秋田県横手市増田町 千葉建築のブログ

秋田県の県南、横手市増田町の工務店、(有)千葉建築のブログです。
よろしくお願いいたします。

7月の終わり

2011-07-30 16:32:10 | 建築日記
7月30日(土曜 旧暦6月30日 五黄 大安 丙戌)


こんにちは。横手市増田町の工務店、千葉建築です。


雨が降ったり止んだりと、不安定な天候となっています。

このあたりはたいしたことがありませんが、新潟県と福島県では記録的な豪雨によって、河川の堤防が決壊したり土砂災害が起きたりと、大変な災害となってしまっています。

両県での避難勧告と指示が、40万人を対象にと大幅に拡大しており、人的被害もすでに出ているようです。


東日本大震災での大津波被害と、東京電力・福島第一原発事故への対応に苦慮している福島県にとっては、この豪雨被害によってそれらの対策に影響が生じる恐れが出てくることと思います。

人災の面が大きい今回の原発事故を除いて、自然現象から起こる天災については、いくら対策をとっても完全なものとするのは難しく、一度発生するとその復旧へは多くの時間と費用が必要になります。

しかし、それは後のことであるため、今はこの豪雨が少しでも早く収束することを願いたいと思います。


あっという間に、7月もあと明日を残すのみとなってしまいました。

今月の始まりは猛暑となり、また梅雨も例年に比べてかなり短く、各地で猛暑日が続く今年の夏となりました。

昨年は9月以降も暑くなり、10月半ばくらいまで残暑が続いたという記憶がありますが、今年の8月以降は一体どうなるのでしょうか。


3月11日から4ヶ月以上が過ぎましたが、1000年に一度という大震災と津波、さらに原発からの放射性物質の拡散による汚染という、今までに経験したことのないような出来事が次々に起こました。

私の住む横手市増田町は、岩手県と宮城県の県境に近く、山やトンネルを越えて両県とは行き来が容易にできる地理状況にあります。

当然知り合いや身内も多く、あの停電と通信障害の中で安否の確認が行われるまでは、ラジオで情報を少しでも集め、幾度となく襲った余震に耐えながら過ごしたことを思い出します。


東北の日本海側にある秋田県では、直接的な被害はほとんど無く、2週間ほどは燃料不足や物流の混乱という影響は受けたものの、現在ではいつもの年と同じように夏を過ごすことができています。

しかし、車で3時間ほどの距離にある東北の太平洋側へ行ったときは、あまりの被害の大きさにただ絶句し、最も起こってもらいたくないものが起こったという感情を抱きました。

そうした中でも、震災から4日ほどで東北自動車道が、1月あまりで東北新幹線が開通し、先日7月25日からは仙台空港の国内定期便が再開されるなど、大きなところから少しずつ復旧が行われていることを実感しています。


この間の政治やメディアなどの姿勢については、語りつくせないくらい言いたいことは多くありますが、まずは日本の国内と国民、特に被災された方々に真摯に向き合うことを大前提として考えていただきたいと思っています。

現時点でも、一所懸命に復興作業に当たっている方々や、未だ危険な状況が続く原発での作業にあたっている方々がおります。

そうした人々のことを思いながら、日々の生活や仕事をしっかりとこなし、経済を力強くまわしていくことと、それを数年・数十年単位で行う意識を持っていくことが大切だと思っています。


7月の半ばの16・17日に、仙台で「東北六魂祭」というイベントが行われました。

これは、東北6県の伝統の祭りを一堂に集めたものであり、本県からは8月初頭に行われる「竿灯」が参加しました。

復興を願う思いからか、あまりにも観客が殺到しすぎて、初日は竿灯と青森のねぶたが中止となったりしたそうですが、それは大いに賑わいを見せたことの証でもあるかと思います。


とは言えど、東北各地でのイベントや祭りは集客での苦しい状況が続いており、この盛り上がりを各地で同じように行えるかは難しいところでもあるようです。

増田町では、8月16日に「全日本元祖たらいこぎ選手権大会」が例年通り開催される予定であり、今現在でも準備にいそしんでいる状況にあります。


祭りは、天災に対する畏れと、死者の鎮魂、そして収穫と新たな生命への喜びと希望という面を持っています。

祭りの日には、集まった人々が共に笑い賑わい、歌や音楽・踊りなどで盛り上がるというスタイルが多くの地域で見受けられます。

今年も当たり前のように祭りを楽しむことで、次の日からの再スタートを気持ちを切り替えて向かえるという考え方もあり、それは決しておかしなことではないと思っています。

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〒019-0701 秋田県横手市増田町増田字伊勢堂南6-4

