4月30日(土曜 旧暦3月28日 四緑 赤口 乙卯)
おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。
今日は暖かくなりそうです。
各地の桜の花も開花が進むと思われ、すでに連休に入られた方にとっては出かけるのにちょうど良いかもしれません。
明日明後日は天候が崩れるとの予報でしたが、連休の後半は持ち直すようです。
車などで出かける際は、安全運転をお願いしたいと思います。
昨日は、イギリス王室のウィリアム王子とキャサリン妃(ケイト・ミドルトンさん)との結婚式が行われ、イギリス国内、イギリス連邦のカナダやオーストラリアをはじめとして、世界各国で祝福を捧げる様子が報道されていました。
欧州の王族や各国の大使なども臨席し、テレビ中継を見た人は世界で20億人以上だそうです。
エリザベス女王は2人に「ケンブリッジ公爵・ケンブリッジ公爵夫人」の爵位を与え、若き未来のイギリス国王と、一般家庭出身の王妃の姿に、新しい英王室の姿を見た人々も多いかと思います。
イギリスは、現在ではヨーロッパ大陸から西にある島国という認識がありますが、かつては「大英帝国」と称されるほどの海洋大国であり、現在でもイギリス連邦の盟主としてその存在感は大きく、アメリカ合衆国とともに世界に影響力を与えている「大国」であります。
何度かこのブログでも記事にしましたが、イギリスの正式名称は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」であり、イングランド・ウェールズ・スコットランド・北アイルランドから構成され、憲法によって規定された国王(君主)をもつ「立憲君主国」であり、同時にイギリス国王はカナダやオーストラリアなどのイギリス連邦に属する国の君主の地位に位置づけられています。
英国王は同時に、イギリス国教会というキリスト教の首長にもなっています。
イギリスの国旗であるユニオン・ジャックは、イングランドの国旗の聖ゲオルギウス十字(白地に赤十字)と、スコットランド国旗の聖アンデレ十字(青地に白の剣十字)、アイルランドの有力諸侯のキルデア伯(フィッツジェラルド家)の聖パトリック十字(白地に赤の剣十字)が組み合わさったもので、イギリスがこれらの国を併合あるいは連合していくうちに作り上げられてきました。
イギリスの現在の王室(連合王国王位)は、1901年に始まった「ウィンザー朝(1917年までサクス=コーバーグ=ゴータ朝)」という王家であり、過去には何度も後継が途絶えたりしながらも、1000年近くに渡る伝統を受け継いでいます。
はじめの王室は、1066年にフランス王国の諸侯であったノルマンディー公ギョーム2世が、アングロサクソンの王が支配していたイングランドを征服(ノルマン・コンクエスト=ノルマン征服)し、ノルマン朝ウィリアム1世として即位したことから始まります。
ノルマン朝は大陸の封建制度をイングランドへ導入し、スコットランドやウェールズといった国と争いましたが、3代目のヘンリー1世の正統な後継者をめぐる争いで内戦状態となり、結果的に1154年にヘンリー1世の娘の息子のアンジュー伯アンリが、ヘンリー2世としてイングランド王に即位して、プランタジネット朝が始まりました。
プランタジネット朝は、イングランドの王朝として初めてアイルランドへ上陸するなど、もともとの大陸の領土と合わせて大いに勢力を伸ばしましたが、3代目のジョン王(失地王)の時代に大陸の領土のほとんどを失い、後の1337年から始まる百年戦争の遠因を作ることとなりました。
7代目のエドワード3世は、フランス王の後継争いに介入して英仏の百年戦争が始まりました。
一時はフランスのほとんどを支配するなど、戦いを優位に進めた時期もありましたが、1399年にプランタジネット朝8代目のリチャード2世が王位を追われ、ヘンリー4世がイングランド王に即位してランカスター朝を開きました。
途中の中断期がありながら長きに渡って続いた百年戦争は、1453年にボルドーが陥落し、イギリスはドーバー海峡の大陸側の都市のカレーを除いて海外領土を失いました。
さらに、1455年からはランカスター家のヘンリー6世に対し、ヨーク家のヨーク公リチャードが王位を求めて争い、ばら戦争という内戦に発展していきました。
ヨーク公リチャードは1460年に戦死しますが、翌年リチャードの息子のエドワード4世がヨーク朝を開きました。
ばら戦争はランカスター家とヨーク家の間での王位争奪戦であり、両者の間で王位は激しく動きましたが、1485年にランカスター家の血を引くヘンリー・チューダーが、ボズワースの戦いでヨーク朝のリチャード3世を破ってヘンリー7世として王位につき、チューダー朝が始まりました。
またヘンリー7世がヨーク家からエリザベス妃を迎えたことで両者は和解し、ばら戦争が終結しました。
