秋田県横手市増田町 千葉建築のブログ

秋田県の県南、横手市増田町の工務店、(有)千葉建築のブログです。
よろしくお願いいたします。

英王室

2011-04-30 12:50:02 | 歴史と文化
4月30日(土曜 旧暦3月28日 四緑 赤口 乙卯)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。


今日は暖かくなりそうです。

各地の桜の花も開花が進むと思われ、すでに連休に入られた方にとっては出かけるのにちょうど良いかもしれません。


明日明後日は天候が崩れるとの予報でしたが、連休の後半は持ち直すようです。

車などで出かける際は、安全運転をお願いしたいと思います。


昨日は、イギリス王室のウィリアム王子とキャサリン妃(ケイト・ミドルトンさん)との結婚式が行われ、イギリス国内、イギリス連邦のカナダやオーストラリアをはじめとして、世界各国で祝福を捧げる様子が報道されていました。

欧州の王族や各国の大使なども臨席し、テレビ中継を見た人は世界で20億人以上だそうです。

エリザベス女王は2人に「ケンブリッジ公爵・ケンブリッジ公爵夫人」の爵位を与え、若き未来のイギリス国王と、一般家庭出身の王妃の姿に、新しい英王室の姿を見た人々も多いかと思います。


イギリスは、現在ではヨーロッパ大陸から西にある島国という認識がありますが、かつては「大英帝国」と称されるほどの海洋大国であり、現在でもイギリス連邦の盟主としてその存在感は大きく、アメリカ合衆国とともに世界に影響力を与えている「大国」であります。

何度かこのブログでも記事にしましたが、イギリスの正式名称は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」であり、イングランド・ウェールズ・スコットランド・北アイルランドから構成され、憲法によって規定された国王(君主)をもつ「立憲君主国」であり、同時にイギリス国王はカナダやオーストラリアなどのイギリス連邦に属する国の君主の地位に位置づけられています。

英国王は同時に、イギリス国教会というキリスト教の首長にもなっています。

イギリスの国旗であるユニオン・ジャックは、イングランドの国旗の聖ゲオルギウス十字(白地に赤十字)と、スコットランド国旗の聖アンデレ十字(青地に白の剣十字)、アイルランドの有力諸侯のキルデア伯(フィッツジェラルド家)の聖パトリック十字(白地に赤の剣十字)が組み合わさったもので、イギリスがこれらの国を併合あるいは連合していくうちに作り上げられてきました。


イギリスの現在の王室(連合王国王位)は、1901年に始まった「ウィンザー朝(1917年までサクス=コーバーグ=ゴータ朝)」という王家であり、過去には何度も後継が途絶えたりしながらも、1000年近くに渡る伝統を受け継いでいます。

はじめの王室は、1066年にフランス王国の諸侯であったノルマンディー公ギョーム2世が、アングロサクソンの王が支配していたイングランドを征服(ノルマン・コンクエスト=ノルマン征服)し、ノルマン朝ウィリアム1世として即位したことから始まります。

ノルマン朝は大陸の封建制度をイングランドへ導入し、スコットランドやウェールズといった国と争いましたが、3代目のヘンリー1世の正統な後継者をめぐる争いで内戦状態となり、結果的に1154年にヘンリー1世の娘の息子のアンジュー伯アンリが、ヘンリー2世としてイングランド王に即位して、プランタジネット朝が始まりました。


プランタジネット朝は、イングランドの王朝として初めてアイルランドへ上陸するなど、もともとの大陸の領土と合わせて大いに勢力を伸ばしましたが、3代目のジョン王(失地王)の時代に大陸の領土のほとんどを失い、後の1337年から始まる百年戦争の遠因を作ることとなりました。

7代目のエドワード3世は、フランス王の後継争いに介入して英仏の百年戦争が始まりました。

一時はフランスのほとんどを支配するなど、戦いを優位に進めた時期もありましたが、1399年にプランタジネット朝8代目のリチャード2世が王位を追われ、ヘンリー4世がイングランド王に即位してランカスター朝を開きました。


途中の中断期がありながら長きに渡って続いた百年戦争は、1453年にボルドーが陥落し、イギリスはドーバー海峡の大陸側の都市のカレーを除いて海外領土を失いました。

さらに、1455年からはランカスター家のヘンリー6世に対し、ヨーク家のヨーク公リチャードが王位を求めて争い、ばら戦争という内戦に発展していきました。

ヨーク公リチャードは1460年に戦死しますが、翌年リチャードの息子のエドワード4世がヨーク朝を開きました。


ばら戦争はランカスター家とヨーク家の間での王位争奪戦であり、両者の間で王位は激しく動きましたが、1485年にランカスター家の血を引くヘンリー・チューダーが、ボズワースの戦いでヨーク朝のリチャード3世を破ってヘンリー7世として王位につき、チューダー朝が始まりました。