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土潤って蒸し暑し

2011-07-28 20:00:19 | こよみ
7月28日(木曜 旧暦6月28日 七赤 先負 甲申)


こんばんは。横手市増田町の工務店、千葉建築です。


今日も一日蒸し暑く、じめじめと不快な思いをされた方が多いかと思います。

人が感じる暑さは湿度によっても変わり、同じ温度でも湿度が高いと、皮膚の発汗による体温低下が妨げられるため、より暑く感じることとなります。


暦においても、二十四節気を3分割した七十二候において、今日から「土潤って蒸し暑し」という時候となっています。

今日は局地的に強い雨が降ったこともあり、そうしたと思えば太陽が照り付けて一気に雨が蒸発し、まさに湿気に包まれる条件が重なっていたと思います。

しかし、今年の夏は梅雨が終わったとたんに断続的な雨の日が無く、農業をされている方も用水の確保が大変な状況になっているところもあります。


この天候不順の状況は、全国的にも大きな影響が出ており、夏の風物詩であるスイカの価格も高騰しているというニュースも目にしています。

一玉4000円に迫っているという小売価格では、なかなかおいそれと気軽に買えるものでも無くなってきており、毎年スイカの季節を楽しみにしている方々にとっては、苦しい選択を迫られているかと思います。

夏が過ぎると秋になり、収穫を迎えるというこれからの時期に、心配事は尽きない状況となっていますが、自然と人の手によって生み出される収穫物を感謝して味わえるよう、これからの天候が例年通りに周ることを願いたいと思います。


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アンデスの世界遺産

2011-07-27 23:40:02 | 歴史と文化
7月27日(水曜 旧暦6月27日 八白 友引 癸未)


こんばんは。横手市増田町の工務店、千葉建築です。

また更新が遅くなってしまいました。


昨晩は雷が激しく鳴りました。

稲光が光るたびに、パソコンに影響が出ないかとひやひやしましたが、どうやら大丈夫であったようです。

バックアップはこまめに行っていますが、不測の事態に陥らないように、その頻度をより上げていきたいと思います。


今回の大震災で、東北の太平洋側の広範囲に壊滅的な被害が出たことは、同じ東北人にとっては非常に痛恨の出来事となりました。

復興へ向けて着実と動き出した地域がある一方で、東京電力・福島第一原発事故の影響を受けた地域は、未だ予断を許さない状態にあり、放射性物質の汚染はあらゆる農産物や土壌に広がってしまっています。


東北地方は、特に東京への人口流出によって日本でも過疎化の最も進んだ地域の一つでもあり、人口減少と少子高齢化によって、地域によっては集落の存続すらも危ぶまれるところもあります。

そうした現状にあって、この度の天災と人災による影響は、試練という言葉では済まされないほどの厳しすぎる現実となってしまいました。


しかし、こうした事態の中で、被災した岩手県にある平泉がユネスコの世界文化遺産に選ばれたニュースは、僅かながらの希望と明るさを与えるものとなったと思います。

大震災と原発事故以降、東北地方の観光客は激減しており、とくに海外からの観光客が顕著であるそうです。


復興の一つの手立てとして、観光による支援というものがあります。

被災した地域には、素晴らしい観光資産があり、被害を受けながらも観光施設が復旧したりと、場所によっては観光客を受け入れる体制ができてきた話も聞こえてきています。

個人的に、平泉は3度ほど訪れたことがありますが、今回の震災では大きな被害はないと聞いているため、折を見て再び訪れたいと思っています。


いわて平泉世界遺産情報局

平泉については、別に話題を設けるとして、今日は海外のある世界遺産についてご紹介したいと思います。


私が以前映画館で見た映画に、『モーターサイクル・ダイアリーズ』という映画がありました。

始めは題名で興味を引かれて、内容については映画を観てから知ったものでありますが、この作品は1950年代の「キューバ革命」において、盟友のフィデル・カストロとともにその名を残した、アルゼンチン人革命家、エルネスト・チェ・ゲバラの青春時代の旅行記を映像化したものとなっています。


