じだけ続いてきました。

そろそろ、このたらいこぎを、国の無形文化財にしてもよいと思っています。

8月16日、真人公園でともに熱い夏を楽しみましょう!


ももがっぱの中身?何のことでしょうか。

その質問は一切受け付けませんので、何卒ご了承ください。

たらいこぎ実行委員会ブログ

増田町観光協会 たらいこぎ


補助金やローンなどのご相談も承ります。
お問い合わせ先

有限会社 千葉建築

〒019-0701 秋田県横手市増田町増田字伊勢堂南6-4

電話 0182-45-2325 FAX  0182-45-2304
携帯 080-1837-5342

mail kchiba@poem.ocn.ne.jp


世界格闘技の日

2016-06-26 07:32:30 | スポーツ
6月26日(旧暦5月22日 干支=己卯 九星=三碧 六曜=友引)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。

今年は梅雨らしい梅雨というか、雨が例年と比べて強いように思います。

日本各地でところによっては非常に激しい雨となったり、農作物の生育に影響が出てくる恐れもあるので、十分な警戒が必要となりそうです。


昨日は、長嶋茂雄の天覧試合の話でした。

長嶋茂雄は1936年2月20日生まれですが、この2月20日にはもう一人偉大な人物の誕生日になっています。

それは、アントニオ猪木です。


アントニオ猪木こと猪木寛至は、1943年2月20日に神奈川県横浜市で生まれ、13歳のころに祖父や兄弟らとともにブラジルへ移民します。

コーヒー農園での過酷な労働のかたわらで、砲丸投げに熱中し、陸上選手として大会に出ていたところ、ブラジル興業で訪れていた力道山の目にとまり、そのままスカウトを受け、1960年に日本プロレスにてデビューを果たします。

この同日にデビューした新人には、元巨人・大洋の投手であったジャイアント馬場がいました。


彼が大型スター候補として期待されていたのに対して、猪木は力道山の付け人として身の回りを世話し、時に厳しい仕打ちを受けました。

1963年、巨星・力道山が急死し、日本のプロレスは大きな危機を迎えます。

1966年、猪木は先輩の豊登と東京プロレスを立ち上げますが、わずかな間に倒産、再び日本プロレスへ戻り、馬場とタッグを組んで日本プロレスの2大エースとして活躍します。

しかし、1971年に猪木は日本プロレスから追放処分を受けてしまいます。


翌1972年、猪木は新団体「新日本プロレス」を旗揚げし、それに次ぐ形で馬場も日本プロレスを退団、「全日本プロレス」を立ち上げ、2人のエースは2団体の代表となりました。

馬場の全日本プロレスが、アメリカのバリバリの大物レスラーを招聘し、スケールの大きい試合を行う一方で、猪木の新日本プロレスは大物を呼べず、興業は苦戦していました。

その中で、タイガー・ジット・シンやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなどの名の知られていない外国人レスラーを発掘して育て、特にシンと猪木の遺恨マッチは、新日本プロレスに大きな関心を与えるきっかけとなりました。


また、プロレスこそ最強の格闘技として、異種格闘技戦を行い、各国の大物格闘家との試合はそのたびに大きな注目を浴びることとなりました。

中でも、先日亡くなったプロボクシング・ヘビー級王者モハメッド・アリとの対決は、世界中に衝撃を与えるものとなりました。

今日は、1976年に「猪木対アリ」が行われた日として、今年からは認定された記念日となりました。


キンシャサの奇跡で、フォアマンからヘビー級のタイトルを奪取したアリは、そのビッグマウスでこう言いました。

「東洋人でだれか俺に挑戦するやつはいないか」と。

それに、猪木は名乗りを挙げます。


一人の無名の日本人プロレスラーの挑戦は、ばかげたものとして相手にされませんでした。

しかし、猪木はミュンヘン五輪柔道無差別級・重量級金メダルのウィリアム・ルスカに勝利するなど、自身のアピールを強引に行い、アリに交渉のテーブルにつかせるまでになります。