またヘンリー7世がヨーク家からエリザベス妃を迎えたことで両者は和解し、ばら戦争が終結しました。

チューダー朝の時代には、王権が非常に強固なものとなって絶対王政が確立し、また2代目のヘンリー8世のときに自らの離婚問題からイギリス国教会が成立しました。


有名な第5代目のエリザベス1世はヘンリー8世の娘であり、1588年に当時最強だったスペイン王国の無敵艦隊をアルマダの開戦で破り、1600年にはイギリス東インド会社が成立するなど、イギリスが世界の強国となっていった時期でもありました。

1603年に後継者のいなかったエリザベス1世が亡くなると、スコットランド王国国王(スチュアート家)のジェームズ6世がイングランド国王ジェームズ1世として迎えられ、スチュアート朝が始まりました。


ジェームズ1世は、それまで国王とともにイギリスの政治を行っていた議会を無視する政策を取ったため、国王と議会との対立が深くなってしまいました。

次代のチャールズ1世の時代にはさらに宗教対立も加わり、1642年には清教徒(ピューリタン)革命という内乱が起こり、王政が倒れてオリバー・クロムウェルによる共和政が始まりました。

クロムウェルは1653年に護国卿という地位に就き、軍事独裁体制を築きましたが、彼の死後には議会によって再び王政が布かれ、チャールズ2世が王に戻りました。


次代のジェームズ2世のとき、カトリック教徒であった彼はイギリスでカトリックを国教化させようとしました。

これに議会が反発し、1688年にジェームズ2世の娘メアリーの婿である、オランダ共和国総督のオラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム3世)を、メアリーとの共同統治者として国王として迎え入れ、翌年ジェームズ2世は追放されました。


議会は国王に対し、「国王は議会の同意に基づいてのみ統治する」という「権利章典」を宣言させて、イギリスは立憲君主国となる根拠をここに築きました。

この政変は流血を伴わなかったことで、「名誉革命」という呼び名がつけられました。


ウィリアム3世とメアリー2世との娘のアンが王位を継承し、アン女王の時代にはイングランド王国とスコットランド王国が1707年に正式に合同し、グレートブリテン王国となりました。

アン女王は後継者がいないまま1714年に亡くなり、次の国王は血縁をさかのぼって、ドイツの選帝侯(神聖ローマ帝国の皇帝の選挙権を持つ諸侯)であるハノーバ侯ゲオルグ・ルートビッヒを迎えることとしました。

ゲオルグ・ルートビッヒはグレートブリテン王ジョージ1世として即位し、スチュアート朝からハノーバ朝へと変わりました。


ジョージ3世の時代、フランス革命に影響されたアイルランドで反乱が起こり、これを鎮圧した後にアイルランド議会はグレートブリテン王国との連合を決定し、1801年に「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」として、アイルランドはグレートブリテンに併合される形で一つの国となりました。

現在のユニオンジャックは、このときに完成したものとなっています。


1837年に即位したビクトリア女王は、「君臨すれども統治せず」という議会とのバランスを守ってイギリスを発展させ、1901年まで王位についていました。

ビクトリア女王の子女は、各国王室とくにドイツの皇室と多くの婚姻関係を結んで親戚関係を築き、自身の夫(王配)アルバートもドイツのザクセン=コーブルク=ゴータという家の出身でもありました。


女王の後継のエドワード7世は、父の出身家の英語読みとなるサクス=コーバーグ=ゴータと王家名を変えましたが、さらに次代のジョージ5世の時代には第一次世界大戦が始まったこともあり、国民の反独感情を意識して王家名を自らの居城である「ウィンザー」にちなんで、ウィンザー朝と改めました。

以後英王室はエドワード8世、ジョージ6世と続き、1952年にエリザベス2世が王位について現在に至っています。


イギリスは過去に日本と同盟を組んだこともあり、また第二次世界大戦では逆に敵同士となった歴史もあります。

ジョージ5世の時代には、皇太子裕仁親王(昭和天皇)が訪英し、国王は親身になって皇太子の世話をされたというエピソードも残っています。


同じ島国で、長く続く王室・皇室が存在している点で、イギリスと日本は似た部分があります。

イギリスの王室は、戦乱の絶えなかったヨーロッパという地域ということもあり、その辿ってきた経緯は実に複雑なものがあります。


しかし、今回の結婚式の様子を見ていると、やはり王室はイギリスという国にとって欠かせないものとなっている様に思えます。

さまざまな国の歴史を知ることは、その国の人々の考え方や価値観を知る上でも大切なことだと思います。

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昭和の日

2011-04-29 16:05:49 | こよみ
4月29日(金曜 旧暦3月27日 三碧 大安 甲寅)


