人骨

オートバイと自転車とか洋楽ロックとか

北海道ツーリング18

2004年12月07日 | ツーリングのレポート
ホッパーというのは、石炭を出荷するにあたってこれを貨物列車へ積み込むための施設である。建物は細長い車庫形をしており、石炭運搬用の貨物列車が2編成並んで収まるようだ。内部からこの建物の天井を見上げると、線路に沿って2列、穴がたくさん開いている。それぞれの穴は漏斗形状に成型されたコンクリートの底部に位置している。つまり、外からこの巨大なコンクリートの漏斗群へ石炭をガラガラと流しこむと、貨車の荷台にほどよく積もっていく仕組みのようだ。いまこの穴をのぞき上げても空が見えるだけ。ここまで鉄道が通っていたわけだし、そこかしこに鉄橋の橋桁等の遺構も見られる。現代の都市・市街地を見て、かつて自然豊かだった大地の姿を思い浮かべることはよくあるが、ここはそれとまったく逆のシチュエーションだ。かつて羽幌町は市制の実現を射程距離に入れていたそうだ。海際の築別や羽幌集落と、内陸の炭鉱部までは15km以上離れていると思われるが、かつてはこの炭鉱部だけで1万を越す人口があったという。相当の繁栄振りだったはずだ。それが石炭から石油への資源代替を主理由としてあえなく閉山。採掘会社の企業城下町で成り立っていたこの付近の集落はほとんど一夜にして滅んだという。まあ一夜というのは言い過ぎだが、それでもわずか1年くらいで1万人が消えたというからスゴイですね、伝説ですね、夢がある話だよなあカタストロフの美しさ。で、内部の線路があった場所に1台ダイハツミラかなんかの廃車がポツンと落っこっている。足元には草が生え、水が溜まり、砂質でもろく、所々陥没している。ホッパー入口まで何も考えずVTRで乗り込んだりしたが、地面にめり込み切り返しが出来ず手で引いて戻る羽目になった。あやうく砂に車輪がはまって出られなくなるところだった。一瞬ホントに焦った。写真はとりあえず脱出を確信し安心した後に撮ってもらった。



羽幌鉱を後にし、さてお次はいよいよ築別鉱跡だ。ここには立派な「お宅」群があるらしい。道道741をさらに北上する。道路上にはいまだに所々朽ち果てかけた築別炭鉱の標識が残っていた。続いて森の中に煙突が見えてきた。いよいよだ。右手にボロボロの橋があったので渡るとバス停留場のような広場があり…その奥に出ました、立派なお宅。炭鉱住宅団地、これに会いたかった。もう素晴らしいです、風量発電なんかよりよほど圧巻です。行儀良く縦に2列に並んでいます。奥まで何棟あるのか分からないが、列の間には轍のある砂利道が。何らかの用事でそこそこ車の出入りもある模様だ。まあそんなのは関係なくそれではさっそくお邪魔してみます。もうクマとかそういうのは一切頭から消えました。建物のすぐ手前まで草木が入りはびこっていて中々近づきにくかったが何とか取り付き、手っ取り早くということで向かって右側の棟の一番手前の階段に潜入してみた。造りは、70年頃建った団地特有の真ん中に階段があって左右に部屋というヤツで、間取りは多分2DKだろう。内部はほどよく荒れてるが。階段等建造物自体の造りと程度は良いと思う。落ちてるフスマ類なんかを見るに、30年間風雨に晒されてきたにしてはかなり綺麗だと思った。聞くところによれば、ここが廃鉱となったのが昭和45年だが、この団地の完成はそのわずか数年前くらいなのではないか。人が住んでいる時間は短かったのではないかという印象。生活の痕跡を示すような遺品類も特に見つからず。万を数える人口がこの付近にあったことを思えば他にもたくさん建物があったに違いないが、木造建築類は残らずコンクリートだけが残ったのだろうか。かつての繁栄ぶりを目に浮かべてみる。この調子で全棟全室を歩き回ってみたいが、いつまでも外に妻を置いておくわけにもいかず、「ヒマワリ畑が日暮れになる」などとプレッシャーを云ってくるので、早々にこの場も後にした。ようやくお腹いっぱいである。道道を南へ戻ると妻があれは?と叫んだ。さっきも通った道だが、左手木々の向こうにチラチラと建物群が見える。あれはたしか学校跡だ。最近まで町営のキャンプ系施設として使われていたものだと聞いている。時間もあるので特に寄り道することなく(おそらく妻も寄らないことを見込んで敢えてぼくに知らせたものと思われた)曙に戻り、ここから道道356を西へ走りR232オロロンラインへ戻る。


すてきなお宅でした


間取りは3K?
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