この時点で、猪木・アリ戦は、絵空事でなくなっていました。


1976年6月16日、ボクシング世界ヘビー級王者モハメッド・アリが、羽田空港へ降り立ちました。

猪木との格闘技戦は、ほぼ実現のものとなり、日本のプロレスファンの熱狂はうなぎのぼりとなりました。

6月20日、後楽園ホールで公開スパーリングが行われ、猪木のその真剣なしぐさに、アリは「これはエキシビジョンでない」と警戒し始めました。


6月26日。

ついに世界が注目する、世紀の一戦が日本武道館で始まりました。

ゴングが鳴ると、猪木はアリの足元をめがけて滑り込みながら蹴りを放ち、あおむけに寝転んだままアリの方へ足を上げ、蹴り込むタイミングを見計らいます。

アリは猪木に立ち上がれとグラブを振り、猪木はその後も幾度も低い体勢でアリの足を蹴り込みながら、リング中央に寝ころびます。


ボクシングとプロレス。

両方の派手な技の攻防はほとんど見られず、会場も、テレビ中継も、ボクサーの立ち姿とレスラーの寝姿のにらみ合いをずっと見続ける形となりました。

やがて、3分15Rの試合終了のゴングが鳴り、世紀の一戦は幕を閉じました。


こうした試合が行われた背景には、アリサイドの「猪木のレスリング」を警戒し、ほとんどのプロレス技が禁じられたルールであったことが大きいとされています。

その中で猪木はアリに64発のキックを放ち、アリの足に重傷を与えて入院させ、猪木もまた足を骨折するなど、両者の激戦のダメージは大きなものでした。

しかし、派手な両者のぶつかり合いへの期待は裏切られ、引き分けに終わった猪木・アリ戦は、世紀の凡戦として酷評されます。

猪木サイドにはマッチメイクにかけた莫大な借金が残る一方で、猪木と新日本プロレスの名は世界へと広まり、パキスタンの英雄アクラム・ペールワンとの格闘技戦や、ヨーロッパ遠征への道筋へとつながっていきました。


猪木・アリ戦は失敗したとされる一方で、猪木の異種格闘技路線は、その後のUWFやシュート・ボクシングなどの設立に大きな影響を与え、既存のプロレスの選択肢を広げる形となっていきました。

大山倍達の極真空手の流れをくむ正道会館ではK-1が立ち上がり、プロレスのリングに空手・キックボクシング競技者が上がる道筋を作りました。

その中で、アメリカで行われたUFCでは、プロレスラーやキックボクサーらを抑えて、ブラジリアン柔術のホイス・グレイシーが優勝し、その後も日本ではヒクソン・グレイシーが高田延彦や船木誠勝を破るなど、プロレス界にとってグレイシーはトラウマに等しくなっていました。


その中、2000年5月に行われたPRIDEグランプリ決勝戦において、ホイスと桜庭和志の一戦が時間無制限の特別ルールで行われました。

柔術道着を着たホイスは、得意の寝技に持ち込むようにリング状にあおむけになり、対する桜庭は立ち姿勢でホイスの隙を伺います。

ホイスが猪木、桜庭はアリのような状態で膠着したと思えば、今度は桜庭がホイスを攻めていきます。

桜庭はホイスの道着の裾をつかみ、左の太ももに強烈なローキックを放ちます。

あるいは、寝ているホイスの顔面をめがけて、桜庭は踏みつぶすようにキックを放つなど、予想もしない攻めを繰り出していきます。

やがてホイスの動きは止まり、試合は6R90分が終わって、両選手がリングサイドへ下がりました。

7R開始前、ホイスサイドからリングへタオルが投入され、桜庭の勝利がコールされました。


この試合は、東京にいるときにPPVでリアルタイムで観ていました。

とんでもないものを観た気がして、異常な興奮状態となっていたと思います。


現在では、一時の総合格闘技ブームも終わり、またプロレスもかなり細分化されたことから、テレビのゴールデンタイムで観る機会もめったになくなりました。

しかし、観客の前で鍛え上げた肉体同士がぶつかり合い、互いのプライドをかけて技を出し合うという戦いは、観る者に感動と興奮を与えてくれるものだと思っています。


怪我や痛みを抱えながらも、激しいトレーニングで体を作り、毎日観客のためにリングに上がり、相手の技を受けきって己のパフォーマンスを誇示するプロレスラーの姿には、いつも尊敬の念を感じています。

実際の試合会場に行くと、打撃で肉体を打つ音や、リングマットにたたきつけられる音、観客の息をのむ音や拍手と歓声、スポットライトのまぶしさなど、テレビでは味わえない魅力がたくさんあります。

後楽園ホールにも、久々に行きたくなりました。

語りだせばきりがないので、そろそろ閉じたいと思います。

<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/RRQDl7doF98" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

補助金やローンなどのご相談も承ります。
お問い合わせ先

有限会社 千葉建築

〒019-0701 秋田県横手市増田町増田字伊勢堂南6-4

電話 0182-45-2325 FAX  0182-45-2304
携帯 080-1837-5342

mail kchiba@poem.ocn.ne.jp