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塩哲の色即是空

私の日常の活動状況を飾り気なく、素のままで表現する。

「街を巡る」中野界隈_其の一「犬屋敷跡」

2008-12-11 06:47:43 | 街を巡る
 紅葉真っ盛りの都内、少し早起きをして神宮外苑の銀杏の黄葉を
確認するため、勤労感謝の日の振替休日の11月24日に伺ってみた。
既に紅葉は始まっていたものの半分ほどは緑色の葉が目立ち、あと
1週間から十日程の時の経過がほしいところだ。
 外苑を後に、中野の街を巡ろうと移動した。
 最初に訪れたのは、中野区役所のエントランスにある「中野の犬
屋敷跡」。犬屋敷は、5代将軍綱吉が設置した幕府の野犬保護施設
で「お囲い御用屋敷」とも呼ばれていた。よって中野4丁目辺りの
旧町名は“囲町”である。
 「生類憐れみの令」によって作られた犬屋敷は、元禄8年(1695)
頃開始され、綱吉が死去する宝永6年(1709)に廃止するまで15
年間存続した。敷地は現在の区役所を中心に約30万坪におよび、最
盛期には8万数千頭の犬が飼育されていた。飼料費だけでも年間9万
8千両(1両20万円と換算すると)という莫大な費用がかかってい
る。犬屋敷のもろもろの維持費は、幕府の国庫からではなく、商家や
天領の農民たちから摂取されたそうだ。
(中野区中野4丁目8番地辺り)
外苑銀杏_11_24 サンプラザの鈴時計

「街を巡る」赤羽~志茂「西蓮寺」

2008-12-10 06:39:42 | 街を巡る
 先ほどの熊野神社や福聚観音堂に関連した「西蓮寺」に伺った。
通りの角に庚申堂があり、このお堂の右の通りを進んでいくとお
寺はあった。山門の手前左右には、赤い前掛けをした六地蔵が3
タイプ安置されていた。その内の1グループは6体揃ってはいな
かった。
 この寺は、弘安年間(1278~88)に法印淳慶が開創、本尊は
鎌倉時代初期の木造阿弥陀如来で座像であるとのこと。また、江
戸末期には寺子屋も開かれている。境内には鐘楼堂があり、墓参
りをすれば鐘が突けるそうだ。
(北区志茂4丁目30番地4号)
六地蔵_1 六地蔵_2

「街を巡る」赤羽~志茂「福聚観音」

2008-12-09 06:41:29 | 街を巡る
 熊野神社から西蓮寺に向かう道すがら、モダーンな建物が目に飛
び込んできた。よく見ると「福聚観音堂」であった。今まで何百年
も経った神社仏閣の建造物を眺めてきたが、こんな建物は初めて。
 コンクリートの打ちっ放しの外観に、正面には大きなガラスがは
められ、屋根も一風変わっている。唯一、木製の格子枠が寂びの雰
囲気を感じさせる。お堂の中もよけいなものを省き、いたってシン
プル。黄金色の観音さまが奥の中央に鎮座しておられた。
 お堂の正面にはおみくじの自動販売機があり、歯車が廻り出てく
るようになっていたり、お賽銭も穴からガラスの中へ入れるように
なっていた。このお堂の建物と仏具の全てを上田徹氏(玄綜合設計)
がデザインされていると伺った。
 今後、神社仏閣の建物の行く末は、このような意匠デザインにな
っていくのだろうか。
(北区志茂4丁目30番地13号)
おみくじ販売機

