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塩哲の色即是空

私の日常の活動状況を飾り気なく、素のままで表現する。

「街を巡る」中野界隈「林芙美子の墓」

2008-12-21 04:45:00 | 街を巡る
 大正から昭和初期の小説家「林芙美子」(1903~51)の墓もあ
った。自らの貧困に苦しんだ生い立ちや、流浪の体験を写実的に表
現した人物描写の作品が多い。
 19歳から23歳まで放浪した記録を執筆した「放浪記」(1930)
は、林の代表作で、その後、続編が出版されている。
 出生地は北九州門司区小森江で、本籍は母親の故郷、鹿児島県の
古里温泉。晩年は新宿区落合の自宅で1951年6月28日病死。現
在、自宅のあった所は「新宿区立 林芙美子記念館」として一般公
開されている。
「花の命は短くて 苦しきことのみ 多かりき」の名句を残している。
(中野区上高田4丁目14番地1号)
功運寺表札_2

「街を巡る」中野界隈「今川長得の墓」

2008-12-20 04:01:28 | 街を巡る
 この著名な方々の墓がある万昌院は、今川義元の三男である一
月長得(いちげつちょうとく)が天正2年(1574)に半蔵門近
くに沸照円鑑禅師を迎え創立した曹洞宗の寺。たびたび移転を繰
り返し、大正3年(1914)この地に移ってきた。
 また、功運寺は慶長3年(1598)、家康の家臣、永井尚政が
黙室芳禅師を招いて桜田門近くに開山している。幾度かの移転を
繰り返し、大正11年(1922)この地に移転している。そして、
両寺が合併したのが1948年。
 この寺は今川家の菩提寺が観泉寺(杉並)に移るまで墓所だっ
た。一月長得は、義元の嫡子・氏真の弟で母は武田信虎の娘・
定恵院(信玄の姉)。ただし、今川家の系図を調べても一月長得
の名は記されていない。再度、調べてみよう。
(中野区上高田4丁目14番地1号)


「街を巡る」中野界隈「長沼活然斉の墓」

2008-12-19 06:43:54 | 街を巡る
 功運寺で心おどる人物の墓を見つけた。江戸時代前期にあみ出さ
れた剣術のひとつ「直心影流」(じきしんかげりゅう)剣術の奥義
を極めた長沼国郷・綱郷(活然斉)親子の墓である。
 直心影流は、正式には「鹿島神傳直心影流」といい、竹刀と防具
を使用した竹刀打ち込み稽古を取り入れた流派だ。杉本備前守が初
代とされているが、7代目の岩槻藩家臣、山田光徳(一風斉)が実
質的な開祖。
 光徳は試合で怪我を負い稽古を止めていたが、直心正統流の高橋
重治の道場で防具を身につけ稽古をしている光景を目の当たりにし、
即入門する。同流の皆伝を授かった光徳は、天和3年(1683)流
名を「直心影流」と改めている。
 そして、8代目の長沼国郷の頃に竹刀と防具が改良され、国郷の
養子、綱郷が9代目を継ぎ、沼田藩に仕官し同流を指南する。この
流派は最も盛んとなり、その後、藤川派、団野派、男谷派と分派し
ていく。正統の長沼派は上段の構え、男谷派は正眼の構えを用いて
いる。
(中野区上高田4丁目14番地1号)

「街を巡る」中野界隈「歌川豊国の墓」

2008-12-18 06:49:46 | 街を巡る
 功運寺の墓所には、江戸時代の浮世絵師、歌川豊国(1769~
1825)の墓もあった。
 初代豊国は、江戸芝神明前の人形師の家に生まれる。歌川派
創始者である豊春の元で学び、美人画や歌舞伎役者の絵、挿絵
で人気を博する。国貞、国政、国安、豊重など数多くの弟子を
育て、江戸末期まで歌川派の興隆をもたらしている。
 面白いのは歌川広重(安藤)で、豊国の門をたたくが断られ、
豊春門下の豊広に師事している。
 豊国の名は初代から数えて6代目(1903~2000)まで襲名
されている。
(中野区上高田4丁目14番地1号)

「街を巡る」中野界隈「水野重郎左衛門の墓」

2008-12-17 06:41:28 | 街を巡る
 功運寺には、まだまだ有名人の墓がある。その一つがこちら。
 江戸時代前期の旗本、水野重郎左衛門(本名:成之、1630
~1664)は、備後福山藩主・勝成を祖父に、成貞の長男とし
て生まれる。母親は徳島藩主・蜂須賀至鎮の娘の正徳院。
 旗本代々の家柄であるため、幕臣として重役に就けるところ
を、慶安3年(1650)に自ら3,000石の小普請組を要望する。
 江戸の市中では旗本奴の大小神祇組を作り、家臣を四天王に
見立てたり、奇抜な衣装で練り歩き暴行の限りを尽くしたとい
う。同じ旗本の中から暴れ者と昵懇となり、その奇行は暴虐の
限りだった。
 そんな凶状から市中の町奴と大げんかとなり、明暦3年
(1657)幡隋院長兵衛を殺害。しかし、幕府からはお咎めな
しで終わる。ところが、重郎左衛門は態度を改めず、評定所に
召還された際に容姿が着流しのままの伊達姿で月代も剃らずに
出頭したため、不敬罪となり切腹、家名断絶となった。
 俳優の故天知茂は子孫といわれている。
(中野区上高田4丁目14番地1号)

