秋田県横手市増田町 千葉建築のブログ

秋田県の県南、横手市増田町の工務店、(有)千葉建築のブログです。
よろしくお願いいたします。

台風への備え

2016-08-30 07:45:01 | 消防団と防災
8月30日(旧暦7月28日 干支=甲申 九星=一白 六曜=仏滅)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。

台風10号が東北太平洋側に上陸することが、ほぼ確定となりました。

昨晩より風が常に舞っており、これから徐々に非常に激しい雨風にまみえるとのことです。


今、作業場周りや現場の飛散物が出ないように段取りをしています。

今夜は夜通し警戒する必要もあるかもしれません。

万全の備えとはいかないにしても、被害が最小限ですむことを願いたいと思います。


補助金やローンなどのご相談も承ります。
お問い合わせ先

有限会社 千葉建築

〒019-0701 秋田県横手市増田町増田字伊勢堂南6-4

電話 0182-45-2325 FAX  0182-45-2304
携帯 080-1837-5342

mail kchiba@poem.ocn.ne.jp




秋田県の日に思うこと

2016-08-29 09:12:08 | こよみ
8月29日(旧暦7月27日 干支=癸未 九星=二黒 六曜=先負)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。

朝晩の涼風が、秋の訪れを感じさせます。





果物も、初夏のサクランボ、盛夏のスイカ、晩夏のモモときて、今はブドウが並ぶようになってきました。

そうした中で、現在気になるのは、台風10号の進路です。

めずらしい進路を通る大型の台風は、そうした実りを容赦なく持っていく恐れがあります。

果樹農家の方々が、リンゴの早生品種を早めに刈り取るなどの対策に追われているという話も聞いております。

被害が少しでも少なくなることを願っています。


さて、今日は「秋田県の日」です。

明治維新後の廃藩置県で、初めて「秋田県」という名称が使われた日を、今の暦に直すと8月29日に当たるため、この日を記念日としたそうです。

という記事を、すでに過去にしておりますので、よろしければ以下のリンクをご覧ください。

2010年8月29日 秋田県の日


この記事を書いてから6年、秋田県での生活を積み重ねてきました。

相変わらず、秋田県は全国のトップを走り続けています。

人口減少率、少子高齢化率、自殺率、基準地価下落率(住宅・商業共)、婚姻件数は全国最下位、がん死亡率は全国トップです。


今更、これに関して良し悪しを語るつもりはありません。

個人的には、「最低・最悪」は、上にあがる余地があると言い換えるようにしています。

ただしそれには、現実から目をそらさないこと、変えたいと思い続けることが条件だと思います。


「どうせ」とか「でもさ」と前置きして、「変わるはずない」「無駄だよ」と続けてないでしょうか。

最低最悪のままあきらめて、変わる気がないなら、そのままでいましょう。

私は嫌です。


昔に比べて、ボウリング場やゲームセンターなどの遊ぶ場所はなくなっており、パチンコ店もなくなるところも出てきています。

子供たちが外で遊んでいたり、学生が寄り道したり、若い人たちが夜遊んだり飲んだりする姿は、あまり目につきません。

私が過ごしてきた時代に比べて、娯楽が変わってきたのかな、と感じています。


今年、私は38歳になりました。

40歳、不惑を目前にして、いまだに迷いの多い状態ですが、一つだけ自分の方針を決めてあります。

それは、「楽しく、面白く」を常に中心に添えるということです。


マイナスの感情は、常に後ろ向きの気持ちしか呼びません。

それがリスクを考えたり、問題点の洗い出しをする上では大切だと思いますが、マイナスのままでは前に進めません。

マイナスをプラスにするにはどうしたらよいか。

そこに、楽しさや面白さを「まじめに」盛り込むことで、プラスに変えるための「気づき」を見つけたり、前向きな気持ちの維持ができると思っています。


楽観的、という言葉とは、少し違うかもしれません。

楽しくするにはどうしたらよいか、もう少し面白くする方法はないか、と、常に感覚を研ぎ澄ます必要がありますし、それに対する責任がなければならないと思います。

自分が面白く、なおかつ他人を楽しませるということは、本当に難しいことだと思います。


「じゃあどうすればよいのさ」と言われたとき、一度一緒に考えてみましょう。

思ったことは口にすればよいですが、思いやりを忘れないようにしたいと思いますので、その節は何卒よろしくお願いいたします。

補助金やローンなどのご相談も承ります。
お問い合わせ先

有限会社 千葉建築

〒019-0701 秋田県横手市増田町増田字伊勢堂南6-4

電話 0182-45-2325 FAX  0182-45-2304
携帯 080-1837-5342

mail kchiba@poem.ocn.ne.jp




養生訓

2016-08-27 06:06:32 | 歴史と文化
8月27日(旧暦7月25日 干支=辛巳 九星=四緑 六曜=先勝)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。

