MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

『中村一美展』

2014-04-15 12:07:14 | 美術

 国立新美術館において『中村一美展』が催されている。「絵画は何のために存するのか

絵画とは何なのか」という惹句がついているように、中村の作風は、「初期作品」の

「桑畑(櫛形町)」(1976年)や「自画像」(1977年)は正統派の作品として

描かれているものの、すぐにそのような正統派の絵画に疑問を投げかけるような抽象絵画

に転向している。

 中村の作風をとりあえず大まかに理解する方法として、まず「開かれたC型」という

部屋に飾られている「宗達より - ダイアゴナル」(1986年)という茶色い描線で

描かれた小品を見て、その後に、その作品の横に据えつけられている「宗達より」

(1986年)と比べてみれば、「宗達より」は「ダイアゴナル」をベースに大胆に

色彩を施した作品であることが分かる。中村の作品は必ず「骨組」となるような

「斜行グリッド」のようなものがあり、そこに着色することで、絵画の「出自」を

暴く試みのように見える。

 そのアプローチが比較的よく分かる作品は上の作品「存在の鳥 107(キジ)」

(2006年)に代表されるシリーズである。「存在の鳥」という言葉は英語で

「A Bird in its Existence」となり、正確に訳すと「その存在の中の鳥」となる。

つまり鳥が存在するのではなく、「存在」の中の鳥の在り様が描かれているのである。

とても分かりにくいが、上の作品をよく見ると、上で半分に見切れている円を鳥の目と

見なして向かって左側に大きく口を開いて右側に翼を開いている鳥の姿が見えてくる。

作品によっては左下に2、3羽の小鳥が後ろ姿で描かれている作品もあるのだが、

ようするに基本のストラクチャーは同じで、着色の仕方が違っているだけなのである。

意外なことかもしれないが、これはアンディ・ウォーホールのシルクスクリーンの

作品とアプローチとしては同じで、中村はベースとなる骨組を変えずに着色を変えることで、

絵画の成り立ちを探求しているというのが、あくまでも私の勝手な解釈である。


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『神様のカルテ2』

2014-04-15 00:19:41 | goo映画レビュー

原題:『神様のカルテ2』
監督:深川栄洋
脚本:後藤法子
撮影:山田康介
出演:櫻井翔/宮崎あおい/藤原竜也/要潤/柄本明/市毛良枝
2014年/日本

「残酷な天使のテーゼ」について 

 主人公の栗原一止が勤務する信州の本庄病院は「24時間365日」を看板に掲げ地域医療の一端を担うのではあるが、勤務する医師たちには過酷な労働条件が強いられている。そこに一止の大学時代の同期のエリート内科医である進藤辰也が赴任してきて、さらに本庄病院消化器内科部長の貫田誠太郎が末期の悪性リンパ腫で倒れたことも手伝って、家族を顧みることをせずに仕事に没頭してしまう医師のあり方が問われることになる。
 その問題を考えるきっかけとなる出来事は貫田と妻の貫田千代に満天の星を見せるために病院の屋上に2人を連れていき、1分間だけ病院の全ての明かりを消して観賞してもらおうと一止たちが画策した時である。「24時間365日」という赤い電光の文字が消える時、一止たちが身上としていた医療方針は一旦放棄されることを意味し、その間にそれぞれが自分たちの生き方を改めて考えることになる。彼らに明確な答えが見つかったようには思えないが、それは決まりきった答えではなく、お互いが納得しながらそれぞれの新しいライフスタイルを見つけようという密かな誓いを立てるからであり、残酷にも再び「24時間365日」は光りだすのである。
 同じ後藤法子の脚本である『チーム・バチスタFINAL ケルベロスの肖像』(星野和成監督 2014年)と比較するならば、本作の方が出来が良いと思う。


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