「街を巡る」中野界隈「栗崎道有の墓」

2008-12-16 06:37:33 | 街を巡る
 吉良義央にまつわる当時の人物が、こちらの墓に眠っておられた。
蘭学医の「栗崎道有」(くりさきどうう、1661or64~1726)であ
る。祖父は道喜、父は正家。
 長崎で生まれた道有は、南蛮流の外科医術を学んだ祖父・道喜か
ら外科医を受け継ぐ。その後、オランダ流の外科技術を習得し、元
禄4年(1691)に江戸に出て幕府官医となる。
 道有は、元禄14年(1701)、浅野内匠頭長矩が江戸城・松の廊
下で吉良義央を斬りつけた際、義央の額の傷の治療を行っている。
さらに、その2年後、吉良邸で赤穂浪士の間十次郎に槍で突かれ、
武林唯七に斬られた義央は首をはねられる。その首は浪士により泉
岳寺の長矩の墓前に捧げられ、寺に預けられた。
 その後、義央の首は寺から吉良家へ送り返され、道有が首と胴体
を縫合し葬儀されたといわれている。
(中野区上高田4丁目14番地1号)

「街を巡る」中野界隈「吉良上野介の墓」

2008-12-15 06:31:01 | 街を巡る
 お寺さんが隣接しているこの辺り、「万昌院 功運寺」には歴史
上の有名人の墓がたくさんあった。それにありがたいことに、目的
の墓には墓標があり、そこに到達するのも一目瞭然であった。その
一つが「吉良家」の墓だ。
 幕府高家であった吉良家は、義定、義弥、義冬、義央の4代に渡
りこの寺を菩提寺としてきた。吉良上野介義央(よしひさ)の石碑
面には「元禄十五壬午十二月十五日」と刻まれている。これこそ、
赤穂浪士の討ち入りの際、死去した史実を裏付ける一文である。
 忠臣蔵の悪役として有名な“松の廊下の事件”は、あまりにも知
れ渡り語ることもないが、事件以前も本丸での饗応役へのいじめは
多々あったと言われるが、義央の当時の評価は以外と高い。
 義央は、寛文2年(1662)初めて幕府の使者として京へ登り、
後西天皇(第111代、在位1655~63)の謁見を賜っている。そ
の後、年賀使として15回、幕府使者として9回の上洛を行い、高
家としての手腕が優秀であったことが分かる。天和3年(1683)
には高家の頂点である“肝煎”に就任している。
 墓前には、吉良家忠臣供養塔と吉良邸討死忠臣墓誌が建立されて
いた。
(中野区上高田4丁目14番地1号)
吉良邸討死忠臣墓誌 功運寺表札

「街を巡る」中野界隈「長坂圓陵の石碑」

2008-12-14 04:31:10 | 街を巡る
 宝泉寺の山門をくぐり墓所へ向かう。こちらに「板倉内膳正重
昌」の墓がある。重昌は、京都所司代・板倉勝重の第3子で、若
くして家康の近習となり、方広寺事件では使者として家康批判を
したと迫り(「国家安康」「君臣豊楽」の石碑名の件)豊臣家へ
押し掛け、これが元で豊臣家の滅亡に繋がっていく。
 重昌は寛永14年(1637)島原の乱が起こると、幕府の命に
より鎮定に務める。しかし、強固な抵抗に遭い果たせず、翌年
原城総攻撃後に責任を痛感し、自ら戦死した。
 その重昌の墓が分からなかった。墓所を隅々見ていたら、銅色
に光る石碑が目についた。「長坂圓陵」の石碑だった。この詳細
は後日調べることにしよう。
(中野区上高田4丁目13番地)


「街を巡る」中野界隈「河竹黙阿弥の墓」

2008-12-13 03:51:44 | 街を巡る
 続いて源通寺の山門をくぐる。こちらの墓所に江戸の末から明治
中頃に活躍した劇作家「河竹黙阿弥」(1816~1893)の墓がある。
 黙阿弥は、盗賊を主人公にした“白波物”を得意とし、リズミカ
ルな七五調に掛嗣や縁語を使い“黙阿弥調”と賞され、歌舞伎の中
に市井の世相を写実的に描いている。
 ところが、江戸末期の幕府は写実的な描写を禁じ、勧善懲悪を奨
励したため、黙阿弥の作風の転換を余儀なくされた。晩年はこれま
での全集本とした「狂言百種」を発行し、歌舞伎の普及に務めてい
る。有名な作品には「都鳥廓白波」「三人吉三廓初買」などがある。
(中野区上高田1丁目2番地7号)
源通寺石標

「街を巡る」中野界隈「新井白石の墓」

2008-12-12 06:12:28 | 街を巡る
 中野の商店街を通り早稲田通りに出て新宿方面に進む。上高田
の標識が現れてくると、この辺りは通りに面してお寺さんが続く。
 そのひとつ、高徳寺の山門を入る。ここに「新井白石」(1657
~1725)の墓がある。江戸中期の朱子学者であり幕臣・政治家
でもある。木下順庵に朱子学を学び、その推挙により甲府藩主・
徳川綱豊(後の6代将軍、家宣)の儒臣となり、宝永6年(1709)
家宣が将軍になると、その幕臣として補佐する。
 武家御法度の改訂や貨幣の改鋳、海舶互市新令の施行や儀式典
礼の整備などを行っている。白石が書いた随筆「折りたく柴の記」
(1716頃)は有名。
(中野区上高田1丁目2番地9号)
新井家の墓所