大雨洪水警報が出るほどの天候から、ようやく落ち着きを取り戻しました。

今日は大曲の花火もあります。

ところどころぬかるんでいるところもあると思いますので、お出かけの方は充分に歩きやすい格好をなさるとよいでしょう。


小中学校の夏休みも終わりました。

子供たちは、たくさんの思い出を作って再び学校生活に入ったと思います。

親御さんたちにとっては、毎日家に子供たちがいる生活がひと段落し、あわただしさから解放された感を持つ方もいらっしゃるでしょう。


暑さも続くことから、疲れも溜まっている時期かと思います。

私も普段の眠気から、より一層の眠さを感じる毎日であり、ろくに仕事をしているわけでないのに、疲れだけは人一倍感じています。


疲労回復には、休養と栄養が大切と言われます。

かといって、浴びるほど酒を飲んで爆睡するのは、決してよいこととは言えないでしょう。

そうした悩みは、古来より続くものであったようで、江戸時代には『養生訓』という健康書がありました。

今日は、その『養生訓』を著した、貝原益軒(えきけん)の忌日に当たります。


貝原益軒は1630年(寛永7年)、筑前福岡藩士のもとに生まれ、そのまま藩士として就職します。

一度は藩主の怒りをかってクビを切られ(物理的ではなく)ましたが、のちに許されて藩医となりました。

京都に留学して儒学(朱子学)を学び、藩へ帰ってからは儒学の先生となり、朝鮮通信使の任や、隣の佐賀藩との国境争いを解決するなど、重役をこなしていきました。

70歳に藩士として現役を引退したのちは、著述業に専念します。

主なものは、先の『養生訓』の他に、以下のものがあります。

・『大和本草』…生物学・農学書の大傑作

・『和俗童子訓』…幼児教育の重要性を著した、教育書の大傑作

・『大和廻(和州巡覧記)』…京都から吉野への旅行ガイドブックの大傑作

当時の平均寿命が35歳のときに、益軒は84歳もの長寿を全うしました。


益軒の健康の秘訣は、現代でも通用するものでしょう。

食に関しては、「腹八分で抑え、ゆっくり食べて肥満を防止する」「味付けは薄めで、脂っこいのはNG」「大豆製品を食べよう」といったものです。

甘いもの、辛いもの、しょっぱいもの、苦いもの、酸っぱいもののうち、同じ系列の食べ物は食べすぎない、とも言います。

睡眠に関しては、「長く寝ればいいものでなく、質のよい睡眠なら短時間でもよい」「昼寝は横にならず、腰かけてうたた寝がよい」などがあります。

また、悩みを減らすこと、欲を少なくすることなど、ストレスが健康に悪いことにも言及しています。


ちなみに、益軒はきゅうりについてある言及をしています。

「ウリの中で下等で、苦くてまずいうえに、ちょっと毒がある」と称しており、進んで食べるべきでない、と評価しています。

きゅうり好きの私にとっては、聞き捨てならない評ですが、幕末にきゅうりの品種改良がおこなわれるまでは、人気のある野菜ではなかったといえます。

また、きゅうりは体を冷やすため、なるべく体を冷やさないように心がけるという、益軒のポリシーに反するところが、きゅうりを悪者にしたとも言えるでしょう。


同じく、「毒多くて能無し。植えるべからず、食べるべからず」と、きゅうりをぼろくそに評した人がいます。

『大日本史』の編纂や、日本で初めてラーメンを食べたり、あるいは諸国漫遊をしたり、東京ドームの下に地下闘技場を作った人の先祖だったり…。

徳川光圀、別名水戸黄門も、きゅうりが嫌いだったのでしょう。


補助金やローンなどのご相談も承ります。
お問い合わせ先

有限会社 千葉建築

〒019-0701 秋田県横手市増田町増田字伊勢堂南6-4

電話 0182-45-2325 FAX  0182-45-2304
携帯 080-1837-5342

mail kchiba@poem.ocn.ne.jp




魔法のラーメン

2016-08-25 06:54:56 | 歴史と文化
8月25日(旧暦7月23日 干支=己卯 九星=六白 六曜=大安)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。

暑い日が続く中、食事の支度をされる方は大変なことだと思います。

私も一人暮らしをしているときに、よく自炊をしていましたが、なるべく手短にできる料理などがあれば、それに頼ってしまうこともありました。

他人に食べさせることが前提でないため、味付けも量も盛り付けも適当でしたし、大量に作りおいて三食同じのを食べることもありました。


冷凍食品や半額となった惣菜など、少ない手持ちから最大のカロリーを生み出すには何がよいか、というコストパフォーマンスを常に考えていました。

もろもろを考えていたとき、やはりインスタントラーメンは強い味方になっていました。

手鍋で調理して、そのまま食べるという、品のない食べ方をしたこともありましたし、ちょっと贅沢に野菜を炒めて、スープに豆板醤を入れたりと、変なアレンジを施したりもしました。

