青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

故郷を 忘れじ鮭の 背白く

2019年11月06日 17時00分00秒 | 水郡線

(水害の爪痕@下小川橋)

西金に着いた329Dの折り返しである324Dを撮影しに、西金~下小川間にある第一久慈川橋梁までやって来ました。鉄道の線路と並行して、R118から下小川の盛金集落に続く橋があるのですが、水害から半月を経てなお欄干に絡みつく大量の流木が被害の大きさを物語っています。よく見ると、橋のガーター部分にも流木が突き刺さっており、川の周囲の状況から見ても最大時はこの橋が水没するくらいの水が来たのではないかという事が想像出来ます。橋の下には集落への水道管が通っていたみたいですが、川の増水で破壊されてしまったようで、橋の歩道部分に剥き出しの仮の送水管がくくりつけられていました。

子供と二人で三脚を並べる上小川橋から、第一久慈川橋梁の橋脚を眺める。すっかりと水量が落ち着き、見た目にはいつもの清流を取り戻した久慈川。水郡線は、旧山方町の中心部であった山方宿の辺りから、久慈川との逢瀬を重ねながら常陸大子ヘ遡って行きます。久慈川はその源を福島栃木茨城県界に位置する八溝山に発する川ですが、源流部は八溝山の北麓を流れた後に南に向かっており、水郡線は常陸大子から先、福島県内に入っても磐城棚倉付近までは久慈川流域を走ります。この第一久慈川橋梁から、最後の橋梁である近津~中豊間まで久慈川に架かる橋は11ヶ所。水郡線の旅は、久慈川の流れを辿る旅でもあります。

見た目にはいつもの清流を取り戻しているように見えても、川岸は増水でなぎ倒された植生が覆っており、半月前の水の勢いの激しさを思い起こさせるには十分な状態でした。橋の周辺を少し歩いてみたのですが、この画像の左端にある橋のたもとのよろず屋さんの辺りまではどうやら水に浸かった様子。道の脇にはかき上げられた泥が乾いて埃っぽく、川岸の民家は避難してしまったのか空き家になっていたり、家族総出で窓ガラスを外して家の中の泥を履き出しているお宅があったり・・・そのお宅の前を、使えなくなった家財道具を運び出す軽トラが通って行くような状態で、まだまだ普段の暮らしを取り戻すには、時間が掛かりそうな様子でした。

何となく撮り鉄なんかやってるのも憚られるような気分で、神妙に列車の通過を待つことに。復旧工事に向かうダンプが通るたびに、ブルブルと橋が揺れる。西金折り返しの324Dは、そんな私たち親子の気分などよそに、青葉と紅葉のカラフルないで立ちで第一久慈川橋梁を渡って行きます。背後の山の紅葉はさすがにまだまだ、界隈で聞いたところによると、今年は10月になっても暖かい日が続いたことから、山の色付きも2週間程度は遅いとの由。本当であれば、水郡線随一のロケーションを誇る第四久慈川橋梁のたもとに陣取って、錦屏風に彩られた鷹ノ巣山の紅葉と弓なりにカーブしてくる橋を渡る水郡線の列車を撮りたかった。来年の秋は撮らせてくれるかな。それまでに何とか、復旧の道筋が付いていると良いのですが。

三脚を畳んでいると、子供が大声で「お父さん!あれ!」と叫んだ。ふと川を見ると、背中の色の抜けたようなサケの集団が川の浅瀬をゆるゆると遡上して行くのが見えた。サケは生まれた川の匂いを覚えていて、産卵の頃になるとその故郷の川に戻って来るという習性はつとに知られるところですが、洪水が起こった後などは苔や水草などの流失で川の匂いが変わる事もあるらしく、さすがのサケも戻る川を間違えてしまうこともあるのだとか。そんな中、サケは未曽有の洪水にも負けずに川の匂いをかぎ分けて、大海原から故郷の久慈川に戻って来ました。体を白く傷だらけにしながら、水害で傷付いた故郷に戻って来たその姿。何とも言い表せないような強さがあって、柄にもなく感動してしまったのでありました。

故郷を 忘れじ鮭の 背(せな)白く。自然は時に人を傷つけ、時に人より逞しい。


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