こんにちは。横手市増田町の工務店、千葉建築です。


今日も天候が変わりやすくなっていますが、比較的日中は暖かくなっています。

毎年ですと、今日は「春のたらいこぎ」が行われていました。

しかし、今年の豪雪によってまだ真人公園に雪が一部残り、桜の木にも大きなダメージが残ったこと、さらに3月11日の大震災による影響なども勘案したあげく、今年は真人公園の観桜会イベントを中止することとなりました。


しかし、たらいこぎだけは連休最終日の5月5日に、「体験会」として行うことになりました。

派手なイベントではありませんが、春のたらい祭りという伝統を絶やすことのないように、小さいながらも続けていくことが大切だと思っています。

豪雪や震災といった天災を避けることは出来ませんが、それでも人間が生きている限り、その喜びや楽しさというものを共有することは出来ると思っています。


明日30日には、秋田朝日放送の「サタナビっ!」(9:30~11:00)にて増田のたらいこぎも紹介されます。

不肖ながら私も出演しておりますので、その様子もご覧いただければと思います。


さて、今日は「昭和の日」で祝日となっています。

以前は「みどりの日」、昭和天皇が崩御される前までは「天皇誕生日」という祝日となっていました。


今年2011年は平成23年となり、今上天皇が即位されてからすでに4半世紀に近づいています。

今年はおそらく、後世の日本史に刻まれるであろうほどの苦難の年となっていますが、歴史を振り返ってみると、日本における昭和期ほど、時代が動いた時期というのはなかったのではないかと思います。

私も昭和53年(1978年)生まれですので、昭和から平成へと元号が変わる時代を小学生のときに体験し、昭和という時代がどのような時代であったのかをテレビで視聴したことを覚えています。


昭和は、大正15年(1926年)12月25日に大正天皇が崩御され、同日皇太子裕仁親王が第124代天皇に践祚(せんそ。天皇の位を受け継ぐこと)なされたことから元号が「昭和」と改められて始まりました。

「昭和」の由来は、中国の儒教における四書五経の一つ『書経』にある、「百姓昭明、協和万邦」という言葉から取られ、「国民の平和と世界各国の共存繁栄を願う」という意味が込められています。

おしえてねドットコム 元号の由来は?


昭和初期の頃は、昭和2年(1927年)の昭和金融恐慌をはじめとして恐慌が相次ぎ、また日本が世界の潮流の真っ只中にある時代でありました。

昭和4年(1929年)10月24日にニューヨークから始まった世界恐慌によって、先進国の経済はソ連を除いて大打撃を受け、昭和8年(1933年)1月30日には第一次大戦の敗戦国であるドイツで、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権を取り、アドルフ・ヒトラーが首相に就きました。


日本においては、内外の情勢の不安定化により大正期の政党政治が行き詰まりを見せ、昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮会議の締結に伴う統帥権干犯問題、翌昭和6年(1931年)の柳条湖事件を発端とした満州事変などで軍部の発言力が増し、満州事変は昭和8年(1933年)の国際連盟脱退という事態を引き起こしました。

さらに昭和7年(1932年)の五・一五事件、昭和11年(1936年)の二・二六事件というテロ・クーデター未遂という事件が発生し、後に広田内閣が軍部大臣現役武官制を復活させたことで、議会は軍部を抑えることが出来なくなっていきました。

昭和12年(1937年)7月7日には、盧溝橋事件から日中戦争が始まり、昭和14年(1939年)9月にはドイツがポーランドへ侵攻して第二次世界大戦が始まりました。


昭和15年(1940年)、日本はドイツ・イタリアと軍事同盟を組み、また近衛内閣の下で大政翼賛会が結成されました。

日中戦争は泥沼化し、またアメリカ・イギリスなどの連合国側との関係が悪化し、日本は戦争に必要な石油など輸入に頼っていた資源を禁輸されることとなりました。


昭和16年(1941年)12月8日未明、日本はマレー半島への侵攻と、アメリカのハワイ・真珠湾基地を奇襲攻撃し、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まりました。