あるいは、袋のまま麺を小さく砕き、そこに粉末スープを半分ほど入れ、発泡酒とともにいただくという、まったく不健康な食べ方もしたことがあります。


そんなインスタントラーメンですが、これを世界で初めて発売したのは、日本の日清食品だそうです。

1958年(昭和33年)の今日、日清から「チキンラーメン」が発売されたことを記念して、日清が「即席ラーメン記念日」を制定しています。


日清食品の創業者で、チキンラーメンの生みの親の安藤百福は、戦前の台湾に生まれました。

出身地は製塩や麺類が盛んなところでしたが、幼くして両親を亡くし、繊維問屋を営む祖父母のもとに預けられました。

安藤は父の遺産を元手に、22歳でメリヤスの商社を設立して事業を拡大し、大阪に拠点を置いて貿易を行い、精密機械や飛行機エンジンの部品製造なども手掛けていました。

戦後は復興のための事業を手掛けますが、そこには様々な苦労があったようです。


しかし、安藤には戦争による食不足や失業者を救いたい、という理念がありました。

国は戦後、アメリカから小麦を買い、パン食を推し進めましたが、安藤は東洋の文化である麺類をもっと推奨すべきと、厚生省へ提案しました。

厚生省からは、麺類の量産技術と流通ルートがない、という回答がなされ、麺類振興を語るなら、安藤自らがその研究を進めてはどうかと言われました。


この時は既存事業で手一杯で、その答えを返すことができなかった安藤でしたが、それは10年後のインスタントラーメン誕生につながる、重大な一言となったようです。

その後安藤の事業は一度頓挫し、ほぼ無一文の状態にまで困窮することとなりました。

安藤の再起は、先の厚生省でのやり取りを思い出したことから始まりました。


自宅の小屋を研究所にし、すぐに食べられ、長持ちして、大量に作れる麺の開発を行います。

失敗続きの中で、安藤の夫人が天ぷらを揚げていることにヒントを得て、麺を油で揚げて乾燥させる方法を開発しました。

改良を重ねて、ついに即席めんの開発に成功した安藤は、どんぶりに麺を入れてお湯をそそぐだけという「魔法のラーメン」を世に出すこととなりました。


チキンラーメンはあっという間に爆発的なヒット商品となり、安藤は社名を「日清食品株式会社」と変え、1971年の世界初のカップ麺「カップヌードル」の発売など、日本を代表する企業へと成長していきました。

安藤が依然抱いていた理念は実現し、麺文化を世界へ広げる功績を果たしました。

安藤は2007年に96歳で亡くなりますが、死の直前までゴルフをし、お昼には餅入りのチキンラーメンを食べたそうです。

生涯現役を体現し、災害時のインスタントラーメンの支援や、子供たちの自然体験の奨励など、数々の福祉活動も行った安藤の死は、米紙では「ミスターヌードルに感謝」という言葉で表現されました。


インスタントラーメンやカップ麺は、私が生まれたころには当たり前にあるものでありました。

こうして歴史を紐解いていると、そうした当たり前にあるものが「当たり前になるまで」には、人々の苦労など様々なことが積み重なっているものだと思いました。

ものがありふれている時代に、その苦労を一つ一つ気にする機会はないのかもしれません。

ただ知ることで、そのありがたさを感じることは、大切なことかと思います。

とりあえず、砕きラーメン粉末掛けは、健康も考慮してやめたいと思います。

補助金やローンなどのご相談も承ります。
お問い合わせ先

有限会社 千葉建築

〒019-0701 秋田県横手市増田町増田字伊勢堂南6-4

電話 0182-45-2325 FAX  0182-45-2304
携帯 080-1837-5342

mail kchiba@poem.ocn.ne.jp




伝説の都市

2016-08-24 07:23:27 | 歴史と文化
8月24日(旧暦7月22日 干支=戊寅 九星=七赤 六曜=仏滅)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。

