MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

『ザ・インタープリター』

2015-09-12 18:27:16 | goo映画レビュー

原題:『The Interpreter』
監督:シドニー・ポラック
脚本:チャールズ・ランドルフ/スコット・フランク/スティーヴン・ザイリアン
撮影:ダリウス・コンジ
出演:ニコール・キッドマン/ショーン・ペン/キャサリン・キーナー/イヴァン・アタル
2005年/アメリカ

 ポラックにあってベッソンに無いものについて

 特にハリウッド映画を観る時には使用されている曲も気になってしまう。例えば、浮気していた妻が赦しを乞う電話をしてきた直後に交通事故で亡くしたばかりの主人公のシークレットサービスのトビン・ケラーがバーで飲んでいた時にジュークボックスから流れていた曲はモビー・クレープ(Moby Grape)の「Hey Grandma」だった。以下、和訳。

「Hey Grandma」 Moby Grape 日本語訳

ねえ、おばあちゃん
とても若いね
あなたの年老いた旦那でさえまるで少年のようだ

今回は長い
今回は長い
今回は長く続いている

全てがひっくり返る
確かに素敵に見える
あなたはとても素敵に見える
間違いなくあなたは素敵に見える

SF映画の奇妙なシーンが僕の心を支配した
フィルモア・スリム(Fillmore Slim)なんて聴いていたって時間の無駄だよ

今回は僕はハイになった
今回は僕はハイになった
今回は僕は何度もハイになった

全てがひっくり返る
だってあなたが素敵に見えるから
あなたはとても素敵に見える
間違いなくあなたは素敵に見える

ロビタシン(Robitussin)という咳止めシロップが僕の気分を良くさせる
ロビタシンとエルダーベリーワインが

Moby Grape - Hey Grandma (MONO)

 こんなドラッグソングを、2週間前に妻を亡くしたばかりのトビン・ケラーは聴いていられず、一度ジュークボックスの電源コードを引き抜いて途中で曲を止めると、改めてかけなおした曲がライル・ラヴェット(Lyle Lovett)の「If I Had a Boat」だった。それは亡き妻が最後に留守番電話に残していた意味深長な曲だった。以下、和訳。

「If I Had a Boat」 Lyle Lovett 日本語訳

もしも僕がボートを持っていたら
僕は海原に漕ぎだす
そしてもしも僕がポニーを飼っていたならば
僕のボートにポニーを乗せていく
僕たちは一緒に海原に漕ぎだしていける
僕はボートの上のポニーに乗ってひとり言を言った

もしも僕がアメリカの俳優のロイ・ロジャース(Roy Rogers)だったら
僕は独身で十分満足していた
僕は彼の老いた妻のデイル・エヴァンス(Dale Evans)と結婚に踏み出すことはできないだろう
まるで僕と彼らの愛馬のトリガー(Trigger)のように
僕たちは彼らの映画の中に乗り込んで
僕たちはボートを買って海原に漕いでいく

もしも僕がボートを持っていたら
僕は海原に漕ぎだす
そしてもしも僕がポニーを飼っていたならば
僕のボートにポニーを乗せていく
僕たちは一緒に海原に漕ぎだしていける
僕はボートの上のポニーに乗ってひとり言を言った

不思議なマスクを被った男は頭が良かった
彼は自分自身を「トント(Tonto)」とした
何故ならトントは無償で汚れ仕事を引き受けた
しかしトントはさらに賢くなってしまい
ある日、キモサベ(Kemosabe)に言った
「いい加減にしろ!俺はボートを買ったから海に漕いでいくよ」

もしも僕がボートを持っていたら
僕は海原に漕ぎだす
そしてもしも僕がポニーを飼っていたならば
僕のボートにポニーを乗せていく
僕たちは一緒に海原に漕ぎだしていける
僕はボートの上のポニーに乗ってひとり言を言った

もしも僕が稲妻のようだったら
僕にスニーカーは必要ないだろう
僕は好きな場所に行ったり来たりするんだ
僕は樹のそばに避難している人たちを怖がらせ
僕は電柱のそばにいる人たちを怖がらせるけれども
僕は海に浮かぶ僕のボートに乗っている僕のポニーを怖がらせることはない

もしも僕がボートを持っていたら
僕は海原に漕ぎだす
そしてもしも僕がポニーを飼っていたならば
僕のボートにポニーを乗せていく
僕たちは一緒に海原に漕ぎだしていける
僕はボートの上のポニーに乗ってひとり言を言った

Lyle Lovett - If I Had A Boat

 この絶妙な選曲が一度観ただけでは分からないところが、英語圏に暮らしていない観客の弱みなのである。
 シドニー・ポラック監督の最後に作品となった本作そのものも決して出来の悪いものではない。国連の内部で撮影させてもらいながら、国連はそれぞれの国の「正当性」を競う場でしかないという皮肉とも受け取れるような演出がなされているからである。あるいは例えば、本作を主役のシルヴィア・ブルームを演じたニコール・キッドマンの「ヒロインもの」として見た場合、比較して見るならば「ヒロインもの」を量産しているリュック・ベッソン監督が描くストーリーがスカスカで陳腐に見えてしまうことからも分かると思う。シドニー・ポラックにあってリュック・ベッソンに無いものは、例えば、本作において『裏窓』(1954年)のような映画的記憶やポラック本人がちょい役で出演するようなアルフレッド・ヒッチコック的ユーモアだと思うのである。


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