昭和20年(1945年)8月、広島・長崎に世界初の核兵器である原子爆弾が投下され、取り返しのつかない多大な犠牲と破壊をもたらした戦争は終わり、日本はアメリカ中心の連合国最高司令官総司令部(GHQ)の占領下となりました。

敗戦後制定された日本国憲法により、日本は戦争を放棄し、恒久的な平和と国民主権、基本的人権を大切にする国として再建が始まりました。


日本の国家体制でもあった天皇制と皇室については、GHQは結果として存続させることを決定し、それまでの大日本帝国憲法で位置づけられていた国家元首・大元帥の地位から、日本国の「象徴」という地位となりました。

昭和27年(1952年)のサンフランシスコ講和条約の発効により、日本は主権を回復し、国際社会へと復帰しました。

この前年のサンフランシスコ講和条約とともに締結された日米安全保障条約は、昭和35年(1960年)に新安保条約として延長されることになりましたが、それに反対する労働者や学生などによる安保闘争(60年安保)という社会問題となりました。


経済的には、昭和25年(1950年)に勃発した朝鮮戦争による特需がきっかけとなり、その後日本は高度経済成長という時代へと突入していきました。

この時代に勤勉かつ懸命に働いた世代によって、戦争で焼け野原となった大都市は復興していき、昭和43年(1968年)には、アメリカに次ぐ国民総生産(GNP)世界2位という経済大国を作り上げていきました。

急激に変わる生活環境と工業生産の活性化は、豊かな暮らしをもたらす一方で、土壌や大気・水源の汚染という公害問題を生むこととなり、環境との関わりという新たな課題を考えなければならなくなりました。


昭和39年(1964年)には、東海道新幹線や首都高速道路が開通し、戦後の復興を象徴する東京オリンピックが開幕し、カラーテレビの普及が進んでいきました。

また昭和45年(1970年)には大阪で万国博覧会、昭和47年(1972年)には札幌冬季オリンピックが開催されました。

この昭和47年には、テロ組織の連合赤軍によるあさま山荘事件が発生し、また沖縄の本土復帰と中華人民共和国との国交正常化・台湾(中華民国)との国交断行が行われました。


昭和46年(1971年)、アメリカのニクソン大統領がドルと金との兌換を停止し、ドルを各国貨幣との為替変動相場制へ以降すると発表し、日本は1ドル=360円から急激な円高が進む「ドル・ショック(ニクソン・ショック)」によって、特に輸出企業に大きな打撃となりました。

昭和48年(1973年)には、第4次中東戦争の影響で第一次オイルショックが起こり、日本の高度経済成長期が終わり、国内ではインフレとガソリンの高騰、日用品の買いだめなどの社会混乱が起こりました。

オイルショックを境として、アメリカとの間には貿易摩擦問題(輸入と輸出のバランスが大きく偏ること)が起こり、日本に対して市場開放や内需拡大を求めることとなりました。


昭和51年(1976年)にはロッキード事件が起こり、前首相の田中角栄が逮捕されるという大きな出来事となりました。

イラン革命の影響により、昭和53年(1978年)に第二次オイルショックが起こりましたが、前回のオイルショックの経験もあって数年後にこれを乗り切りました。


昭和60年(1985年)、先進5ヶ国の蔵相・中央銀行総裁会議(G5)がニューヨークのプラザホテルで行われ、日米の貿易摩擦の解消を目指して円高・ドル安を誘導し、各国の為替相場の安定化を目指した「プラザ合意」が行われました。

この合意以降、内需拡大の促進を目指して日銀が金融緩和政策を行いましたが、それは不動産や株式市場への投機マネーを流入させることとなり、日本は昭和62年(1987年)頃から「バブル景気」という狂乱の時代へと入っていきました。


この頃には昭和天皇の体調も悪化し、やがて昭和64年(1989年)1月7日に87歳で崩御されました。

在位で約62年という長期にわたり、戦争と平和な時代という2つの時代を経験され、戦後には日本国の象徴という立場で憲法の定める国事行為と皇室外交を精力的に行われた姿は、昭和が終わって20年以上経っていても思い起こされるものであります。

それまで「現人神」としてイメージされていた天皇のあり方を変え、戦後は日本各地に巡幸され、国民に親しみやすい新しい天皇像を作り上げられたと思います。


平成生まれの方々も20歳以上となり、昭和の時代を知らない世代も社会人となってきています。

歴史というものは常に連続しているものであり、現代の問題を深く知るにはその経緯というものをたどっていく必要もあります。

今のような時代だからこそ、昭和の日にもう一度この時代を振り返ってみて、現代からこの先が良い方向へ向かっていけるように考えることが大切だと思います。

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ゾウさん

2011-04-28 10:35:46 | こよみ
4月28日(木曜 旧暦3月26日 二黒 仏滅 癸丑)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。


