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塩哲の色即是空

私の日常の活動状況を飾り気なく、素のままで表現する。

「街を巡る」赤羽~志茂「道標」

2008-12-01 06:33:49 | 街を巡る
 続いて、赤羽駅の東口を北に向かい進む。
 寛正2年(1461)に開山された宝幢院(ほうどういん)がある。
この寺はかつては浮間村西野(現在の浮間4丁目辺り)にあったが、
荒川の氾濫による洪水を避けるため、この地に移転してきたと伝わ
っている
 宝幢院の山門前にある道標があった。これは元文5年(1740)
に了運僧侶が造立。宝幢院の門前の道は、板橋道が日光・岩槻道と
合流する重要なポイントだった。標石には
「東 川口善光寺道 日光岩付道」
「西 西国富士道 板橋道」
「南 江戸道」と刻まれていた。
 歴代の江戸幕府将軍が日光に参拝するため、ここを通り日光御成
道へと繋がっていく。また、中山道や八王子へ向かうのが板橋道で、
その先は富士道へ通じている。
(北区赤羽3丁目4番地2合)
宝憧院

「街を巡る」赤羽~志茂「稲付城跡」

2008-11-30 06:56:42 | 街を巡る
 「街を巡る」は、11月9日、北区の赤羽から志茂辺りを訊ねて
みた。JR埼京線の赤羽駅で下車、ここは乗換駅でもあるため何本
も線路やホームが有り、乗降客も多い。
 駅から南西方面に数分の所に、樹木で被われた小高い丘陵地が見
える。ここが「稲付城跡」で、現在は静勝寺の境内一帯にあたり、
戦国時代に太田道灌が築城した城跡だ。
 1987年に行われた発掘調査によって、永禄年間(1558~69)
末頃から天正10年(1582)頃に普請されたことが確認されてい
る。この辺りは鎌倉時代から岩淵の宿が、また室町時代には関所が
設けられて、街道上の主要地だった。稲付城は三方を丘陵で囲まれ、
江戸城と岩槻城を中継する山城として築かれている。
 明暦元年(1655)に道灌の子孫が静勝寺の堂舎を建立しており、
その後も境内に道灌の座像が安置されている。道灌堂は毎月26日
に開扉されている。
(北区赤羽西1丁目21番地17号)
道灌坐像庵

「街を巡る」横浜中華街「善隣門」

2008-11-29 04:24:56 | 街を巡る
 中華街大通りが長安道にかかるところに中華街のシンボルの牌楼
が見えてくる。「善隣門」である。最初は1955年に設置され、名
前も「牌楼門」と呼ばれていた。その年までこの街は「南京町」と
言われており、この門の中央看板に“中華街”と大書されるや、
「中華街」と名付けられた。
 現在の門になったのは1989年で、内門の看板には「親仁善隣」
と書かれ、隣国や隣家と仲良くするという意味合いで、名称も
「善隣門」と改められたという。
 続いて加賀町警察署の横を通り、大桟橋通り前に「玄武門」が
ある。北を現しており、守護神は玄武神、色は黒。子孫の繁栄を
もたらす神だ。門の外側には横浜公園スタジアムの建物が見える。
 JR根岸線と高速の高架が架かる通りまで出て、左に曲がり進む
と西を示す「延平門」がある。守護神は白虎神、色は白。平和と
平安のやすらぎが末永く続くことが願われている。
 最後にJR石川駅にほど近い「西陽門」へ向かう。街の位置から
して西側にあり太陽に一番近いということで名付けられている。
 全ての牌楼を見て回り、すこしは中華思想が学べたようだ。後
日横浜の地図で確認すると、東西南北が45度ほど時計回りに動
かないと門の方向置があっていないように感じた。
玄武門 延平門 西陽門 北京ダック

