疑問符がいっぱいついた廃正光寺を後に、岩槻街道を新荒川大
橋方面に向けて進む。道路脇のマンションのエントランスに「岩
槻街道岩淵宿問屋場阯之碑」の石標があった。
鎌倉時代から岩淵の地には宿場が設けられており、江戸時代に
なると街道の問屋場も出来て、物資輸送の人馬で大いに賑わった
ことだろう。
徳川家康を祀る日光東照宮に社参する歴代の将軍は、日光街道
を通らず必ずこちらの岩槻街道を利用した。そのため、日光御成
道とも呼ばれている。これは日光社参時には宿所を岩付城と決め
られていたためである。岩槻街道は徳川家の専用道路的な見方か
ら御成道となった。日光街道は大名の参勤交代や旅人が利用した。
将軍の社参行列は莫大な費用をかけて行われていたという。2
代秀忠から数え第12代家慶まで17回行われ、その内、3代家光
が10回と最も多く社参している。歴代将軍の中でも家光は、家康
を最も慕っていたと言われる中、社参などで幕府の財産を食いつ
ぶしていくのである。
(北区岩渕町24番地14号)
橋方面に向けて進む。道路脇のマンションのエントランスに「岩
槻街道岩淵宿問屋場阯之碑」の石標があった。
鎌倉時代から岩淵の地には宿場が設けられており、江戸時代に
なると街道の問屋場も出来て、物資輸送の人馬で大いに賑わった
ことだろう。
徳川家康を祀る日光東照宮に社参する歴代の将軍は、日光街道
を通らず必ずこちらの岩槻街道を利用した。そのため、日光御成
道とも呼ばれている。これは日光社参時には宿所を岩付城と決め
られていたためである。岩槻街道は徳川家の専用道路的な見方か
ら御成道となった。日光街道は大名の参勤交代や旅人が利用した。
将軍の社参行列は莫大な費用をかけて行われていたという。2
代秀忠から数え第12代家慶まで17回行われ、その内、3代家光
が10回と最も多く社参している。歴代将軍の中でも家光は、家康
を最も慕っていたと言われる中、社参などで幕府の財産を食いつ
ぶしていくのである。
(北区岩渕町24番地14号)