今日は曇りの予報で、現在は晴れています。

ただし全国的に大荒れの天候となるようで、こちらも急激な天候の変化に十分に注意する必要があります。


震災が日本列島に大きく影響を及ぼしている中で、中々明るいニュースは少なくなっています。

暗い話題ばかりではどんどんと不安が募っていき、それは大きなストレスとなっていきます。

以前ブームとなった「癒し」というものが、こういったときだからこそ大きな力となるかもしれません。


動物を見たり触れ合ったりすることで、癒しの効果が得られるという説もあります。

先日中国からレンタルされた2頭のジャイアントパンダが、今月の初頭に東京・上野動物園で一般公開となりました。

大きな体ながらその愛くるしい姿は、子供たちをはじめとして注目の的となり、改めてその人気の高さを感じさせます。


動物園の人気者といえば、パンダのほかにキリン、ライオンやトラ、ゴリラやカバなどの大型哺乳類がそれに当たると思います。

中でも、陸上で最大の哺乳類であるゾウは、その巨大な体と大きな耳、そして最大の特徴である長い鼻を持ち、動物園を訪れる人々はその姿に驚き、また親しみを感じさせる動物だと思います。


人間とゾウの関わりは、まだ人間が狩猟により生計を立てていたはるか古代から始まっているとされています。

かつてのユーラシア大陸やアメリカ大陸には、ナウマンゾウやマンモスといった巨大なゾウが棲息し、その肉や皮・牙などを得るために人間が集団で狩猟を行ったとされています。

ナウマンゾウは日本にも棲息していたとされ、それを追って大陸から人間が日本列島に渡ったという説もあります。


現在ではアフリカゾウとアジアゾウという2種が残っており、前者はアフリカのサハラ砂漠より南の各国、後者はインドや東南アジア諸国にて野生の個体が存在しています。

過去にゾウを家畜化する試みもなされたようですが、その知能の高さや強い警戒心と、群れを成して生活するという習性から、訓練によって人間に慣れさせることは出来るにせよ、家畜とすることは難しい動物とされています。

ゾウは自分にやさしく接した人間には甘えたりもしますが、逆に危害を与えた人間には攻撃的になるそうです。


ゾウは鈍重なイメージがありますが、5トン以上(アフリカゾウでは7トンを超える個体もいる)というその巨体でも時速40キロメートルのスピードで走り、成獣となったゾウは人間以外の天敵に襲われることも少ない最強の陸上動物であるとされています。

アフリカでライオンなどの肉食獣に襲われるのは、ゾウの子供であり、普段は群れで行動するために子供の身を大人が守る形となっているそうです。


ゾウと人間の歴史をもう少し紐解いてみると、かつてはゾウを飼いならして農耕に用いたり、時には戦争に使ったという記録もあります。

古代インドや東南アジアでは、ゾウの突進力を利用した戦法が編み出され、将棋やチェスの起源となった古代インドのチャトランガの駒にも「ゾウ」が存在しています。

有名な話では、古代ローマの共和政時代に起こったカルタゴ(現在の北アフリカのチュニジアなど)とのポエニ戦争において、カルタゴの将軍ハンニバルがアルプスを越えてイタリア半島に侵攻した際、本国からゾウ部隊を引き連れてきたというエピソードもあります。


またインドにおいては、ゾウは神聖な動物でもあります。

インド神話においては、巨大なゾウが世界を支えていると考えられていたり、またヒンドゥー教においてシバ神の息子であるガネーシャは、その頭が白いゾウの顔をしている姿で描かれています。

同じくインドでうまれた仏教においても、釈迦が白いゾウの姿で母の胎内に入ったとされ、東南アジアや中国に伝来する中で白いゾウは神聖なる動物とされました。


日本においては、記録に残っているもので室町時代に東南アジアから持ち込まれたものが最古とされ、戦国期には九州の大友宗麟や安土桃山時代の豊臣秀吉、関が原の戦いの後に徳川家康に献上されたゾウもいたそうです。

