私の夢 「集いの場」(コミュニティ・カフェ)をどのように作るか?  ~「みなの(皆野)長瀞広場」編~

地域の中で「集いの場」作りに向けて、モチベーションの維持と日々の記録として、このブログを立ち上げました。

牡鹿半島から南三陸へ

2011-10-29 | 日記
23日(日)は、牡鹿半島から南三陸にかけて、バスによる被災地の視察研修をさせていただいた。

牡鹿半島は、東北地方太平洋岸で有名な、リアス式海岸の一番南端に当たる。
リアス式海岸の地形は、湾の奥に行けば行くほど、津波を大きく増長させる。
私の記憶では、最高到達点が38メートルとなった、岩手県の場所があったかと思う。

牡鹿半島から南三陸町までは、湾の入り江毎に小さな漁村が軒並み津波の被害を受けている。
亡くなった人口は、石巻などに比べればずっと少ないのだが、交通の便が悪いこともあり、
復興はかなり遅れ、まだまだ手が付けられていないところも多い。
道路も未だ崩れていたり、通行止めや相互通行ができない道が、何箇所も見られた。

女川の町立病院から見た街は、残す建物以外は瓦礫も全て撤去されたまっさらな街になっていた。
他のバスツアーの人に、地元の方が震災時の語り部をしていたが、思わず耳を傾けてしまう、
真に迫った体験談であった。
東松島市の菅原道郎さんの話もそうであったが、命が助かった人の中にも、間一髪で助かった人は、
沢山いるのである。

大川小学校では、仮設の慰霊碑に変わって、新たに母子像を配した物ができ、式典を行なっていた。
バスから降りることはできなかったが、参加者の多くには遺族の方が含まれていたことだろう。

南三陸では、鉄骨のみになった防災センターの前で、仙台市の聾者の会が、最期までアナウンスを
して殉職となった遠藤未希さんの両親に、折り鶴を渡している場に出くわした。
その後、奇しくも、ご両親の気持ちなどを聞くことができた。
「6mの津波が来た時点で、避難していたら・・・」やはり両親として悔いが残る。
この防災センターも、「震災の象徴として残そう」という意見と「心が痛むので取り壊してくれ」と
二つの意見があるそうである。
遺族の気持ちとは、私達が報道で聞く以上に奥深い襞があり複雑だ。

震災ボランティアも4回目であったが、今回は作業以外にも、貴重な経験をさせていただいた。


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