2月26日(土曜 旧暦1月24日 四緑 先勝 壬子)
こんにちは。横手市増田町の工務店、千葉建築です。
昨日午後から降りだした雪によって、辺りは再び冬景色に一変してしまいました。
一晩で40センチも降っていたときと比べると量は少なく、気温が上がればまた消えるでしょう。
朝晩はまだ寒いので、体調を崩さないように気をつけたいと思います。
北アフリカのリビア情勢が日に日に悪化し、カダフィ政権と反政府勢力の間で激しい戦闘が行われています。
政権側はデモ隊に対して空爆を行い、多数の死者が発生しており、両者の対立はすでに内戦状態に陥ったとみられています。
リビアの地は、20世紀初頭まではオスマン・トルコ帝国の勢力下にありましたが、1911年の伊土戦争により、勝利したイタリア王国がこの地を植民地としました。
その後の第二次世界大戦では、イタリアとドイツの枢軸国側と、連合国側のイギリスとの間の「北アフリカ戦線」における戦場となり、大戦後には英仏の共同統治領となりました。
1949年、リビアは西北部のトリポリタニア、東部のキレナイカ、西南部のフェザーンからなる連合王国として独立し、その後は一つの王国となりました。
1969年、青年将校だったカダフィらによるクーデターが発生し、王政が倒れて共和政が布かれ、イスラム主義・社会主義による国家の運営をめざしました。
一時は「アラブの狂犬」ともあだ名されて、アメリカや西側諸国と対立しながらも、北アフリカの貧国であったリビアをオイルマネーで発展させ、40年以上の長期政権を維持してきました。
同じく市民デモによって政権が倒れたチュニジアとエジプトとは国内事情も異なっており、今回の騒乱の裏には王政時代からの部族対立と、経済発展の格差といった面も指摘され、単に民主化勢力対独裁政権だけでは判断できません。
しかし、市民に対する発砲や空爆などは、1989年の中国の六四天安門事件を思い出させる行動であり、それに対する国際的な非難が向けられています。
アメリカやヨーロッパによる制裁も検討されており、軍事介入を含めて情勢はますます不透明となりそうです。
今年に入って連鎖している中東・北アフリカ地域でのデモの頻発は、同時に産油国の政情不安という見方をされており、リスクによる原油価格の高騰を呼んでいます。
原油価格はガソリンなどの燃料や電気料金、輸送運賃などの値上げを呼ぶため、私たちの生活にも影響を与えるものとなります。
これらの発端は、チュニジアでの「ジャスミン革命」による、ベンアリ政権の崩壊が他国に波及したことですが、チュニジアでこれが起こった原因は、失業中の若者による政府への抗議の焼身自殺が発端であり、その背景には若年層の高い失業率による不満の高まりがありました。
さらに、国際的な食料価格の高騰が低所得層の生活に打撃を与え、その不満が長期政権を維持している首脳陣に向けられたとされています。
この食料の高騰の一因としては、アメリカや日本で行われた大規模な金融緩和政策(金利を下げて、お金を大量に流通させるなど)によって、だぶついたお金が投機マネーとして食料の先物取引市場に流れたことがあげられます。
ごくわずかな人々の金儲けのために、食料価格は高騰していき、さらに中国やインドなどの大人口を抱える国での、経済発展による需要増や食の欧米化、加えてオーストラリアやロシアなどの穀物生産地において異常気象が頻発し、農作物の収穫量の減少が起きたことが、それらに輪をかけてしまっています。
日本でもニュースになりましたが、コーヒーや小麦食品の価格が値上げされる裏には、こういった事情もあり、それが引き金となって他国では政権が倒れているという事態となっています。
日本にとっても決して対岸の火事ではないのですが、どうやら我が国のトップの方々は、自らの地位と利権確保のほうが関心事となっているようです。
今日は、75年前の今日に起きた事件について触れたいと思います。
1936年(昭和11年)、北一輝らの思想の影響を受けた、帝国陸軍の派閥「皇道派」の青年将校らが主導する1483人の兵士が反乱を起こし、首相官邸をはじめとする閣僚官邸を襲撃しました。
当時の首相であった岡田啓介は難を逃れましたが、陸軍教育総監・渡部錠太郎、内大臣(元首相)・斎藤実、大蔵大臣(元首相)・高橋是清ら9人が殺害され、侍従長(のちの首相)・鈴木貫太郎が重傷を負いました。
彼らは永田町一帯を占拠し、昭和天皇へ昭和維新の断行と、尊皇討奸=腐敗した政財界(財閥と政治家の癒着)を排除することを訴えました。
彼らの蜂起に対して昭和天皇は大いに怒り、直ちに鎮圧の令を下し、政府によって戒厳令が布かれ、彼らは「叛乱軍」とされました。