江戸時代の1729年(享保14年)、交趾国(現在のベトナム)から8代将軍・徳川吉宗への献上品として、中国・清の商人が長崎にゾウを上陸させました。

途中、京都で中御門天皇に上覧させることとなりましたが、上覧には官位が必要となるため、ゾウに「広南従四位白象」という名前と官位が贈られることとなったそうです。


その上覧の日が、4月28日(旧暦)であったことから、この日が「象の日」という記念日となっているそうです。

こよみのページ

Wikipedia ゾウ


ゾウは人間の話す言葉を聞き分けたり、また人間を見分けることもできるほどの高い知能をもっているそうです。

ゾウはその牙が象牙として、日本や中国などで印鑑や装飾品の原料として使用されてきました。

象牙を取るためのゾウの乱獲により、ゾウの個体数が激減したこともあって、日本ではワシントン条約で1989年に輸入が禁止されました。


ゾウの個体数が増えた地域では、増えすぎによる環境破壊や農作物の被害などが発生したことから、一部捕獲を許可した国もあるそうですが、無制限の密猟が行われるケースも発生したため、非常に微妙な問題となっています。

いずれにしても、ゾウ自体の生息地域は減少しており、保護と共生という難しい問題も突きつけられています。

これからもゾウの姿を楽しむ一方で、そうした問題を考える必要もあると思います。

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本と紙と記録

2011-04-27 08:51:11 | 建築日記
4月27日(水曜 旧暦3月25日 一白 先負 壬子)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。


昨日、増田の真人公園へ行ってみると、公園のトイレのそばの木に僅かながらに桜が開花していました。

ようやく、ようやく待ちに待った季節が訪れたことを実感し、空は曇り空でしたが心は晴れ渡る気分を感じました。

厳しい冬の後には、必ず暖かい春がやってくることはごく当たり前のことですが、実際に外へ出て季節を感じることが出来ることは、幸福をも感じさせることであると思います。


今日は冷たい雨の一日となりそうです。

早く天候が安定してもらいたいと思います。


最近ではあまり読書をしなくなってしまいましたが、活字に触れることは単に知識を得るためではなく、例えば小説であればその登場人物の人生や考え方を読んでいくことでもあり、読めば読むだけ多くの人生に触れられるという考え方もあります。

あるいは、最近ではインターネットで検索すればさまざまな情報をすぐに得ることも出来ますが、自分で辞書を引いたり関連する資料を本で調ることで、ネット上の情報をそのまま鵜呑みにすることなく、検証して分析することはとても重要なことだと思っています。


最近生活していて非常に残念に思うことの一つに、本屋・書店が閉店するところが多くなったということがあります。

インターネットの普及などにより、Amazonなどのネットショップが延びている一方で、書籍を始めとする出版業界の規模が縮小していることもその原因となっていると思いますが、やはり書店で自分の目で選んだ本を手に取り、面白いと思った本をその場で購入する機会が少なくなることは寂しいことだと思います。

欲しかった本をたまたま立ち寄った書店で見つけたときの、あの胸の高揚感は捨てがたいものがあると思っています。


それでも、ごく身近なところに本に触れることの出来る施設はあります。

それは図書館であり、各自治体や学校などによっては蔵書が豊富にあるところもあります。

図書館と言えば、学生が勉強している場所というイメージがありますが、本来は各種の資料やメディアを収集・整理・保管し、利用者に提供する場所という定義が当てはまっています。


日本における最大の図書館は、東京千代田区永田町にある国立国会図書館であり、東京本館、京都にある関西館、東京・上野の国際子供図書館などの施設からなります。

ここには、日本で刊行された書籍が納められており、国際子供図書館を除いて18歳以上の国民であれば誰しも利用することが出来ます。

国立国会図書館の前身は帝国図書館であり、1897年(明治30年)の今日が開館日に当たっています。


現代では、本は学術書や専門書などでない限り、さほど高価なものではなく気軽に購入することが出来ます。

本に使用されている「紙」に着目してみると、これは洋の東西で非常に興味深い歴史を辿っていることになります。


現在よりはるか昔、いわゆる四大文明と呼ばれる時代よりももっと昔にも人類は存在していました。

昔の人々も言語によってコミュニケーションを図っていたことは想像できますが、それをいわゆる「記録」という形で後世に残したものは非常に数が限られています。

多くの知恵・技術・民族の歴史などは、長い間口伝によって受け継がれてきたと思いますが、天災や疫病・戦争などでその民族が滅びてしまうと、文章などのパターン化された記録が残されない限り、その存在の詳細も失われてしまいます。


記録が残っている最古の文明は、メソポタミア文明とエジプト文明とされていますが、これは楔形文字やヒエログリフ(神聖文字)という文字が記録された粘土板や壁画などのメディアが残っていたことが根拠となっています。

また、古代エジプトでは「パピルス」という植物の繊維を編みこんだものに文字を刻んだり、古代中国では木や竹を細長く切ってそれを革紐で結んだ「木簡・竹簡」というものも用いられていました。