「街を巡る」赤羽~志茂「熊野神社」

2008-12-08 06:43:34 | 街を巡る
 荒川の土手から再び志茂に入り東に進む。鎮守の杜が見えてき
た。ここが「熊野神社」。この社は、すぐ近くにある西蓮寺住職
の淳慶が、正和元年(1312)紀州の熊野三社権現の分霊を招き
迎え、この地に創建したと伝承されている。
 境内を観ると、こちらも七五三の参拝の準備で粛々と進められ
ていた。聞くと欄干の擬宝珠に文政5年(1822)の年紀が見ら
れる「阿夫利社」、嘉永2年(1849)建立の「富士講」の供養
塔などがあるという。富士信仰にも関係した社である。
 また、毎年2月7日には「白酒祭」が行われている。この催事
は正月7日の年占いの神事である「歩射」(おびしゃ)の後に、
饗宴として催されていたことに由来している。
 このオビシャとはどんなものか伺うと、次のようなことを教え
ていただいた。
 この祭は、丸く描いた円の中に鬼の文字を書き、これを的にし
て射手が弓矢で射抜くという。オビシャに使用した矢は魔除けに
なり、くじ引きで当たったものが持ち帰れたそうだ。この神事が
終わると参拝者に白酒と切り餅が振る舞われる。
 昔はこの白酒は、地元民が持ち回りで荒川の水を仕込みとして
使用したそうだ。
 この社は参道が長く、絵になった。
(北区志茂4丁目19番地1号)
熊野神社本殿

「街を巡る」赤羽~志茂「旧岩淵水門」

2008-12-07 05:48:38 | 街を巡る
 八雲神社を後に荒川の土手に出てみた。ジョガーやサイクラー、
それにノンビリと散歩する方の姿が目立つ。土手に来ると開放感
が身体全体で感じられる。
 昔は荒川の本流は隅田川。当時の隅田川は川幅が狭く、堤防も
低いため、大雨が降ると大氾濫をたびたび起こし被害も甚大だっ
た。そこで明治後期から昭和の初期にかけ、新規に東京湾に注ぐ
約22kmの人口河川(放水路)を築き、氾濫を抑えた。これが現
在の荒川である。
 さて、「旧岩淵水門」(通称:赤水門)は、この人口河川が隅
田川と分かれる地点に1916~24年間にかけて造られている。水
門は9m幅のゲートが5門ある。
 この水門の老朽化が目立ち、さらに大きな洪水にも対応できる
るようにと、1975~82年にかけて下流に新水門(通称:青水
門が設置され、赤水門の役目が終了。
 モダニズムを感じる赤水門の上は通路になっており、そこから
先の中之島へ渡れる。ここはベンチも設置され休息も出来る。
「草刈りの場」という石碑や「月を射る」という現代アート作品
が設置してあった。そして、大きな椎の木があり、ベンチの上に
椎の実が転がっていた。
(北区志茂5丁目辺り)
新岩淵水門 草刈りの碑 月を射るオブジェ 椎の実

「街を巡る」赤羽~志茂「八雲神社」

2008-12-06 03:28:47 | 街を巡る
 小山酒造から東側に数分進んだところに「八雲神社」があっ
た。訪れた日が11月9日で七五三の参拝があるのだろう、境
内は隅々まで清掃が行き届き落ち葉一つ落ちていなく、こちら
もすがすがしい気持ちになってしまった。特に、本殿、幣殿、
拝殿、神楽殿が続いて立っており、その構造も立派。
 この社は、将軍が日光社参する際に利用した岩淵宿の鎮守社
だった。須佐之男尊が祭神で、神仏分離以前は先にあった正光
寺が別当寺だったという。
 社務所におられた方に伺うと、幕末時、勝海舟が荒川で足止
めされた時に大幟旗に大書された現物が、今も残っているとい
う。境内に末社である水神社があったのも頷けた。
(北区岩渕町22番地21号)
石標

「街を巡る」赤羽~志茂「小山酒造」

2008-12-05 06:39:44 | 街を巡る
 岩淵宿問屋場阯之碑のあるマンションの裏手に「小山酒造」
がある。ほんの10年ほど前には純和風の旧家店舗があったが、
現在はマンションに代わっている。しかし、小山酒造は健在で、
小売りをする店舗が街道沿いに、酒造工場が裏手にあった。
 現在、都の区内の酒造業者は、唯一ここだけである。明治11
年(1878)、初代の小山新七さんが開業。元は埼玉県大宮市
にあった造り酒屋が、この地に良質の湧き水が出るというので
移転して酒蔵が決められたという。越後杜氏の手法で清酒
「丸真正宗」が醸造されている。
 平日なら工場見学が出来るが、この日は日曜日で叶わなかっ
た。またの機会に伺おう。そしてお酒も味わいたい。
(北区岩渕町26番地10号)

