原題:『Learning to Drive』
監督:イサベル・コイシェ
脚本:サラ・カーノチャン
撮影:マネル・ルイズ
出演:パトリシア・クラークソン/ベン・キングズレー/グレイス・ガマー/ジェイク・ウェバー
2014年/アメリカ
クルマの運転を学ぶ「形態」について
本作は、生粋のニューヨーカーで著名な書評家である主人公のウェンディ・シールズと、シク教の信者の迫害によりインドからアメリカに亡命してきたタクシー運転手のダルワーンを介して、単にインドとアメリカの文化の違いを描いたようには見えない。
例えば、自分が推していた若い小説家と夫のテッドとの浮気が原因で離婚することになりウェンディの家に荷物を取りに来たテッドが、荷物を自家用車に積み込んだ後にウェンディの「誘惑」に戸惑いを見せるのであるが、そのうちにテッドのクルマは違法駐車でレッカー車に運ばれてしまう。路上で茫然としているテッドを尻目にウェンディは家の戸のカギを閉めてしまう。ウェンディの「誘惑」は計算されたものなのである。
ウェンディは頭が良いだけではない。アナルセックスまで経験済みのウェンディはほぼ全てのプレイを経験しているはずであるが、それでもヨガを応用した射精をしない銀行員のセックスに驚きを隠せない。彼女の驚きというのは射精なしのセックスよりもセックスに関して自分よりも上手がいるという事実であろう。ヨガからインドを連想してウェンディのダルワーンに対する見る目が変わったことは言うまでもない。
そんな「才色兼備」のウェンディにダルワーンが心を惹かれない訳がない。ウェンディもダルワーンが嫌いな訳ではないが、ウェンディとダルワーンは交際にまで発展することはない。ダルワーンはお見合い結婚したジャスリーンが学校に通っていなかったことにがっかりしてしまう。彼女は英語とスペイン語(例えばPeligro)の区別さえつかず、ウェンディのアドバイスでダルワーンが妻に『ワーズワース詩集』をプレゼントとして贈ってもロマン派の詩などジャスリーンに理解できるはずもないのであるが、ジャスリーンの篤信ぶりに感銘を受けてダルワーンは彼女と共に暮らしていくことを決心するのである。
クルマの運転を学ぶという行為は先生と生徒が向かい合うのではなく同じ方向を見るという特異な形態を取る。そこにウェンディとダルワーンが共感しながらも「交わらない」要因があると思うが、後は観客に想像が託されている。壁の時計など演出に多少の難はあるが、脚本は巧みである。