西洋でパピルスの採れない地域では、木の皮の裏や獣の革をなめしたものがパピルスの代りに使用され、やがて使いやすさから羊やヤギの革を利用した「羊皮紙」というものが長らく用いられるようになりました。


世界で初めて紙を発明したのは中国であり、紀元前150年頃の前漢時代にはすでに用いられていたとされています。

紀元後100年頃の後漢時代には、宦官の蔡倫が実用的な紙の改良に成功し、木簡や竹簡に代って紙が記録媒体となっていきました。

日本には7世紀の飛鳥時代の辺りに、朝鮮から製紙技術が伝えられたとされ、その後和紙として発展していきました。


紙が西方に伝わるきっかけとなったのは、751年のタラス湖畔(現在のキルギス)の戦いで、イスラム帝国のアッバス朝の軍に捕らえられた中国・唐の捕虜の中に製紙職人がいたことであり、その後中東世界に紙の技術が伝わるようになりました。

ヨーロッパにはイベリア半島(現在のスペイン・ポルトガル)を経由して、イタリアに製紙工場が作られ、その後15世紀半ばのルネサンス期にグーテンベルクが活版印刷が実用化されると、紙の需要は飛躍的に伸びることとなりました。


それまで羊皮紙が使用されていたヨーロッパにおいて、活版印刷の技術は革命的であり、活字で書かれた聖書はベストセラーとなりました。

日本では近代にキリスト教を禁教にしたこともあり、西洋の活版印刷技術は普及せず、ようやく幕末から明治期に活字印刷の技術が定着していくこととなりました。


さまざまな歴史の経緯をたどって、製本や紙という技術は世界共通のものとなりました。

過去に文字を残した民族は、現在でも歴史の教科書にその名を刻むこととなりましたが、文字を残さなかったりあるいはその痕跡を消されてしまった民族は、その存在すら忘れられるものもあったと思います。

文献として残る民族のみが過去に生きていたわけではなく、それは世界各地に残る遺跡などにその存在が推測されるものもあります。


いずれにしても、後世の人々にとっては残っているものでしか想像することが出来ないため、考古学上の発見によってはその歴史も改められる可能性もあります。

世の中には、未だ文字を残しながら未解読の文明もあります。

そうした歴史が変わる瞬間に立ち会うことが出来たら、とても興味深いことであると思います。

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哲学の巨人

2011-04-26 12:43:18 | 建築日記
4月26日(火曜 旧暦3月24日 九紫 友引 辛亥)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。


今日は薄曇の天候となっています。

ようやく昨日車のタイヤ交換を済ませ、これから季節は夏に向かっていきます。

昨年の夏はあまり思い出したくありませんが、昨年発生したラニーニャ現象は今年の3月のうちに終わったようです。

今年は猛暑とならないことを祈りたいと思います。


人間は皆、違う個性を持っていることは語るまでもないことですが、そういった人々が集まる集団においては、個の利益よりも集団全体の利益が優先される場合がほとんどです。

そうでなければ、集団や社会の秩序というものが保てず、また一つのものごとに関わる際、集団全体の意思が強固勝つ単純であれば、大きな力となることはさまざまな例で示されていると思います。


秩序を保つには、ルールという規範や制限を設けることがなされています。

その代表的なものは「道徳・倫理」であり、それに加えて「法」という強制力を持つもので補完されて、一つの集団や社会の基盤をつくっていると考えられます。


「法」と一言に言っても、国家や地域によってその解釈や起源・運用にはさまざまなものがあり、その性格を全て同じラインに置く事は難しいものがあります。

法や道徳の始まりは、宗教・風習における禁忌(タブー)があり、またユダヤ教においては神と人間との間の「契約」、仏教における「法(ダルマ)=真理」などで表されるものや、現在でも政治においてそれを厳格に行う国家もある「イスラム法」といったものもあります。

近代国家の成立に従い、国際的なルールを取り決めた「国際法」もありますが、これはあくまで国家間の同意を要するものであり、強制力は存在していません。


現代のほとんどの国において、法律を制定する機関は国の最高機関となっており、法律を一つ作るにも多くの人々の議論を重ねた上で行われています。

現在の日本の立法府の体たらくを見ていると、そうした認識が厳粛に持たれているかは疑問符の浮かぶところも見受けられますが、良くも悪くも民主主義というものはその国の国民のレベルを示しているものであり、その責任は単に議員のみに帰するものではないと思っています。