南米の各地をバイクで友人と旅していくうちに、各地で社会の矛盾を目の当たりにし、後の彼の生涯と思想にも大いに影響を与えたものとされています。

バイク旅が中心となりながらも、南米の自然と音楽、人々の情景が非常に印象的であり、個人的にもう一度観てみたい映画の一つとなっています。


その南米の風景の一つに、ペルーにあるインカ帝国の都市「マチュピチュ遺跡」が出てきます。

今年は、このマチュピチュ遺跡が、アメリカのエール大学の歴史家のハイラム・ビンガムによって「発見」された1911年7月24日から、100年目の年となっています。

標高は2000メートルの高地にあり、裾野からはその存在を確認することができない地理条件から、「空中都市」という別名がついています。


アメリカ大陸は、ヨーロッパで始まった大航海時代の1492年に、コロンブスによって「発見」されてから、ヨーロッパ人がこの地への入植や開拓を行い、やがて図々しくもこの地を自分たちの土地として所有権を主張しました。

これは、その地域に古くから住んでいた「先住民」インディアン(ネイティブ・アメリカン、インディオ)たちにとっては、受難の時代の始まりとなってしまいました。

自然とともに生き、独自の文化と社会を維持してきた先住民の生活は、ヨーロッパ人の「開拓・探検」によって破壊されていき、特に中南米においては、スペイン人がその破壊者となりました。


ペルー・ボリビア・エクアドルにまたがるインカ帝国(アンデス文明)、メキシコにおけるマヤ文明(メソアメリカ文明)はその犠牲となり、ヨーロッパ人の武器と彼らが持ち込んだ病(天然痘など)によって先住民の多くの命が失われました。

インカ帝国は、アンデスの地に古くから住むケチュア族によって、1438年に建国され、1533年にスペインによって滅ぼされるまで存在し、さらにその先をさかのぼっていくと、紀元前7000年前頃にその原型を見ることができるそうです。

インカ帝国と、その前身となったクスコ王国の都は、ペルーのクスコに置かれましたが、このクスコの街はインカ帝国が建国される2~3百年前に建設され、ケチュア語で「ヘソ」を意味する言葉通りに、インカ帝国における中心地であったとされています。


インカ帝国を含むアンデス文明は、太陽を信仰し、また石造りの建造物や精巧な石加工技術を要していながら、文字を持たず、「キープ」という縄の結び目で記録を残していた(未解読の部分が多い)という、非常に多くの謎に包まれつつも、高度な文明であったとされています。

「インカ」とは、ケチュア語で「王」を意味し、ケチュアの王が他の民族を束ね、太陽信仰の元でこの地を支配していたことを表しています。

インカ帝国における他民族支配は、穏健に行われていたとされ、帝国内は多くの民族と多くの言語を有する多民族国家であったとされています。


16世紀にはいると、ピサロ率いるスペイン人らが、中米のパナマからインカ帝国の侵略を始めました。

インカ帝国は滅亡へと向かいますが、一説によると、スペインに対しての反攻を目指したインカの遺臣たちが、はるか高原の頂にそびえるマチュピチュを砦として頼り、そこからさらに奥地へと逃れたとも言われています。

しかし、太陽信仰を行っていたインカの人々にとって、このマチュピチュは太陽の観測所としての用途に過ぎなかったり、あるいは王族などの別荘として用いられたとの説もあったりと、未だ解明されない多くの謎に包まれています。


いずれにしても、マチュピチュは20世紀に入るまで、その存在を確認されず、後世に残る人々にとっては、苔むした石造りの大建造物群と、失われた多くの史料の断片から推定せざるを得なくなったともいえます。

歴史とは、常に勝者によって書き換えられてきたというのは言うまでもないことですが、敗れた側にとってもそれまでに彼らの長い歴史が存在してきたのは間違いの無いことであり、言い換えれば、歴史の教科書に刻まれている部分だけが「正史」でないことは確かなことだと思っています。

さらに、その敗者が文字や言葉を持たず(あるいは消された)、後世にその意思疎通がなされなくなってしまったことで、その存在が忘れられたものとなってしまうことは、歴史においても自然界における弱肉強食の原理が働いているようにも感じています。


それは、日本史についても同じことが言えると思い、個人的に最近では主に古代史に観点を置いて、知識の習得に努めているところであります。

長らく中央政府に抵抗し、「逆賊」の立場にあった熊襲や蝦夷といった人々の歴史を追ってみることで、また違った観点を得られるきっかけとなれば、これからの未来を考える上でも大切なものとなるのかもしれません。

ユネスコ 世界遺産 マチュピチュ(英語)



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後ろに

2011-07-26 21:17:53 | こよみ
7月26日(火曜 旧暦6月26日 九紫 先勝 壬午)


