“そうだ、京都に行こう”と、ミーハー気分で京都に行った12
月23日、仕事の合間を利用して幕末時に“壬生狼”と呼ばれてい
た新撰組の軌跡を辿ってみた。そのレポは後日行うとして、辿った
最後の地で心和らぐ光景に出会った。
そこは京都洛民から“くろ谷さん”の愛称で呼ばれている黒谷・
金戒光明寺だ。この寺は、浄土宗の大本山で、承安5年(1175)
比叡山を下りた法然上人(源空)が黒谷で草庵を結び、浄土宗最初
の寺院が始まる。そして、ここは幕末の頃重要なところでもあった。
京の治安を守るため江戸幕府が京都守護職を設置し、会津藩にそ
の職務を命じた。会津藩主・松平容保以下1,000名の藩士が洛上
し、このくろ谷さんの境内に本陣を設けた。寺域約4万坪に、大方
丈や宿坊25ヶ所が寄宿のため明け渡されたという。
寺の墓所は黒谷山の斜面を利用して頂上まであり、最も奥に会津
藩士の墓所の一角がある。山門から会津藩墓所へ向かう石標識が設
置されていた。
その道すがら、西雲院に続く石畳の参道が侘び・寂の風情があり、
思わずシャッターを押した。ここにたどり着くまでに、少し息が上
がった。
(京都市左京区黒谷町121)
くろ谷石標
月23日、仕事の合間を利用して幕末時に“壬生狼”と呼ばれてい
た新撰組の軌跡を辿ってみた。そのレポは後日行うとして、辿った
最後の地で心和らぐ光景に出会った。
そこは京都洛民から“くろ谷さん”の愛称で呼ばれている黒谷・
金戒光明寺だ。この寺は、浄土宗の大本山で、承安5年(1175)
比叡山を下りた法然上人(源空)が黒谷で草庵を結び、浄土宗最初
の寺院が始まる。そして、ここは幕末の頃重要なところでもあった。
京の治安を守るため江戸幕府が京都守護職を設置し、会津藩にそ
の職務を命じた。会津藩主・松平容保以下1,000名の藩士が洛上
し、このくろ谷さんの境内に本陣を設けた。寺域約4万坪に、大方
丈や宿坊25ヶ所が寄宿のため明け渡されたという。
寺の墓所は黒谷山の斜面を利用して頂上まであり、最も奥に会津
藩士の墓所の一角がある。山門から会津藩墓所へ向かう石標識が設
置されていた。
その道すがら、西雲院に続く石畳の参道が侘び・寂の風情があり、
思わずシャッターを押した。ここにたどり着くまでに、少し息が上
がった。
(京都市左京区黒谷町121)
くろ谷石標