「街を巡る」横浜中華街「横浜媽祖廟」と「朱雀門」

2008-11-28 07:05:51 | 街を巡る
 中華街の南に位置するところに「朱雀門」(すざくもん)がある。
厄災を払い福を招く。守護神は朱雀神、色は赤。この門を出ると、
その南側は元町だ。
 再び天長門に戻り闢帝廟通りを西に進むと市場通り交差する所に
「市場通り門」の1基がある。そしてもう1基の「市場通り門」は、
市場通りと中華街大通りの交差するところに設置されている。名前
のとおりこの市場通りは賑やかだ。
 中華街の一角に「新聞発祥地」なる碑があった。元治元年(1864)
ジュセフ彦という方が日本最初の新聞「海外新聞」を創刊・発行した
居館跡だそうだ。彦さんは、米国・リンカーン大統領と握手をした唯
一の日本人だったという。
 10基の牌楼を全て確認した後、目指す麺処の開店時間に1時間ほ
どあったので、本町通りを渡ったところの茶店でしばし休憩。そろ
そろ麺処の開店時間で、再び市場通りを歩くと、ファミリーで中華を
楽しむのであろう家族の姿や観光バスで乗り込んできた団体の一団な
どで溢れていた。
市場通り門_1 市場通り門_2 横浜媽廟 新聞発祥地

「街を巡る」横浜中華街「朝陽門」と「天長門」「地久門」

2008-11-27 06:58:05 | 街を巡る
 11月8日、小雨の降る中、横浜の中華街に伺った。目的は旨い
麺処を探すためであったが、開店まで2時間ほどあったので、中華
街の牌楼(パイロウ)を確かめてみた。
 牌楼とは、中国では古来より皇帝が王城を築く時、天文師に天の
意をうかがわせ、場内に入ってくる邪を見張ると共に、それを見破
るために東西南北に限り通路を開き、それぞれに設置した門衛をい
う。
 そして、春夏秋冬や朝昼暮夜という陰陽五行に基づく色である
“青赤白黒”で門を飾り、また各方位の守護神として信仰のある四
神をそなえたという。その四神とは、東:青龍神、南:朱雀神、西
:白虎神、北:玄武神。
 まずは、みなとみらい線の元町・中華街駅から近い「朝陽門」
(ちょうようもん)から伺った。
 名前のとおり、日の出を迎える門で、朝日が中華街全体を覆い繁
栄をもたらすといわれる。守護神は青龍神で、色は青。高さ13.5m
幅12mで中華街で最大の門。03年2月1日落成。
 続いて「天長門」(てんちょうもん)は、南門シルクロードの通り
と闢帝廟通りの交わるところの東側にある。商売の神様「横浜中華
街闢帝廟」を守る西側には「地久門」がある。
天長門 地久門 闢帝廟

「街を巡る」深川~富岡「横綱力士碑」

2008-11-26 06:54:44 | 街を巡る
 八幡橋を渡り一角分を東側に進む。広い通りに面したところに
碑があった。「三十三間堂跡」だ。
 京都・蓮華院を模倣して寛永19年(1642)、浅草にお堂は建
立された。そして、元禄14年(1701)深川のこの地に移され
ている。当時は、この堂で諸士の弓術稽古の通し矢が行われてい
た。本尊は千手観音で、明治5年に破棄解体されている。
 再び富岡八幡宮の境内の戻る。その東側の角に重量感のある
「横綱力士碑」が鎮座していた。
 この碑は、江戸時代最後の横綱第12代・陣幕久五郎が中心と
なって明治33年に建立されている。徳川幕府が初めて江戸で勧
進相撲を認めたのは、貞享元年(1684)の富岡八幡宮境内だっ
た。巨石の背後に廻ると、初代・明石志賀之助から歴代横綱の名
が刻まれていた。
 本殿の境内に向かうと楽市楽座が主催する骨董市が開かれてお
り、少しの時間各店をひやかして見てまわった。
(江東区富岡1丁目20番地3号)
三十三間堂跡 骨董市