こんばんは。横手市増田町の工務店、千葉建築です。


消防団の大会が一段落したとたんに、体調を崩してしまい、昨日は一日床に伏せてしまいました。

今朝は体調は回復しましたが、自身の自己管理の甘さを猛省しており、今後はこういったことの無いようにしたいと思います。

ブログの更新も遅くなってしまいましたが、今日も仕事にはあまり関係ないながらも、一人でも多くの方の興味を引くような話題を提供していきたいと思います。


今日も蒸し暑い、日本らしい夏の一日となりました。

一昨日あたりから、「ジージー…」というアブラゼミの鳴き声に、「カナカナ…」というヒグラシの甲高い音も混じってきており、夏もいち早く折り返し点に近づいてきているような時候となっていると思いました。

ただし、日中の暑さはやはり容易ではなく、盛夏はこれからという様相を示しているようにも思えます。


夏といえば、夏休み・スイカ・海・山・カキ氷・花火…と、人それぞれが思い浮かべるイメージは、さほどばらけないかと思います。

小学生くらいの頃は、夏休みはまさに1年で最も待ち望んだ時期であり、終業式に配られる通知表や夏休みの宿題などはすでに忘却の彼方となって、毎日早朝から暗くなるまで、友人といかに楽しく過ごすかに腐心した思い出があります。


当然、夏休みは終わりがあるものであり、その終わりが指折り数えられるようになるにつれて、焦燥感と遊び足りなさに心が締め付けられ、膨大な夏休みの宿題という未解決の現実に半ば涙目になりつつも、遊びの誘惑には負けてしまうということを毎年繰り返していた記憶があります。

立てた計画を守ることが苦手な性格は、長じてもあまり変わっていないことは私の最大の欠点でもあり、今からでも早急に改善しなければならない命題であることは確かですが、とにかく夏休みというものには一種の「魔力」というものが存在しているのかも知れません。


先日の日曜日にある一つの歴史が終わったことは、皆様御存知であるかと思います。

2011年7月24日正午、東北の被災3県を除いてテレビの地上アナログ放送が終了し、地上デジタル対応テレビやチューナーなどがなければ、テレビを見ることができなくなりました。

個人的には、テレビを一日30分も見ませんし、まったくと言ってよい程生活に影響の無い出来事ではありますが、テレビを毎日楽しくご覧になっている方々にとっては、一家に何台かあるテレビを買い換えられたりして、余計な出費がかさんだという声もあったかと思います。


かなりの暴論であり、これを読んで不快に思う方もいらっしゃると思いますが、最近のテレビ番組は以前と比べて観たいと思えるものが少ないと思っています。

そうした番組を黙って観ている時間が、個人的に非常に無駄に感じるため、同じ時間を使うならばラジオを聴きながら本を読んだり、好きな音楽や映画を楽しんだりしたほうが良いという思いを抱いています。

もちろん、今でも良質な番組は制作されていると思いますが、毎日どこかの国のドラマや通販番組ばかりが放映されたり、どこの放送局でも同じような切り口のニュースしか報道されない現状を思うと、どうしてもテレビを買い換えてまで観たいとも思えません。


もちろん、テレビの値段が高額であり、テレビが国民の娯楽の王様であった時代には、今のようにインターネットやゲーム機、携帯電話などがなく、家族も居間にある一台のテレビの前の「お茶の間」に集まって、野球だ、いやお笑いだ、歌番組だ、という「チャンネル争い」が繰り広げられたと思います。

その勝者はそのまま家庭内での最高権力者とイコールであり、下位の者はそれに従わざるを得ないという、半ば理不尽ながらもほほえましい時代であったと思います。

その後、テレビは一家に一台から、一人に一台の時代になり、さらに核家族化や娯楽の多様化によって「お茶の間」の存在意義が次第に低下し、それがテレビの斜陽期と重なっていったかと思います。


ちょうど私の幼少期には、1983年(昭和58年)に発売されたファミリー・コンピューター(ファミコン)が一大ブームとなり、漫画雑誌も多く刊行された時期ともなっていました。

またバブル経済期の到来によってテレビ番組に多くのスポンサーが付き、贅沢な番組が多く放映されるなど、まさに娯楽の黄金期を幼少期に体験した世代であるとも言えます。

今でも、同期の方々とその時代の話をすれば、その時代のテレビや漫画、ゲームの話題で盛り上がる反面、現在のそういった話には付いていけない部分が多々あります。

そうした体験が、今のテレビ番組に物足りなさを抱く一つの要因であるかと思い、懐古主義的な思いが純粋にテレビなどを楽しめないという理由にもなっているかとも自己分析しています。