そんな話はどうでもよいですが、法は人間の決めるものであるため、しばしば時代にそぐわなくなったり、「法の穴」があったり、結果的に社会の不利益となる法も存在することも確かであります。


そうした法は「悪法」とも言えますが、それでも法であることは間違いなく、改正されない限りはそれに従うことが求められます。

「悪法もまた法なり」という言葉を残したのは、古代ギリシャの哲学者のソクラテスとされています。

ソクラテス自身は著書を残さなかったため、弟子のプラトンやまたその弟子のアリストテレスなどの残した著作を通じることでしか、ソクラテスの思想とされるものを学ぶことは出来ません。


ソクラテスは紀元前470年(または469年)に、ギリシャの都市国家(ポリス)のアテナイ(アテネ)で、石工(あるいは彫刻家)の父と助産婦の母との間に生まれました。

ソクラテスは生涯のほとんどをアテナイで過ごし、青年時代は自然科学を学んだとされています。

当時のアテナイはスパルタと組んでペルシア戦争に勝利し、政治家ペリクレスによる民主政の最盛期でありました。


ソクラテスが40歳のあたりに、アテナイとスパルタの間で主導権争いが顕在化し、やがてそれはペロポネソス戦争に発展していきました。

約30年近く続いたペロポネソス戦争は、結果的にスパルタの勝利で終わるのですが、ソクラテスも戦争の初期段階で重装歩兵として参戦し、以後50歳近くまで3度に渡って戦うこととなりました。

しかしアテナイは有能な将軍・政治家であったペリクレスが亡くなり、ペストの流行などによってしだいに衰退していきました。


ある時ソクラテスは弟子のカイレポンとともに、アポロン神を祀るデルポイ神殿へ行きました。

神殿の巫女にカイレポンが「ソクラテスより賢いものがいるか」と尋ねたところ、巫女は「ソクラテス以上の賢者は一人もいない」というアポロン神の神託を与えました。

自分が他人より賢い人ではないと自覚していたソクラテスは驚きましたが、後に賢者と評判の高い有力者や詩人・職人などの数々の人物に会っていろいろと尋ねるうちに、この神託が正しかったことを確認することとなりました。


賢者と呼ばれる人々は、自分が知っていること以上のことも知っていると思い込んでいたり、あるいは人間にとって本当の意味で大切な「真理」や「正しいこと」などについて、自分が本当の意味で理解していないのに知っているようにふるまっていました。

ソクラテス自身は、それらについて自分は「知らない」ということを自覚しており、そのことを自覚していない「賢者」と呼ばれる人よりも自分のほうが勝っているという「無知の知」を主張しました。

報酬を受け取ることをせず、己の知への欲求のためにこうした対話と検証を繰り返していたソクラテスの評判は上がっていきましたが、同時にそれは彼に論破された人々の恨みを買うことにもなっていきました。


やがてソクラテスは大衆を惑わせたという罪で訴えられ、公開裁判で自ら弁明を行いますが、結果的に死刑が可決されました。

当時の政治的背景では、ペロポネソス戦争の敗戦と恐怖政治が大きく影響していたこともあり、それがソクラテスにとって不幸な結果に働いたという説もあります。

弟子のプラトンなどは彼に逃亡を勧めましたが、彼は「知への愛(フィロソフィア)」と「単に生きるのではなく、善く生きる」という理念に基づいてそれを拒否し、死刑を受け入れることを固く決意していました。


紀元前399年、ソクラテスは親しい人たちと最後の問答をした後、毒杯をあおって最期を迎えました。

ソクラテスの思想と行動は、その後プラトンらによって語り継がれ、西洋哲学における大樹ともいえる存在となりました。

ソクラテスの亡くなった日付は4月27日であるとされ、この日は「哲学の日」とされています。


ソクラテスは恐妻家であったという、有名な話もあります。

彼の妻はクサンチッペと言いますが、何を言っても動じない彼の頭に水を浴びせかけたというエピソードもあります。

またソクラテスは若者に結婚の相談をされたとき、「結婚してもしなくても、やがてどのみち後悔するだろう」と言ったり、「良い妻を持てば幸せになる。悪い妻を持てば私のように哲学者になれる」などとうそぶいたとも言われています。


ただ、一般的な常識人であった彼女からすれば、お金を稼ぐことをせずに毎日外に出て人を捉まえては訳の分からない話ばかりしている夫という感じで見ていたのかもしれません。

ソクラテスが後世に「哲学の巨人」とされたことで、彼女が悪妻と言うレッテルを張られてしまったことが、彼女にとっての不幸となってしまったのかも知れません。

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