「街を巡る」赤羽~志茂「日光社参」

2008-12-04 06:50:48 | 街を巡る
 街巡りから外れるが、日光東照宮に歴代将軍が社参した中で、
家光が抜きん出て多いのは、父2代目秀忠より家康を慕っていた
といわれ、尊崇に近い思い入れがあったようだ。
 家康は天下を取ると、全国のほとんどの金銀鉱山を配下に納め、
それから江戸初期のゴールドラッシュが始まる。全ての金が幕府
に集まり、徳川家は当時、世界一の金持ちとなる。
 3代目家光は、その財産を桁外れに浪費した。日光東照宮の造
営に57万両、日光社参の1回の費用が10万両かかっている。さ
らに、家光は父の2代目秀忠と2度、単独で1回、上洛しており、
単独行の時は数万人の大軍を従えて行っている。その時、当時の
天皇や公卿にも献金しており、京の町民にも祝儀をばらまき23
万両を使い、上洛の経費と合わせて50万両に上ったといわれて
いる。
 家光一代で総計500万両が浪費されたといわれ、幕府の財源
が逼迫していく元をつくった。それでも家光が病気で亡くなった
慶安4年(1651)、幕庫にはまだ600万両残っていた。
 当時の貨幣の価値を現在の価値に換算する場合は、米価や金価
格をスケールにして表されるが、当時の1両は約20万円とされ
る。ちなみに1分金は5万円、1両は4千文、1文は50円とい
うところだ。

「街を巡る」赤羽~志茂「岩淵宿問屋場阯之碑」

2008-12-03 06:39:13 | 街を巡る
 疑問符がいっぱいついた廃正光寺を後に、岩槻街道を新荒川大
橋方面に向けて進む。道路脇のマンションのエントランスに「岩
槻街道岩淵宿問屋場阯之碑」の石標があった。
 鎌倉時代から岩淵の地には宿場が設けられており、江戸時代に
なると街道の問屋場も出来て、物資輸送の人馬で大いに賑わった
ことだろう。
 徳川家康を祀る日光東照宮に社参する歴代の将軍は、日光街道
を通らず必ずこちらの岩槻街道を利用した。そのため、日光御成
道とも呼ばれている。これは日光社参時には宿所を岩付城と決め
られていたためである。岩槻街道は徳川家の専用道路的な見方か
ら御成道となった。日光街道は大名の参勤交代や旅人が利用した。
 将軍の社参行列は莫大な費用をかけて行われていたという。2
代秀忠から数え第12代家慶まで17回行われ、その内、3代家光
が10回と最も多く社参している。歴代将軍の中でも家光は、家康
を最も慕っていたと言われる中、社参などで幕府の財産を食いつ
ぶしていくのである。
(北区岩渕町24番地14号)

「街を巡る」赤羽~志茂「廃正光寺」

2008-12-02 06:40:12 | 街を巡る
 北本通りの交差点を渡り岩淵に入る。この辺りは以前「江戸百」
の取材時(新荒川大橋)に歩いている。
 大満寺の門前に「幸福地蔵」があった。そのそばに何かいわれが
書かれた案内板があるが、文字が小さくて読めなかった。さらに先
に進むと「天王山 正光寺」があった。ところがこの寺は廃寺にな
っているのか、境内は荒れた広場になり、一番奥は駐車場がある。
それに境内中央には、観世音菩薩が忽然と立錐しているし、そこか
しこと境内は荒れ放題。左奥に社務所があるのだが・・・。
 朝の散歩だろうか地元の方がおられたので、この寺のことを伺う
と、1978年にお寺に住み着いてしまったホームレスの失火により
本堂を焼失。それ以来、再建されていないという。岩淵の中では一
番ふるいお寺だったそうで、当時は境内で植木市も開かれて相当な
賑わいだったという。先ほどの観世音菩薩は明治3年の建立で、当
時の住職が貴重な鏡を集め、それを溶かして造られたという。
 ここで目についたのが、石仏像の板が全面に張り巡らされた丸み
を持った塔があった。もちろんこの塔も火災により崩壊していたよ
うだ。仏舎利を納めたストゥーパ(仏塔)なのだろうか。
 全てが気になる廃寺・正光寺だった。
(北区岩淵町32番地11号)
幸福地蔵 観音菩薩像