包囲された将兵らは、決起から4日後に投降し、法廷で主導的立場にあった青年将校らと、それに影響を与えた北一輝ら関係者が処断されました。
この事件以後、陸軍において皇道派は勢力が衰退し、逆に統制派の発言力が増していき、また軍部の意向に逆らうことは、テロのリスクを引き起こすという政治家らの恐怖を生み、軍部の暴走に対して批判が出来ず、翌年7月7日に起こった「盧溝橋事件」から日中戦争が始まる道筋がついてしまいました。
日付けから「二・二六事件」と呼ばれる、このクーデター未遂が起きた原因は、上記の陸軍における「皇道派」と「統制派」の対立とされており、この前年に皇道派の中心人物であった教育総監・真崎甚三郎が更迭された後、それを主導したとされている統制派の中心人物の陸軍省軍務局長・永山鉄山が、皇道派の相沢三郎に殺害される事件が起きていました。
しかし、それだけではこの二・二六事件を語ることはできず、その裏には複雑な事情が絡み合っています。
まずは、戦前の大日本帝国憲法(明治憲法)においては、陸海軍の統帥権(指揮・監督権)は天皇が有する「大権」としており、実際の軍事作戦は陸軍参謀総長や海軍軍令部総長、動員や編成の命令は陸海軍大臣が天皇に上奏して裁決を仰いでおり、内閣や議会はこれに干渉することはできないとされていました。
ただし、軍事予算の決定や軍隊の編成・艦隊の数などは、法案として議会に提出し、議決を得る必要がありました。
統帥権と一言で言っても、その範囲や独立性などは明治憲法では明記されておらず、この憲法の一つの欠陥となっていました。
問題が顕在化したのは、1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約の締結時でした。
野党・政友会の犬養毅や鳩山一郎は、艦隊の数が海軍軍令部の要求に足りておらず、内閣が統帥権の干犯をおこなったとして攻撃し、枢密院や海軍の軍縮反対派も同調しました。
昭和天皇はこの条約に賛同し、結果として批准が行われましたが、内閣総理大臣の浜口雄幸が東京駅で右翼青年に狙撃され、翌年、浜口内閣は総辞職してしまいました。
これ以降、統帥権干犯問題はしばしば軍部の暴走の根拠となり、政府の方針を無視する原因ともなっていきました。
経済・社会的な側面では、1929年10月24日のニューヨーク証券取引場での株価の大暴落が、「世界恐慌」を引き起こし、日本にもそれが波及して「昭和恐慌」に陥っていました。
街部では企業の倒産が相次いて失業者があふれ、農村部では生糸と米の価格下落によって困窮し、青田買いや身売りが深刻化しました。
一方、日露戦争によってロシアの脅威を退け、中国東北部の遼東半島を含む満州(関東州)を租借した日本は、大陸においてその権益を拡大しようとしていました。
第一次世界大戦が終結した1919年に設置された関東軍は、内閣の不拡大政策を無視して独断で張作霖爆殺事件(1928年)や満州事変(1931年)を引き起こし、1932年には満州国の建国が行われました。
満州国の建国は日本の国際的孤立を高めることとなり、国際連盟の脱退へとつながってしまいました。
同年、国内では帝国海軍の将校らが五・一五事件というテロ事件を起こし、犬養毅首相を暗殺しました。
これによって戦前の政党政治は実質的に終焉してしまい、ますます軍部の影響力が強くなってしまいました。
また、彼らの処断に対しては同情が集まったこともあり、最高で禁固15年という軽い刑だったことが、二・二六事件決起に少なからず影響したとも考えられています。
長引く不況と農村の荒廃に対する社会に対しての不満の高まり、それを改革しようとする若い将校たちの赤心と、それを利用しようとした陸軍内での主導権争いなどが、二・二六事件につながったという見方もできます。
参考
東京紅団 昭和を歩く-2-(二・二六事件)
Wikipedia 二・二六事件
現在、あらゆる地域で起きているデモや反政府運動は、ただ単に民主化を叫んでいるわけではないと考えられます。
貧富の格差の拡大や失業、食料やエネルギーの価格高騰などに対する不満がその背景にあり、情報の拡散が速く行われることでその力は大きくなっています。
これからの時代は、食料と水、エネルギーがますます重要となってくることは間違いなく、資源確保による争いの可能性も否定できません。
世界で起こっていること、過去に起こっていたことを学ぶことは、これから先を考える上でも大切なことだと思います。
過去の今日に起きた事件を切り取り、その経緯と結果を知ることで、自らの視点を広げていきたいと思います。
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