チューダー朝の時代には、王権が非常に強固なものとなって絶対王政が確立し、また2代目のヘンリー8世のときに自らの離婚問題からイギリス国教会が成立しました。
有名な第5代目のエリザベス1世はヘンリー8世の娘であり、1588年に当時最強だったスペイン王国の無敵艦隊をアルマダの開戦で破り、1600年にはイギリス東インド会社が成立するなど、イギリスが世界の強国となっていった時期でもありました。
1603年に後継者のいなかったエリザベス1世が亡くなると、スコットランド王国国王(スチュアート家)のジェームズ6世がイングランド国王ジェームズ1世として迎えられ、スチュアート朝が始まりました。
ジェームズ1世は、それまで国王とともにイギリスの政治を行っていた議会を無視する政策を取ったため、国王と議会との対立が深くなってしまいました。
次代のチャールズ1世の時代にはさらに宗教対立も加わり、1642年には清教徒(ピューリタン)革命という内乱が起こり、王政が倒れてオリバー・クロムウェルによる共和政が始まりました。
クロムウェルは1653年に護国卿という地位に就き、軍事独裁体制を築きましたが、彼の死後には議会によって再び王政が布かれ、チャールズ2世が王に戻りました。
次代のジェームズ2世のとき、カトリック教徒であった彼はイギリスでカトリックを国教化させようとしました。
これに議会が反発し、1688年にジェームズ2世の娘メアリーの婿である、オランダ共和国総督のオラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム3世)を、メアリーとの共同統治者として国王として迎え入れ、翌年ジェームズ2世は追放されました。
議会は国王に対し、「国王は議会の同意に基づいてのみ統治する」という「権利章典」を宣言させて、イギリスは立憲君主国となる根拠をここに築きました。
この政変は流血を伴わなかったことで、「名誉革命」という呼び名がつけられました。
ウィリアム3世とメアリー2世との娘のアンが王位を継承し、アン女王の時代にはイングランド王国とスコットランド王国が1707年に正式に合同し、グレートブリテン王国となりました。
アン女王は後継者がいないまま1714年に亡くなり、次の国王は血縁をさかのぼって、ドイツの選帝侯(神聖ローマ帝国の皇帝の選挙権を持つ諸侯)であるハノーバ侯ゲオルグ・ルートビッヒを迎えることとしました。
ゲオルグ・ルートビッヒはグレートブリテン王ジョージ1世として即位し、スチュアート朝からハノーバ朝へと変わりました。
ジョージ3世の時代、フランス革命に影響されたアイルランドで反乱が起こり、これを鎮圧した後にアイルランド議会はグレートブリテン王国との連合を決定し、1801年に「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」として、アイルランドはグレートブリテンに併合される形で一つの国となりました。
現在のユニオンジャックは、このときに完成したものとなっています。
1837年に即位したビクトリア女王は、「君臨すれども統治せず」という議会とのバランスを守ってイギリスを発展させ、1901年まで王位についていました。
ビクトリア女王の子女は、各国王室とくにドイツの皇室と多くの婚姻関係を結んで親戚関係を築き、自身の夫(王配)アルバートもドイツのザクセン=コーブルク=ゴータという家の出身でもありました。
女王の後継のエドワード7世は、父の出身家の英語読みとなるサクス=コーバーグ=ゴータと王家名を変えましたが、さらに次代のジョージ5世の時代には第一次世界大戦が始まったこともあり、国民の反独感情を意識して王家名を自らの居城である「ウィンザー」にちなんで、ウィンザー朝と改めました。
以後英王室はエドワード8世、ジョージ6世と続き、1952年にエリザベス2世が王位について現在に至っています。
イギリスは過去に日本と同盟を組んだこともあり、また第二次世界大戦では逆に敵同士となった歴史もあります。
ジョージ5世の時代には、皇太子裕仁親王(昭和天皇)が訪英し、国王は親身になって皇太子の世話をされたというエピソードも残っています。
同じ島国で、長く続く王室・皇室が存在している点で、イギリスと日本は似た部分があります。
イギリスの王室は、戦乱の絶えなかったヨーロッパという地域ということもあり、その辿ってきた経緯は実に複雑なものがあります。
しかし、今回の結婚式の様子を見ていると、やはり王室はイギリスという国にとって欠かせないものとなっている様に思えます。
さまざまな国の歴史を知ることは、その国の人々の考え方や価値観を知る上でも大切なことだと思います。
補助金やローンなどのご相談も承ります。
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〒019-0701 秋田県横手市増田町増田字伊勢堂南6-4