「街を巡る」深川~富岡「八幡橋」

2008-11-25 06:46:42 | 街を巡る
 門仲はいつ伺っても活気がある街だ。富岡八幡宮を眺めると、
当日は七五三のお参りをする家族で賑わい、また境内は恒例の
骨董市が開かれている。
 八幡宮をスルーして宮の東側にある有名な橋に向かった。そ
こは、趣のある鉄橋の「八幡橋」(旧弾正橋)である。明治11
年(1878)東京府の依頼で工部省赤羽製作所が制作した国産
第1号の鉄橋。
 元々は、中央区にあった京橋楓川に架けられていた弾正橋を、
1913年市区改正事業により新弾正橋が建造されたのに伴い、
元弾正橋と改称。
 廃橋となった元弾正橋は、1929年に現在の地に移され保存
されている。名前は富岡八幡宮の隣にあるので八幡橋とつけら
れた。1977年に近代橋梁技術史上価値の高いということで、
国の重要文化財に指定。
 長さ15.2m、幅員2mの単径間アーチ形式の独特な構造は、
現在も現役で渡ることが出来る都内最古の鉄橋。
(江東区富岡1丁目19番地と2丁目7番地に架かる)
八幡橋_2

「街を巡る」深川~富岡「赤穂浪士休息の地」

2008-11-24 05:44:37 | 街を巡る
 小津の生誕地から西に進み、やっと探し当てたのが「赤穂浪士休
息の地」である。
 元禄15年(1702)12月15日の早朝、忠臣蔵でおなじみの赤穂
浪士の一隊が、本所松坂町の吉良邸へ討ち入りを行い、一ッ目通り
を颯爽と引き揚げていった。途中、乳熊屋味噌店(ちくまやみそて
ん)で休憩した一隊は、ここで甘酒などが振る舞われたという。
 その後、永代橋を渡り高輪の泉岳寺へ向かっている。その当時の
休憩場所に碑が設置されていた。現在も当時の店の名前がビル名と
して残っているのが当時を偲ばれる。
 続いて向かった先は、日本地図を作った男の住んでいたところ。
その男は、伊能忠敬(1745~1818)で、約10回の機械による
測量を行い、正確な日本地図を日本で初めて作成した。
 伊能は上総国山辺郡(千葉県山武郡)に生まれ、浅草竹町にあっ
た天文方暦局の高橋至時に天文学を学んでいる。お墓は源空寺
(台東区東上野)にある。
赤穂浪士休息の地(江東区佐賀1丁目6番地2号)
伊能忠敬居住跡(江東区門前仲町1丁目18番地)

伊能忠敬_居住跡

「街を巡る」深川~富岡「採茶庵跡」

2008-11-23 06:22:22 | 街を巡る
 仙台堀川に架かる海辺橋の西側を渡ると橋詰めに「採茶庵」跡
(さいとあん)があった。この庵は、松尾芭蕉の門人の一人、鯉屋
杉山杉風の別庵で、芭蕉はこの庵から「奥の細道」に旅立ったとい
われている。当時の庵は間口27m、奥行き36mあったそうだ。
 模倣した採茶庵の前には、今にも旅だそうとしている芭蕉のブロ
ンズ像が設置されていた。
 ここから少し南に進んだところに「小津安二郎誕生の地」の案内
板があった。小津(1903~63)の生家は「湯浅屋」という屋号の
肥料問屋。松竹鎌田撮影所に撮影助手として入社し、1972年に監
督に昇進。小津の作品は、ローアングルからの撮影スタイル、下町
情緒や人情味が描かれた家族のふれあいを大切にした作風が印象的。
採茶庵跡(江東区深川1丁目9番地辺り)
小津安二郎生誕地(江東区深川1丁目8番地8号)

芭蕉 小津安二郎生誕地

「街を巡る」深川~富岡「深川七福神・福禄寿」

2008-11-22 04:26:42 | 街を巡る
 続いて深川に入る。「深川えんま堂」(法乗院)で閻魔様を拝
みたかったが、開山時間でなく門は閉められていた。またの機会
に来よう。先に進み心行寺の境内に入ってみた。
 このお寺は、京橋八丁堀寺町から、寛永10年(1633)に現在
の深川寺町に移転してくる。六角堂が目に入ったので伺うと、こ
れは深川七福神のひとつ「福禄寿」が安置されているお堂だった。
 福禄寿は、道教の3つの願いである幸福・封禄・長寿の三徳を
具現化した神様。参拝して次に進んだ。
(江東区深川2丁目16番地3号)