さて、そうした懐古主義者が思い出す夏のテレビ番組といえば、お昼の時間に放映された、『あなたの知らない世界』というものがありました。

これは、日本テレビ放送網(秋田では秋田放送テレビ)での『お昼のワイドショー』(後に『おもいっきりTV』)で放映された特集コーナーであり、心霊体験や恐怖体験を再現した話題を提供していました。

この番組は一種のバラエティーであり、今から思うとこの中には真偽にかけるものもありましたが、これを幼少期に視聴した方の中には、一種のトラウマに近い影響を受けた方もいらっしゃるかと思います。


日本では古来から、暑い夏を涼しく過ごす為の方法として、恐怖や心霊話などで肝を冷やし、心の底から涼を得るという一種の娯楽がありました。

夏の夜に悪童たちと墓場や寺社の境内などで行う、「肝試し」もその一つであり、また「お化け屋敷」といったドッキリを味わう施設なども一定の人気を得ています。

各地の心霊スポットといったものもその一環ともいえますが、これは明らかに悪乗りが過ぎており、近隣住民への迷惑や、場合によっては不法侵入などの罪に問われるため、これは絶対にやめるべき行為であるといえます。


とにかくとして、元は生きていた人間や動物が死に、その生きていたときや死んだときのの姿や記憶・感情を持って、現在生きている人間の前に現れるという現象を、人々は「幽霊」や「霊魂」として認識しています。

幽霊・霊魂の存在は、現代の科学では全く立証されていないものでありますが、洋の東西を問わず、古来よりその存在があるものと信じられ、不可解な現象をその存在と結びつけて考えてきたものもあります。


自らの祖先への敬慕の念を信仰したり、鬼や荒ぶる神、無念を抱いて死んだものと天災とを結び付けて畏れたり、信じられないような奇跡を起こした人を偉大なる霊魂と結びつけたりと、霊魂と人々の多種多様な関わりが各種の宗教に与えた影響というものは、少なからずあると思っています。

古来、宗教と政治が一致していた時代には、「政事(まつりごと)=祭事(まつりごと)」であり、霊魂を鎮める力のあるものが政治のリーダーとなることで、人心を安寧するという部分があったと、勝手に思っています。


長々とわけのわからない話を述べてきましたが、今日7月26日は、「幽霊の日」という記念日となっていることをここで御紹介したいと思います。

これは、1825(文政8)年、江戸の中村座で、4世鶴屋南北・作の狂言歌舞伎『東海道四谷怪談』が初演されたことによります。

いわゆる『四谷怪談』として知られるこの話は、有名な「お岩さん」が登場するものであり、江戸前期・元禄時代に起こった実際の事件がモデルになっています。


とはいえ、実際の話とは登場人物の設定などに脚色が施されており、怪談では夫・伊右衛門に裏切られ、少しずつ毒薬を盛られて顔が崩れていき、苦しみながら殺された四谷左門の娘お岩が、霊となって夫に復讐をするというストーリーとなっています。

これは私の駄文よりも、芝居や映画などで実際にご覧になったほうが良いかと思います。


私はあまり幽霊を見たいとは思いませんし、実際に30年以上生きてきて、幽霊を見たことは未だ一度もありません。

ただし、風呂場で髪を洗っているときに後ろに感じる違和感や、海辺や川縁の何も無いところを変に意識したりと、「何か」の存在感を感じるときもあります。

科学的根拠の無いことはほとんど信じませんが、言い換えればそれは「信じたくない」ことへの裏返しの感情なのかもしれません。

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2つのスーダン

2011-07-23 16:54:37 | 歴史と文化
7月23日(土曜 旧暦6月23日 九紫 仏滅 己卯)


こんにちは。横手市増田町の工務店、千葉建築です。


今朝も朝から、揚げ物を揚げる音からその名が付いた、アブラゼミの鳴き声で目を覚ましました。

急に涼しくなった昨日までから、今日は気温も上がったようですが、まだ過ごしやすい一日となっています。

今日から二十四節気の「大暑」となり、まさに夏本番という時期が訪れています。


揚げ物の話をすると、今日は「天ぷらの日」という記念日になっていることに気づきました。

一年で最も暑い「大暑」の時期に、天ぷらを食べて夏バテしないようにと、土用の丑のうなぎ、8月29日の「焼肉の日」と同様に、対夏バテ三大料理として天ぷらをその一角に加えているそうです。

