私の夢 「集いの場」(コミュニティ・カフェ)をどのように作るか?  ~「みなの(皆野)長瀞広場」編~

地域の中で「集いの場」作りに向けて、モチベーションの維持と日々の記録として、このブログを立ち上げました。

被災者の視点

2011-10-30 | 日記
今回のツアーでは、被災者の話をいくつか聞くことができた。
ツアーの中に、石巻出身で18歳まで石巻で過ごしたNさんがいた。
また、三宅島が噴火し全島避難した時に、三宅島で小学校の先生をやっていたAさんがいた。
女川では、被災体験の語り部として、バスツアーに協力している人の話を耳にした。
大川小学校では母子像の式典に出会い、多くの保護者が参加していた。
南三陸では、遠藤未希さんのご両親の話を、偶然聞くことができた。

直接被災した人、家族が被災した人、状況や受けた被害は異なる。
しかし、皆、突然振り掛かってきた我が身への災害に対して、否が応でも向き合わざるを得ない。
「何故、どうして、私に・私の家族に・・・」という、不条理への憤り。
もし「あの時、こうしていたら・・・」後悔の気持ち。
そのような中で、精一杯、自分のできることをやり、当然できなかったことも一身に身に受け、
今ここで生きている。
そして、大きな天災の被害者は、多くの人が被災者となる。
同じ被災者でも、被害の状況は、様々で、その後の災害への向き合い方や気持ち、行動は異なってくる。

三宅島の全島避難では、都の判断で、先ず子供たちである小中高校生が、都内の旧秋川高校に避難した。
その3日後に、全島非難の命令が出て、親御さんは子供とは別の場所である、都営住宅に避難をした。
結果として、幼い小学生も親と離れた生活を強いられ、その後、親が避難した地区の学校に移るか、
そのまま旧秋川高校跡地で生活をするかの選択を迫られた。
その結果、島の家族の絆や、コミュニティのつながりが、徐々に分断されてしまったのだという。
避難先で仕事に就くことは、島に帰還しないことと非難された・・・
親子で分断され、精神的におかしくなってしまった子供や人もいた・・・
被災を受けた直後より、むしろその後が、一人ひとりの人生を変えていくのだ。

ボランティアは、その時その時の一瞬の関わりでしかない。
東松山震災ボランティアの会は、民間レベルで継続的にコミットメントをしている、大変ユニークな
会である。
私達は、ボランティアの視点に加え、被災者の視点を忘れてはならないと思う。

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