戦場にかける橋('57)
1957年/イギリス=アメリカ
バイアスについて
総合 100点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
2010年8月25日に「小沢一郎政治塾」において小沢一郎衆議院議員が講演の中で『戦場にかける橋』を取り上げていた。まずはその部分を引用してみたい。
「その一方でね、みんな、あの、映画覚えてるかな、『戦場に架ける橋』というのを。覚えている人いる?この中で。
もう古いからいないか?いる?おお、タイとビルマのね、戦争中に国境に鉄道を通すということで、日本軍が昼夜建工で、工期4年か5年かかるのを1年ちょっとで作っちゃった話なんだけれども、その映画、早川雪洲とね、誰だっけもう一人英国の俳優でもってあったんですがね、そこにアメリカ兵やオーストラリアの兵やそして特にあそこイギリスの植民地でしたから、イギリス兵の捕虜を使役に使ったわけですね。
ある日、イギリスの捕虜が送られてくる、ということになって、その現地に。
まあ、たぶんねヨロヨロして、ふて腐れてモタモタ歩いてくるんだろうと、誰もが想像しておった。
ところが、イギリスのその捕虜は、将校を先頭にして隊列を組んで、いわゆる映画では『クワイ河マーチ』と言われる。
口笛で行進曲を吹きながら、みんな隊を組んできちっと収容所?に入ってきた。
アメリカ兵もオーストラリア兵もおったまげて、日本はもっとおったまげたわけですけれども、そういう捕虜になってもキチンと組織のあれが守られている。それから、鉄道をつくる作業にその兵を使うわけだけれども、ジュネーブ条約で将校は使役に使ってはいかんちゅうことになってんですね。
それでその将校の、捕虜部隊の一番偉い人がたまたまキャップ、長になったんでしょうけれども、日本軍はその人も強制労働せよと命じたんだけれども、これはジュネーブ条約で将校は、そういうことはさせられない、する必要ない、させてはいけない、いうことになっている。
断固拒否したんですね。その将校が。
独房に、まあ南洋ですからね、熱いトタンぶきのうだる様なグダグダの独房に一週間くらい閉じ込められて。
しかし、それでも絶対負けない。
それでフラフラになって出てきた。
その将校を、賞賛しようとして言ってんじゃないですよ。
その出てきた、絶対に将校はその作業につかなくていいんだ、という筋道をきちっと守って、独房からフラフラになって出てきた将校を、その他の兵士が拍手で迎えた。よーやった、と。
非常にわたしはびっくりしたと同時に感動した場面でしたね。
たぶん、今、言ったように日本の兵隊が捕虜になったら、『何言ってんだ、お前だけサボっててふざけんな』というような類(たぐい)の話になってたんだろうと、その本を読むと想像できますが。
その『戦場に架ける橋』『クワイ河マーチ』というのは、そういう、まあ日本を軽蔑した映画だというような、つまらん論評は別にして、私はそこに非常に感動した。
なぜ、この違いが出てくるんだ、と。
それは、いわゆる帝国陸海軍、この規律・空気、これは結局、天皇陛下の名を借りてですけれども、上から与えられ、押さえつけられた結果で、それを守ってきた。
だが、イギリスのほうはそういじゃない。
自分達でつくった国であり、自分達の意志でもってつくった軍隊であり、また、組織、階級であった。
自分たち自身のものなんですね。
だから、祖国愛も、その祖国のために戦う軍隊も組織も、みんな自分たちで作りあげてやっているもんなんだから、それは、守らなくてはいけない。
たとえ捕虜になっても、というのが、私は彼らの意識ではないかな、というふうに思いましてね。
非常にその映画に、その部分ですよ、その面において感動したことを今もって忘れてはおりません。
ですから、私はそういう意味で、家族愛で始まる郷土愛、祖国愛、愛国心というものは、そういう本当に自分たち自身の心の中にうまれるものでありますし、また、社会、国は自分たち自身の社会であり国であると。
それが自立心であるという民主主義の基本の意識が徹底していると、ということを私は学ばなくてはならないと、いうふうに思っております。
私はイギリス人は、まあ好きじゃないんですけども、ええ、散々悪いことしといて、なんかあの紳士ヅラして済ましてますから、好きではないんですけれどもその知恵とね、やはり自分たちの自立心と、そういうものがね、やっぱりその知恵と自立心は、七つの海を支配しただけの民族だと思ってますね。
あのアメリカの連中と話した時もね、時々話すとね、なんで、そう君らはそう単純なんだと、本家のイギリス人に少し学んで来いって言うんですけれども、僕はアメリカ人は好きですけれども、どうもね、単細胞なところがありまして、ダメなんですが、我々は、いわゆる他山の石、やっぱり、いいところはキチンと学ぶという面が、自分自身の研鑽につとめ、また、自分自身を作り上げていかなくてはならない。」
もちろん作品をどのように見ようと個人の勝手なのではあるが、ベテランの政治家であるならば早川雪洲の名前を出す前に、この作品の助監督で兼松大尉役で出演もしている、昭和18年に第二次世界大戦でフィリピンに軍属として応召し、終戦時、現地司令官山下奉文大将がアメリカ軍に投降の折り、通訳として抜擢されその任務を果たしたヘンリー大川(大川平八郎)の名前を挙げるべきだと思うし、それ以前に『戦場にかける橋』が決して史実に忠実ではない上に、監督がデヴィッド・リーンというイギリス人であることも頭に入れておくべきであろう。
それでも『戦場にかける橋』が傑作である所以は、そのようなバイアス(偏向)を作品自ら打ち破るだけの力があるからである。大佐としての使命を最後まで貫いたニコルソンが、大局を見れば敵を利する行為をしていたという皮肉や、橋が爆破されて大惨事を招いた主因が銃で撃たれたニコルソンがたまたま点火箱のスイッチの上に倒れこんだことによるという呆れるほどの無益さなど、いまだに強烈に身につまされるのである。
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ようやく“ツイッター”のバカバカしさに気がつきだしたということだろうか? 例えば
アメリカ人歌手のジョン・メイヤーのフォロワーは370万人、同じくデミ・ロヴァートの
フォロワーは約250万人いたらしいが、それだけの情報をどのように処理すれば
いいのか考えると、物理的に無理であることが自ずと分かるはずである。メリットが
ないとは言わないが、一言いっただけで何万という答えが返ってくるなど常軌を
逸していて、一言応えると更に多くの答えが返ってきて収拾がつかなくなり、うかつな
ことが言えなくなり“無口”になってしまうというのが真相だと思う。