タモリに関しては『タモリ論』(樋口毅宏著 2013年)や『タモリ伝』(片田直久著 2014年)など出版されているが、『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』(戸部田誠著 2014年)が最もタモリの本質をついていると思われる理由は、まとまった著書が無いタモリが様々なメディアで放った言葉をできるだけ拾い上げているからだと思う。
タモリは言葉に関して以下のように語っている。
「もしかしたらね、小さい頃はいろんなものがそういうふうに見えてたんだと思うんです。それが、だんだんそう見えなくなってくるのは、やっぱり言葉がいけないんじゃないか」「言葉が全ての存在の中に入りこんできて、それをダメにしている」「オレの中では言葉がものすごく邪魔している。一種言葉に対するうらみみたいなものが、なんとなくずーっとありました」(p.94)
言葉よりも「事象そのもの」を重視するという立場は現象学と呼ばれるもので、フッサールが提唱したものである。例えば、人間は生まれた時から存在する世界内で生きるしかないのであるが、その世界は既に意味付けられており、その中で与えられたものが真理かどうかは怪しく、それを確かめるために既成の定式を無視し、自身の世界内存在を超越して自分の経験を通して改めて自分自身で判断しようと試みる振る舞いである。それを「超越論的主観性」というのは実際には「超越」できないから「超越論」なのである。
雑誌の対談で「昔は40代半ばくらいでお笑いの方というのは、(別の道へ)舵を切る」ものだったというナイティナインの岡村隆史に対し、「そういう人は本来マジメな人間にもかかわらず、お笑いでアホなことをするというギャップに年を追うごとに耐え切れなくなるからこそ方向転換をする」とタモリは応じた(p.84)。
つまり人はとかく意味を求めてしまいがちで、それにつれてつまらなくなっていき、言葉が全ての元凶であるというのは納得できる。
しかしそのタモリがつまらなくなったという意見には納得できる点もある。例えば、昔は自分の好き嫌いをはっきり述べており、大嫌いな小田和正と「テレフォンショッキング」で対面した時にはとてもスリリングだった(p.69)。ところが8月30日に放送された「ミュージックステーション」でタモリは初めて矢沢永吉と対面したのであるが、何故か矢沢に質問するのはタモリではなくゲストだけで、当の2人は当たり障りのない会話だけで終わってしまったのである。
タモリの唯一と思われる想定外は、自分自身が「メジャー」、つまり権威になってしまったということではないだろうか。アングラの帝王と呼ばれていた時代には自分の好き勝手なことを言えたのだろうが、「メジャー」になってしまうと自分が嫌いと言ったことで相手の仕事に影響を及ぼすことになるから「好き」は言えても「嫌い」が言えなくなり、そうなるとはっきりものが言えなくなったタモリに多少なりとも不満が生じるのは仕方がないと思う。