みちのくの放浪子

九州人の東北紀行

花いばら

2018年04月24日 | 俳句日記


野いばらの花のことである。
稀に古語を使って「花うばら」と詠んだ
りするむきもある。
日本にも古くから自生していた。

万葉集の巻二十に、

《 道の辺の うまらの末に 這う豆の
からまる君を はなれか行かむ 》

" 道の辺の野いばらに絡まる実の様に、
離れ難い大切な君をおいて私は行こう "

とでも言っているのであろう。
西国では「うばら」と言っていたのを、
東国訛りで「うまら」としているところ
をみると旅立つ防人の歌かも知れない。

もう一つ、昨日の「針槐と女学生」の、
俳句と音楽の絡みが受けたので、本稿も
シューべルトの「野ばら」を調べている
と面白い符合に行き当たった。


シューベルトはゲーテの詩「野ばら」に
曲想を得たのだが、ゲーテ先生は若い頃
の悲恋を、慚愧の念を込めて詠んだ。
ゲーテ先生も隅に置けない方だった。


野ばらに寄せる人間の想いが、洋の東西
、千年の時を超えて一致したのである。
興味のある方は、是非、歌詞をお調べに
なって欲しいものである。

俳句の世界でもよく詠われている。
なんと言っても蕪村翁の句だ。

《愁ひつつ 岡にのぼれば 花いばら》蕪村
《花いばら 故郷の路に 似たるかな》蕪村

まるで、郊外の寮に住む女学生が、昨日
詠んだ句と言っても不自然では無い。
蕪村翁の感受性の普遍なるを感じる。
音楽も詩歌も、時空を越えるから凄い。

〈雨の日の 時空に咲くや 花いばら〉
放浪子 季語・花いばら(初夏)

4月24日 終日の雨
今朝の読売新聞一面は溜飲が下がった。

診療情報のデータベース構築やTTPへの
タイ参加意向、そして加G7外相会議の対
北鮮方針合意など、政府はどれを取って
も安全保障上の重要課題を一歩進めた。
対中シフトの一環だ。
IYI佐川の事などどうでもいい。

なのに野党は相変わらずパフォーマンス
に終始して税金を浪費している。
「me too」なんぞ、どこかの国々のような猿真似発想以外の何物でもない。
なぜ政治の大道を歩けないのか?

それしか出来ないのも仕方がない。
野党幹部には、外国人とIYIしか居ない。