雑感録

福岡なるほどフシギ発見~おまけ12~ めまぐるしき博多争奪戦(後編)

前編からの続き。

安土桃山時代、島津氏の侵攻

さて、足利義昭は織田信長の助けを借りて1568年に上洛を果たし、第十五代将軍に就任する。
やがて信長と対立するようになった義昭は、1571年、各地に信長打倒を呼びかける。
いわゆる信長包囲網というやつで、毛利はこれに参加するために九州から手を引いた。
しかし、その義昭は1573年、信長によって京を追放される。

1578年、大友宗麟はいささか調子に乗って島津氏打倒の為に日向に進軍するが、耳川の戦いで島津に大敗。
何せこの頃の島津氏は、当主で長男の義久の下に、闘将・義弘(次男)、知将・歳久(三男)、戦術家の家久(四男)の三兄弟が揃って最強だい!なんちゃって、アハハハ…
失礼。
1580年には、肥前で急速に力をつけた、暴君の呼び声も高い龍造寺隆信が大友氏の混乱に乗じて筑前に進撃。
博多の町のほぼ全土が焼失した。
ところがその龍造寺氏も、九州南部の支配を確固たるものにし、九州制覇を目指して北上していた島津軍に破れ、1584年、龍造寺隆信は戦死する。

1582年(安土桃山時代中期)、本能寺の変で信長が倒れ、統一事業を引き継いだ豊臣秀吉は、1585年、大名の私的戦争を禁止する惣無事令(そうぶじれい)を発令するが、島津義久はこれを無視し、日向側と肥後側から北進を続行。
1586年、大友宗麟は秀吉に援助を乞うが、筑前に向かっていた島津義久のいとこ・忠長は2万の兵を率いて岩屋城に攻め掛かる。
岩屋城主・高橋紹運は秀吉の援軍が来るまで島津を食い止めようと、総勢わずか763名で篭城し、島津軍に多大な損害を与えるが、およそ半月持ちこたえた後、島津軍の総攻撃で全滅。
島津軍は態勢を立て直し、博多へ進軍。
立花山城主で立花道雪の養子、岩屋城に散った高橋紹運の実子である立花山城主・立花宗茂(むねしげ。後の柳河藩初代藩主)も島津軍4万を相手に徹底抗戦し、ついには島津軍を撤退させ、岩屋城を奪還している。

大野城(おおのき)跡の少し手前、岩屋山山頂にある岩屋城の本丸跡。石碑は高橋紹運の家臣の子孫が建てたとのこと。下の写真は岩屋城跡からの大宰府~観世音寺方面の眺め。


岩屋城跡から道路を挟んで麓側にある高橋紹運の墓(胴塚)。

このころ、大友氏の本拠地・豊後では、島津家久が大友領深く侵攻していた。
ようやく長宗我部元親ら秀吉の援軍を得た大友勢は島津軍と激突するが、大敗。
大友氏大ピンチ!の事態に及んで、やっとのことで家康との争いに決着をつけた(家康を臣従させた)秀吉が、ついに自ら20万の兵を率いて九州征伐を開始する。
(このつづきは本編で)

いや~、だらだらとすみません。
博多は筑前とイコールではないし、大宰府も出てきたりするので、やっぱり細かいところはよく分かりません。
あやふやな部分も多いので、おかしな点はご指摘ください。
まあ、ひとことで言うと、
商人の町・博多はなんやら訳分からん武士の争いに何度も巻き込まれ、その度に戦火に見舞われた。
ということですね(それじゃ結局、冒頭といっしょじゃん。この長文の意味なし!)。

なお、福岡市博物館には大友宗麟や大内義隆の書状などが展示されています。


柑子岳城(こうじだけじょう)
福岡市西区今津柑子岳

高鳥居城
糟屋郡須恵町上須恵

立花山城跡
福岡市東区・糟屋郡新宮町・糟屋郡久山町の境界付近

岩屋城跡
太宰府市太宰府四王寺山


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