食事と睡眠は、夏バテのみならず熱中症や夏風邪などの予防にも寄与するため、健康に夏を乗り切るためにもこうした記念日にちなむのも良いのかもしれません。


さて、7月も後半に入っています。

今年は6月から猛暑が続き、7月1日の電気使用制限の開始で節電が義務付けられ、企業活動や家計に多大な影響を及ぼしています。

電気使用量の増大は、そのまま豊かさの象徴を表してきたと考えられますが、逆にそれが足かせとなってしまった部分もあったことを気づかせ、これからのエネルギー政策や生活スタイルなどを見直すという転換点になっていると思いたいところです。


日本は、経済において世界の中でも上位に位置し、アメリカやEU諸国といった国や地域と並んで、重要な一端を担っています。

その日本が属するアジアにおいては、龍が昇るが如く著しい成長を遂げ、数値上の経済力ではすでに日本を追い抜いた中国、中国に次ぐ人口を擁し、経済成長も中国と双肩をなしているインドが躍進を遂げています。


そして、国が主導して産業を世界に売り出している韓国、政治的には対立しながら、中国との経済的な結びつきを強めている台湾、その他シンガポール、タイ、マレーシア、インドネシア、ベトナムといった東南アジア圏や、インドの隣国のバングラデシュなども含めると、世界的にも一大経済圏を形成する地域となってきています。

アジアでは、第二次世界大戦や朝鮮戦争、ベトナム戦争などといった戦争や、領土問題・民族問題といった対立の歴史の影が大きく残ってはいますが、経済的な結びつきは確実なものとなっており、さまざまな障害や問題はあるにしても、これからの時代はますます結びつきが強くなると思っています。


アジアと同じく、かつて帝国主義列強国の植民地となり、20世紀には次々と独立して新国家が成立した地域といえば、中東とアフリカがあります。

中東と北アフリカ地域は、エネルギーにおいて重要な原油を生産する一大地域でありますが、第二次世界大戦後のイスラエル建国と中東戦争をはじめ、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、イラク戦争と続き、泥沼化したアフガニスタン戦争も影響して、経済発展にはばらつきがある地域となっています。

さらに、昨今の中東・北アフリカ地域における民主化の波により、チュニジアとエジプトでは政権が倒れ、リビア、シリア、イエメンといった国では内戦状態に陥るなど、今後の情勢が不透明な状態となっています。


北アフリカにある「サハラ砂漠」をはさんで、南側のアフリカといえば、独立以降内戦が続いたり、ソマリアのように全土を掌握する政権が存在しない状態の国があるなど、安定した国家が少なく、さらに貧困や衛生状態といったものが改善されず、我々が想像する以上に酷い状況となっている国もあります。

最南部の南アフリカ共和国など、経済成長を遂げている国もありますが、アフリカの多くの国では民族や宗教対立に、地下資源をめぐる対立なども重なって、政治情勢や治安が不安定になっているところもあります。


アフリカの地図を見てみると、国境線がまっすぐである地域があります。

これは欧米列強がアフリカを植民地としていた時代に、その国の民族・宗教事情などを考慮に入れずに、まるでケーキを切るが如くアフリカを分割したことに由来しています。

この線引きされた国の枠組みの中で、その国が独立して自分の足で歩み始めたとき、一つの国に異なった文化や言語を持つ民族が混在したり、あるいは同じ民族が別々の国民となるなど、多くの矛盾を抱える原因となったとも言われています。


そのようなアフリカの国家に、今年2011年7月9日に、新しい国家が誕生していたことは、よほどニュースを毎日ご覧になっている方や、この地域に関心を持っている方以外は、あまり知られていないことかもしれません。

新国家名は「南スーダン」といい、今年の1月に国民投票が行われ、北部にあるスーダンからの分離独立がなされました。


これまで一つの国であったスーダンでは、1956年の独立前から北部と南部で内戦が起きており、2005年の南北和平協定締結まで、一時の中断をはさみつつも40年にもわたって内戦が続いていました。

それ以外にも、スーダン国内では西部に位置するダルフールという地域で、「ダルフール紛争」という内戦が行われており、これは現時点でも継続されています。


さて、南部が独立する前のスーダンを地図で見ると、北にはエジプト、東にはエチオピアとエリトリア、南はケニア、ウガンダ、コンゴ民主共和国(旧名ザイール)、西はチャドとリビア、中央アフリカと国境を接しています。

世界地図で見ると、北のエジプトとの国境線と、西のチャドとの国境線は、まっすぐなラインで引かれており、南北をあわせたスーダンの国土は、アルジェリアとコンゴ民主共和国に続いてアフリカで3番目に広い面積を有していました。


