MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

江藤淳『妻と私 幼年時代』

2021-03-21 00:59:12 | Weblog

 江藤淳という評論家の本を読んだことがなかったのだが、たまたま手にした江藤の最晩年の書籍である『妻と私 幼年時代』(文春文庫  2001.7.10)を読んでみた。
 巻末の石原慎太郎の追悼文によるならば、妻を亡くした後に軽い脳梗塞を患っていた江藤の身の周りの世話をする住み込みのお手伝いさんを手配したのが石原だったようなのだが、間もなく江藤は自死したのである。
 『妻と私』は1998年、江藤の妻の慶子が肺がんと脳に転移した脳腫瘍であるという告知を2月に受けてから亡くなる11月7日、さらには江藤自身が患らった重篤な感染症による入院から退院までのことが書かれている。
 『幼年時代』は江藤の母親で27歳の若さで亡くなった寛子について書かれるはずだったが、江藤の死で絶筆になっている。その最後の文章を書き出してみる。兼子とは海軍中将江上保太郎の未亡人、つまり寛子の継母で、寛子は23歳で嫁いでいる。

「実の娘の新築の家に招かれて、例になく上機嫌で寛いでいる兼子の姿をまのあたりにした寛子が、自分の嫁としての『不行届』に、あらためて思い至ったのは不自然ではない。母はその点で、あまりにも素直であった。つまり、『不行届』は努力によって行き届かせることができると、確信し過ぎているようなところがあった。
 それが兼子とのあいだで、心理的に果して可能であったかどうかはまた別として、寛子の確信、女子大流にいうなら、『信念』を実現させるためには、少くとも健康でなければならない。私は、以前寛子の女子大時代の学籍簿の写しを一見したことがあるが、その健康の欄に「強健」と書かれているのを見て、胸を衝かれた。逆にいうなら、『御母様』との平衡状態は、寛子の健康が維持されなければたちどころに崩壊しかねなかった。
 初節句のときには、もとよりそれは維持されていた。その翌年も、翌々年も、維持されているかのように見えた。」

 それくらい元気だった自分の母親が27歳で結核で亡くなることをこの後に江藤は書かなければならないのである。江藤が自死した原因は分からないとしても、妻が亡くなったことを書いた後に、「強健」だった母親が継母との折り合いの悪さも相まって若くして亡くなることを書くことに江藤は耐えられなかったのではないのだろうかと邪推してしまうのである。


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