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おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。
今日は暖かくなりそうです。
各地の桜の花も開花が進むと思われ、すでに連休に入られた方にとっては出かけるのにちょうど良いかもしれません。
明日明後日は天候が崩れるとの予報でしたが、連休の後半は持ち直すようです。
車などで出かける際は、安全運転をお願いしたいと思います。
昨日は、イギリス王室のウィリアム王子とキャサリン妃(ケイト・ミドルトンさん)との結婚式が行われ、イギリス国内、イギリス連邦のカナダやオーストラリアをはじめとして、世界各国で祝福を捧げる様子が報道されていました。
欧州の王族や各国の大使なども臨席し、テレビ中継を見た人は世界で20億人以上だそうです。
エリザベス女王は2人に「ケンブリッジ公爵・ケンブリッジ公爵夫人」の爵位を与え、若き未来のイギリス国王と、一般家庭出身の王妃の姿に、新しい英王室の姿を見た人々も多いかと思います。
イギリスは、現在ではヨーロッパ大陸から西にある島国という認識がありますが、かつては「大英帝国」と称されるほどの海洋大国であり、現在でもイギリス連邦の盟主としてその存在感は大きく、アメリカ合衆国とともに世界に影響力を与えている「大国」であります。
何度かこのブログでも記事にしましたが、イギリスの正式名称は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」であり、イングランド・ウェールズ・スコットランド・北アイルランドから構成され、憲法によって規定された国王(君主)をもつ「立憲君主国」であり、同時にイギリス国王はカナダやオーストラリアなどのイギリス連邦に属する国の君主の地位に位置づけられています。
英国王は同時に、イギリス国教会というキリスト教の首長にもなっています。
イギリスの国旗であるユニオン・ジャックは、イングランドの国旗の聖ゲオルギウス十字(白地に赤十字)と、スコットランド国旗の聖アンデレ十字(青地に白の剣十字)、アイルランドの有力諸侯のキルデア伯(フィッツジェラルド家)の聖パトリック十字(白地に赤の剣十字)が組み合わさったもので、イギリスがこれらの国を併合あるいは連合していくうちに作り上げられてきました。
イギリスの現在の王室(連合王国王位)は、1901年に始まった「ウィンザー朝(1917年までサクス=コーバーグ=ゴータ朝)」という王家であり、過去には何度も後継が途絶えたりしながらも、1000年近くに渡る伝統を受け継いでいます。
はじめの王室は、1066年にフランス王国の諸侯であったノルマンディー公ギョーム2世が、アングロサクソンの王が支配していたイングランドを征服(ノルマン・コンクエスト=ノルマン征服)し、ノルマン朝ウィリアム1世として即位したことから始まります。
ノルマン朝は大陸の封建制度をイングランドへ導入し、スコットランドやウェールズといった国と争いましたが、3代目のヘンリー1世の正統な後継者をめぐる争いで内戦状態となり、結果的に1154年にヘンリー1世の娘の息子のアンジュー伯アンリが、ヘンリー2世としてイングランド王に即位して、プランタジネット朝が始まりました。
プランタジネット朝は、イングランドの王朝として初めてアイルランドへ上陸するなど、もともとの大陸の領土と合わせて大いに勢力を伸ばしましたが、3代目のジョン王(失地王)の時代に大陸の領土のほとんどを失い、後の1337年から始まる百年戦争の遠因を作ることとなりました。
7代目のエドワード3世は、フランス王の後継争いに介入して英仏の百年戦争が始まりました。
一時はフランスのほとんどを支配するなど、戦いを優位に進めた時期もありましたが、1399年にプランタジネット朝8代目のリチャード2世が王位を追われ、ヘンリー4世がイングランド王に即位してランカスター朝を開きました。
途中の中断期がありながら長きに渡って続いた百年戦争は、1453年にボルドーが陥落し、イギリスはドーバー海峡の大陸側の都市のカレーを除いて海外領土を失いました。
さらに、1455年からはランカスター家のヘンリー6世に対し、ヨーク家のヨーク公リチャードが王位を求めて争い、ばら戦争という内戦に発展していきました。
ヨーク公リチャードは1460年に戦死しますが、翌年リチャードの息子のエドワード4世がヨーク朝を開きました。
ばら戦争はランカスター家とヨーク家の間での王位争奪戦であり、両者の間で王位は激しく動きましたが、1485年にランカスター家の血を引くヘンリー・チューダーが、ボズワースの戦いでヨーク朝のリチャード3世を破ってヘンリー7世として王位につき、チューダー朝が始まりました。