世界で最も長い「ナイル川」は、タンザニアとウガンダにまたがる「ビクトリア湖」の水(白ナイル)と、エチオピアの「タナ湖」から流れる水(青ナイル)が交わり、エジプトにおいて地中海へと流れています。

この、白ナイルと青ナイルの交わる地域が、ちょうど北部スーダンの首都ハルツームに当たっています。

「エジプトはナイルの賜物」という言葉のように、エジプトのナイル流域では四大文明の一つ「エジプト文明」が生まれ、エジプト南部のアスワンから北部スーダンの辺りは「ヌビア」という名前で呼ばれ、金や鉄などの鉱物資源に恵まれた地でありました。


古代エジプトの王朝は、このヌビアを重要な地として、支配と撤退を繰り返していました。

そのような中で、南部の黒人がこの地に移住し、クシュ王国という国家を建国しました。

クシュ王国はエジプトの影響で発展していき、一度はエジプトに攻め滅ぼされますが、再興して逆に弱体化したエジプトへ侵入し、王朝(第25王朝)を成立させました。


第25王朝はアッシリア(メソポタミア地域にあった帝国)に破れ、クシュはヌビアへと撤退し、その後さらに南のメロエ(ハルツーム近郊)へと首都を移し、メロエ王国という黒人国家及び文明を成立させました。

紀元後4世紀、メロエはエチオピアのアスクム王国に破れ、国が3分割され、さらにエチオピアからキリスト教が伝わり、この地はキリスト教圏となりました。

1000年後の16世紀には、この地もイスラム圏に取り込まれてフンジ王国が成立し、西部のダルフールにもダルフール王国というイスラム国家が成立しました。


その後スーダン全域は、1820年にすでにオスマン帝国からほぼ独立していたエジプトによって支配されますが、その後のイギリスの進出とエジプトの保護国化によって、1898年からはスーダンの北部をエジプト、南部をイギリスが「分割統治」する形(実質的に全土がイギリスの影響下)となりました。

スーダンは、北部にアラブ人とアラブ系スーダン人、西部(ダルフール地方)にフール人など、ナイル流域のヌビア人、南部(南スーダン)には黒人を中心に多くの遊牧民族が存在する地域となり、さらに北部とダルフールの宗教はイスラム、南スーダンには伝統宗教と、イギリスによって布教されたキリスト教が信仰される形となっていきました。

この分割統治によって、北部ではアラブ&イスラム、西部は非アラブ&イスラム、南部では非アラブ&伝統宗教とキリスト教(※実際はキリスト教の信仰者は少数派)という図式を作り、人々の植民地化の不満を国内での対立で逸らさせるという、列強の植民地支配の常套手段が用いられました。


第二次世界大戦後、イギリス支配下の国々が次々に独立する中、1947年にスーダンでは北部と南部が統一した形での独立が目指されました。

北部の主導の下で進められたこの統一は、そのまま北部よりの政府の成立と、経済利権が政府に集中することを意味し、さらに後の開発で、豊富な原油などの地下資源は南部に集中しており、南部の人々にとってはそうした格差が生じていることは不公平と感じ、やがてそれは対立として顕在化しました。

1955年には、南部で大規模な反乱が発生し、そのままスーダン内戦へと展開しました。


内戦勃発の翌年、スーダンは南北統一した形で独立が行われ、北部と南部は幾度か和平を試みましたが、いずれも不調に終わり、内戦は長期化していきました。

1969年、軍事クーデターでニメイリが政権を取ると、彼は長引く内戦を止めようと、国連やアフリカ統一機構(OAU、現在のアフリカ連合(AU))の仲介で、エチオピアのアジスアベバで南北和平協定が結ばれ、1972年に一旦内戦は終結しました。


内戦を止めたニメイリでしたが、その後スーダンの経済・財政状況は悪化していきました。

ニメイリは北部の結束を強めるために、スーダン全域でのアラブ化・イスラム化を推し進めようとして、1983年にイスラム法(シャリア)を導入しました。

また、開発によって南部に多く集中していたことがわかった石油資源の独占を狙ったことで、これらに南部が猛反発して、南部の政府軍出身者によるスーダン人民解放運動(SPLM)が蜂起し、10年続いた和平は崩れて再び内戦が始まりました。


現スーダン(北部)大統領のバシルが、1989年の無血クーデターによって政権を取ると、彼はアラブ・イスラム化をより強化して、政府に反発する勢力と徹底的に対抗する姿勢を見せ、内戦は拡大・激化していきました。

バシルは、イラクのサダム・フセイン政権や、リビアのカダフィ政権と友好関係を結び、またイスラム原理主義組織も自身の政権基盤として重要な位置を占め、スーダンは国外からの批判をものともせずに、強硬な手段を用いていきました。

