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晩春にもかかわらず、今朝の雲は初秋の
雲かと見紛うばかりに、巻積雲(うろこ雲)が東から西へ流れていた。
また風の吹きようも、雲に呼応するよう
に「目にはさやかに見えねども…」であ
って、こないだまで続いた初夏の陽気が
、余計に季節感を混乱させていた。
五年前の秋、盛岡駅から岩手銀河鉄道に
乗って渋民村を訪れた時を思い出した。
啄木記念館を訪ねる為である。
今日は「啄木忌」。
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盛岡中学校時代の写真らしい。
天才の片鱗が見え隠れする。
線路を挟んで往路復路分かれたプラット
ホームに降り立ち、跨線橋を上り線側の
駅舎に進むと、至る所に啄木の歌が短冊
にして掲げてあった。
山と村と村人のことを詠った作が多い。
当然と言えば当然である。
この寒村の唯一の観光資源なのだから。
嘗て彼の歌には真善美が無いと書いた。
よく読んで欲しい。
万事不如意な人生に対する心底からの怒
りと思える歌にも巧みさが見える。
人情も人様の借り物が散見されるのだ。
要は、放縦が故に社会に受け容れられな
い自らのルサンチマンを、持ち前の語感
を操り、弱者の代弁者と位置付けた虚妄
の世界を現出させているのだ。
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そこに彼の覚めた天性の眼があった。
であれば、彼の歌は悲しき玩具では無い。
女性に対しては、実体験の吐露だろう。
でなければ、あんな慚愧は生じまい。
彼は女性に興味を持ち過ぎた。
フィガロの結婚のケルビーニのように。
だから、彼にとって「ありがたき故郷の山」は、「神姫山」だったのでは?
渋民駅を出た途端にるすぐ正面に美しく
佇むその山を見た時、私は瞬間思った。
或いは、両親と終生馴染めなかった彼は
岩手山を理想の父とし、神姫山を理想の
母として生きたのかも知れない。
《ふるさとの山に向ひて 言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな》
この歌は切ない真実の声だったのだろう。
〈春尽きて 啄木哀し 北の空〉放浪子
季語・春尽く(春)
4月13日〔金〕晴れ
虚実はどうでもあれ、今日まで彼の生み
出したバーチャルな文字の世界が、人様
の現実の生業を支えていることで、彼の
破天荒な生き様は、罪一等を減じられて
いる。
テレビ業界と同列に扱う事は出来ない。
このことは、いずれの回にか詳しく書い
てみたい。