またヘンリー7世がヨーク家からエリザベス妃を迎えたことで両者は和解し、ばら戦争が終結しました。
チューダー朝の時代には、王権が非常に強固なものとなって絶対王政が確立し、また2代目のヘンリー8世のときに自らの離婚問題からイギリス国教会が成立しました。
有名な第5代目のエリザベス1世はヘンリー8世の娘であり、1588年に当時最強だったスペイン王国の無敵艦隊をアルマダの開戦で破り、1600年にはイギリス東インド会社が成立するなど、イギリスが世界の強国となっていった時期でもありました。
1603年に後継者のいなかったエリザベス1世が亡くなると、スコットランド王国国王(スチュアート家)のジェームズ6世がイングランド国王ジェームズ1世として迎えられ、スチュアート朝が始まりました。
ジェームズ1世は、それまで国王とともにイギリスの政治を行っていた議会を無視する政策を取ったため、国王と議会との対立が深くなってしまいました。
次代のチャールズ1世の時代にはさらに宗教対立も加わり、1642年には清教徒(ピューリタン)革命という内乱が起こり、王政が倒れてオリバー・クロムウェルによる共和政が始まりました。
クロムウェルは1653年に護国卿という地位に就き、軍事独裁体制を築きましたが、彼の死後には議会によって再び王政が布かれ、チャールズ2世が王に戻りました。
次代のジェームズ2世のとき、カトリック教徒であった彼はイギリスでカトリックを国教化させようとしました。
これに議会が反発し、1688年にジェームズ2世の娘メアリーの婿である、オランダ共和国総督のオラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム3世)を、メアリーとの共同統治者として国王として迎え入れ、翌年ジェームズ2世は追放されました。
議会は国王に対し、「国王は議会の同意に基づいてのみ統治する」という「権利章典」を宣言させて、イギリスは立憲君主国となる根拠をここに築きました。
この政変は流血を伴わなかったことで、「名誉革命」という呼び名がつけられました。
ウィリアム3世とメアリー2世との娘のアンが王位を継承し、アン女王の時代にはイングランド王国とスコットランド王国が1707年に正式に合同し、グレートブリテン王国となりました。
アン女王は後継者がいないまま1714年に亡くなり、次の国王は血縁をさかのぼって、ドイツの選帝侯(神聖ローマ帝国の皇帝の選挙権を持つ諸侯)であるハノーバ侯ゲオルグ・ルートビッヒを迎えることとしました。
ゲオルグ・ルートビッヒはグレートブリテン王ジョージ1世として即位し、スチュアート朝からハノーバ朝へと変わりました。
ジョージ3世の時代、フランス革命に影響されたアイルランドで反乱が起こり、これを鎮圧した後にアイルランド議会はグレートブリテン王国との連合を決定し、1801年に「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」として、アイルランドはグレートブリテンに併合される形で一つの国となりました。
現在のユニオンジャックは、このときに完成したものとなっています。
1837年に即位したビクトリア女王は、「君臨すれども統治せず」という議会とのバランスを守ってイギリスを発展させ、1901年まで王位についていました。
ビクトリア女王の子女は、各国王室とくにドイツの皇室と多くの婚姻関係を結んで親戚関係を築き、自身の夫(王配)アルバートもドイツのザクセン=コーブルク=ゴータという家の出身でもありました。
女王の後継のエドワード7世は、父の出身家の英語読みとなるサクス=コーバーグ=ゴータと王家名を変えましたが、さらに次代のジョージ5世の時代には第一次世界大戦が始まったこともあり、国民の反独感情を意識して王家名を自らの居城である「ウィンザー」にちなんで、ウィンザー朝と改めました。
以後英王室はエドワード8世、ジョージ6世と続き、1952年にエリザベス2世が王位について現在に至っています。
イギリスは過去に日本と同盟を組んだこともあり、また第二次世界大戦では逆に敵同士となった歴史もあります。
ジョージ5世の時代には、皇太子裕仁親王(昭和天皇)が訪英し、国王は親身になって皇太子の世話をされたというエピソードも残っています。
同じ島国で、長く続く王室・皇室が存在している点で、イギリスと日本は似た部分があります。
イギリスの王室は、戦乱の絶えなかったヨーロッパという地域ということもあり、その辿ってきた経緯は実に複雑なものがあります。
しかし、今回の結婚式の様子を見ていると、やはり王室はイギリスという国にとって欠かせないものとなっている様に思えます。
さまざまな国の歴史を知ることは、その国の人々の考え方や価値観を知る上でも大切なことだと思います。
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