後の話となりますが、このバシルの姿勢は、対南部諸州だけでなく、同じイスラムを信仰する西部のダルフールにおいても同様であり、2004年には政府の支援を受けた現地のアラブ系民兵組織「ジャンジャウィード」が、ダルフール地方の非アラブ系住民を攻撃して大量の難民が発生し、現在でも「大量虐殺」と「民族浄化」という、最悪の人道危機が続いているとされています。


南北が対立する一方で、長引く南北の大規模な内戦は国の発展を確実に妨げており、またもともと別の国としての意識が強い南北が、統一した国を維持していることは無理があるという現実がありました。

さらに、アメリカによってイラクのフセイン政権は追い詰められ、リビアのカダフィはアメリカとの関係改善を図ろうとする状況の変化によって、南北は和平に向けた動きもなされるように成りました。

こうして、2002年に両者は停戦に合意し、2005年に和平協定が結ばれて、南北スーダンの内戦はようやく終結しました。


しかし、この和平協定が行われる最中で、先述したようにもう一つのスーダンにおける内戦・紛争となった「ダルフール紛争」へとつながった対立が始まっており、繰り返し述べますがこれは「現在も続いている」問題となっています。

国際的な非難の声に対して、スーダン政府は「内政干渉」と反発し、またスーダンから原油資源を多く購入している中国などは、国連のスーダンへの強力な制裁に対して反対するなど、ほとんど国際的に見捨てられる状態となってしまっています。

2009年には、バシル大統領に対して、国際刑事裁判所が逮捕状を発行すると、これに対してスーダン国内の「国境なき医師団」などのNGOを強制退去させるなど、問題はこじれていく一方となっています。


今年はアフリカに54番目(西サハラを含むと55番目)の新国家が成立しましたが、これにいたる経緯や現状と、これからの道筋といったものについては、それまでの流れや現在の国際関係を知っておかなければ、理解も薄いものとなってしまいます。

独立した南スーダンは内陸国となったため、隣国ケニアとの間に原油パイプラインを建設し、ケニアの海から輸出を行うという計画も行われ、それを日本・中国・アメリカとの間で資源ビジネスをめぐる動きとして、争奪戦の様相も見せています。

国連の要請で、日本から南スーダンに平和維持活動(PKO)の派遣が計画されましたが、震災による人員不足と、震災前から続いている政治の混乱によって実現が難航しています。


こうしたニュースは、日本においてはおそらく特集でも組まれない限り、ほとんど目にすることのないような内容だと思います。

はるか遠い国の話題であることは確かですが、分離前のスーダンはアフリカ第6位原油産出国(日産50万バレル)であり、原油の輸出相手国は、トップが中国の65%、次いでインドネシアの15%と続き、3番手に日本となっています。

エネルギー確保は、中国のような多くの人口を抱え、さらに日の出の勢いで成長している国や、日本のように電気に多くを依存し、電力の安定的な供給を原則としている国にとっては、最重要課題となっています。


先のダルフール紛争では、中国製の武器や兵器が政府の支援する民兵組織に渡っており、穿った見方では資源確保の見返りが、現地の人道危機を積極的に支援しているという体勢が見られ、アメリカは独自に制裁を行いながらも、関係が深くなってきている中国とは、正面きって対立するのを回避したいという事情も見受けられます。

そういった利権の話は別としても、現在進行形で行われている人道危機については、これを「知る」ことからはじめたほうが良いのかもしれません。


また、独立した南スーダンに関しても、未だ北部と係争中の問題や、水資源をめぐる争い、南部領土内での反対勢力など、新国家として解決すべき問題が山積しています。

アフリカは、人類の故郷であり、数多くの文明や文化が生まれてきました。

しかし、長期によって行われた奴隷貿易や、地域性を無視した欧米列強によるアフリカ分割といった暗い歴史もあり、それが独立後の国家間・国内での対立の火種となり、加えて貧困とエイズ、マラリアなどの病気が発展を妨げています。


私はアフリカを訪れたことはありませんが、北アフリカのエジプト文明や地中海文明、黒人国家の名残といったものには多くの興味があり、そして大自然と野生動物といった多くの人がアフリカを連想させるものには、例外なく興味をそそられます。

政情が不安定であっても、悪いイメージのみでその国にいる人々全体のレッテルを張ってしまうことは、愚かなことだと思っています。

南スーダンが誕生したこの時期に、そうしたことを今一度認識しておきたいと思います。

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