一昨日の台風9号の通過の際、ずっとネットの天気予報を開いていたら、岩手沿岸で震度3の地震も発生していました。

東日本大震災以来、あるいは今年の熊本地震も含めて、地震が毎日起こっている状態の中、大雨と地震の同時発生なども注意せざるを得ません。


その地震の影響もあるでしょうが、2014年9月27日の御嶽山の噴火を代表するように、火山活動についても警戒が必要となっています。

登山用品売り場に行くと、以前よりも登山用ヘルメットのスペースが増えていることも、その表れかもしれません。


今年の熊本地震の影響といえば、やはり阿蘇山の火山活動が心配されます。

また、九州の火山といえば、長崎県の雲仙普賢岳が思い浮かびます。

1991年6月3日に発生した火砕流によって、43人の死者を生む災害となった時のことは、25年たった今でも思い出せます。


もっと過去の火山の噴火のニュースといえば、伊豆大島の三原山、あるいは伊豆諸島の三宅島なども思い浮かびます。

三宅島は、増田町民、特に私たち世代にとっては身近な存在です。

市町村合併のはるか前、増田町と東京都三宅村の交流があり、中学生同士がお互いの町を訪れたこともありました。

その時、三宅島の雄山の火口付近を見学した記憶もあり、その後の三宅島全島避難のニュースなどに動揺した記憶もあります。

たびたび噴火を起こす三宅島ですが、今日は1962年に三宅島が大噴火を起こした日でもあります。


さらに、その1900年ほど前に、火山の噴火によって一つの街が壊滅したという日にも当たります。

その街とは、かつてポンペイと呼ばれていました。

この時代は、ローマが帝政期に入って100年が経ち、初代アウグストゥスから7代の皇帝が継承されたときに当たります。

「パクス・ロマーナ」が実現し、カリグラやネロなどの暴君も出てきながらも、対外的な平和によってローマの文化や風俗が醸成されていった時期でもあります。

なお、日本では弥生時代中期で、国や都市の形成が道半ばであったとされる時期でもあります。


帝国の都ローマから南東へ200キロ、現在ではナポリと呼ばれる港町から、さらに東へ行ったところに、ポンペイが存在していました。

地中海に面したナポリの海と、雄大やベスビオ山を臨むポンペイは、ローマ市民や貴族のための高級リゾート地として、最盛期には2万人を超える人口を有していました。


79年8月24日、そのベスビオ火山が大噴火を起こしました。

街の人々は、それを機にローマなどへこぞって逃れますが、一部の人はそのままとどまりました。

噴火から半日たって発生した火砕流によって、山から10キロ離れたふもとにある、ポンペイの町は完全に飲み込まれました。

ローマにもその一報は伝えられ、皇帝ティトゥスは使者を出しますが、すでに街は消滅し、2千人ほどの人々が犠牲となりました。


軍人であり、博物学者でもあったプルニウスは、ポンペイの救援に向かいますが、その途上でガス中毒で命を落としてしまいます。

プルニウスは、自身の甥に噴火直後の様子を伝え、甥は後にそれをまた別の人物に、手紙として伝えました。

その人物とは、歴史学者として知られるタキトゥスです。


火山から降り注いだ火山灰は、ポンペイに次々と降り注ぎ、そこが街であった証を消していきました。

その後は長らく、人々の伝承で語り継がれる「伝説の都市」となり、時代とともにその記憶は薄れていきました。


その記憶が一気に呼び起こされたのは、1700年も後の時代でした。

1748年、ポンペイが「再発見」されます。

埋もれた当時の建築物や壁画などの調査が行われますが、この時点ではまだ本格的な発掘には至りませんでした。


発掘が本格化するのは、それから100年後、19世紀の半ばを過ぎてからでした。

この当時のイタリアは、小王国がばらばらにあった状態から、統一した一つの国になろうとしている時期でもあります。

そうした中で、それまで散発的に行われた遺跡発掘が、19世紀後半からイタリア政府の主導で行われるようになり、ポンペイは1800年の時を超えて、街としての姿を人々の前に表しました。


火山灰に埋もれた都市は、噴火によって止まった時のままを保存していました。

人々の死体はとうに朽ち果てて空洞になっていましたが、考古学者はそこに石膏を流し込んで、息絶える瞬間の苦悶の表情を知ることができるようにしました。

人だけでなく、それは犬にも行われました。

首輪をした犬が、いまわの時に身をよじらせている姿は、生々しさを感じさせます。


ポンペイの街は、上下水道が完備され、公衆浴場や劇場など、娯楽施設から住宅までが建造されていました。

居酒屋のメニューや、奴隷がトイレに書いた落書きなど、そこに人々が「間違いなく」暮らしていた証を残しています。

1世紀のローマ人も、毎日働き、あるいは遊び、飯を食べたり酒を飲みながら、恋を語らったり、旦那や妻の愚痴を言ったりしたでしょう。

友と語らい、あるいはけんかをして、家に戻って寝て起きて、また新たな一日が始まる。

ベスビオ山が噴火するまで、そんな日常が永遠に続くものだと思っていたのかもしれません。

今日は、そうした人々に思いをはせる日にしたいと思います。

補助金やローンなどのご相談も承ります。
お問い合わせ先

有限会社 千葉建築

〒019-0701 秋田県横手市増田町増田字伊勢堂南6-4

電話 0182-45-2325 FAX  0182-45-2304
携帯 080-1837-5342

mail kchiba@poem.ocn.ne.jp