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雑感録

福岡なるほどフシギ発見〜番外編〜 弥生時代の年代は実は定まってないというお話

 
先日の日曜日、伊都国歴史博物館「伊都学第1回 弥生時代の文字文化〜イト国で最古の石硯を生産〜」受講。
昼飯にのんびりちゃんぽんを食ってたら15分ほど遅刻して、冒頭の肝心な部分(「文字文化」とは関係ないけど)を聞きそびれてしまった。
その聞きそびれてしまったと思われる“肝心”なところの一つ「北部九州以外は従来の考古学で弥生時代年代は決められない」というお話。

昔は「弥生時代」といえば採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代であると説明もひとことで済んで、年代でいえばざっくり紀元前3世紀〜紀元後3世紀ということで良かったんだけど、板付遺跡なんかいい例で、「縄文晩期の地層から水田跡が見つかった」ではなく、「稲作をやっていた=その時代はすでに弥生時代である」という風に、弥生時代の定義に合せて弥生時代の年代が遡っていったっぽい。北部九州では板付遺跡以外にも唐津の菜畑遺跡なんかで縄文晩期の地層といわれてたところから水田遺跡が見つかっていて、国立歴史民俗博物館(歴博)は科学的年代測定方法の進化にともない弥生時代は紀元前10世紀に始まるとしたらしいので、「北部九州については紀元前10世紀から弥生時代が始まったという証拠が整ってきた」ということだろうと勝手に解釈してる。

ちなみに、肝心の「弥生時代の文字文化」の方だけど、伊都国は邪馬台国の時代から一大率が置かれて外交拠点となっていたので、日本で本格的に文字が使われるようになる以前から外交文書(もちろん紙なんかまだない)なんかに文字が使われていたとしても不思議ではない。まあ、文字そのものが書かれた遺物ではなく、文字を“書く道具”の遺物が見つかっていたということだけど、石硯は機能的に砥石と見分けが付きにくく、硯である証拠となる墨が必ず残ってるとも限らないので判別が難しいらしい。先日新聞に載ってた「最古級すずり 内陸部にも 朝倉・下原遺跡で出土、弥生中期中頃」ってやつも、実は1981年に発掘されてたもので、発掘当初は砥石と考えられていたけど、あらためて調べてみたら黒色顔料(墨)の付着具合で実は硯石だった可能性が高まった、というものだったらしい。


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