ケンのブログ

日々の雑感や日記

一体どうなっているんだ

2020年12月19日 | 日記
僕はテレビを見ないので知らなかったのだけれど、聞くところによるとテレビでは政府は5人以上の会食は慎むようにと国民に呼びかけているのに菅首相はじめ自分たちは8人という5人を大幅に超える人数で食事をした。

言っていることとやっていることが違う。

というようなことが話題になっているらしい。

そう言われてみてネットの動画を見ているとそういう報道をするテレビのニュースがアップされている。

女性アナウンサーが、深刻な口調で大人数で会食をしました。とアナウンスしている。

それで、その会食から出てきた人を立ち話で取材した映像を見ると、その焼き肉店だかステーキ屋さんだかは、高級車が複数台横付けできるような広さであるように見える。

8人で会食と言っても、そこは、僕たちが行くような、雑居ビルを狭いエレベーターで上の階まで登っていって、4人が畳三畳にも満たないような、隣の部屋の声がまる聞こえの狭い個室に詰め込まれて、隣に座った人の背広の裾をお尻で踏んづけてしまうような個室居酒屋、あるいは個室焼肉店とは、広さや建物の構造も桁違いのものであるようだ。

私達一般人が4人で行く個室焼肉店よりも、政府高官が行った8人での会食のほうが密の度合いは低かった可能性は極めて高いように想像する。

ただ単に人数だけを問題にして、街ゆく人を街頭インタビューして「人には5人以上は、あかん言っといて、自分たちは行くなんて、やっていることと言っていることがちがう、笑うしかないよね」と言っている映像を見せて、ニュースのストーリー性を盛り上げても、なんかテレビやネットのニュースが子供の喧嘩レベルのことを煽りててているように思えなくもない。

かと言って、政府高官のことを容認するようなことを、堂々と言って、もし自分がコロナになったら笑いものになるだけだし、本当に今はみんな辛いところだと思う。

飲食店にはアクリル板を設置するようにという呼びかけもあるらしいけれど、
3日前に、駅で立ち食いそばを食べたら、そこのカウンターのアクリル板には、急いでそばを食べていく人のおつゆが飛んでいて、アクリル板のその部分は茶色く染まっていた。

おつゆが飛んだのは茶色く染まって目に見えるから、ああ、アクリル板には触れないように気をつけなければ茶色いおつゆがそでについてしまう、と気をつけるけれど、コロナのウイルスがアクリル板にとんでも茶色く染まるわけではないから、安全だとアクリル板に触れたら一体どうなるのだろう、、、。

また、立ち食いそばでは、アクリル板相互の距離が狭いから、ちょっと肘を張って食べるクセのある人だと、アクリル板に肘が触れて、それが倒れることもある。

一昨日入った牛丼の店にもアクリル板がしてあり、アクリル板ごしにしょうがを取らなければならないような位置関係になっていた。

やはり、アクリル板の下の方に紅生姜の紅い液がちょっと付着していた。紅生姜の液は付着すると目に見えるから気をつけるけれど、コロナのウイルスは目に見えないから、アクリル板だから安全と思っていたら大変なことになりかねない。

それにアクリル板越しに生姜に手を伸ばすと、そのアクリル板の向こうで牛丼を食べているおじさんがイラッとすることもある。

そういうストレスでコロナへの抵抗力が落ちるということはないのか。ストレスは身体の抵抗力を落とすとどこかに書いてあった気がするけれど、、、。

この寒いのに電車は窓をあけて走りみんなの体は縮こまっている。

その寒さでコロナ以外の持病が悪化する人も出てくるのでないか。

そもそも寒い電車に乗るのが恐怖で会社にいけなくなったりする人が出てくるかもしれないし、、、。

冷え性の人にそういうことが現れる可能性があることは、ある程度、素人にも想像できるように思うのだけれど。

ベートーベンの交響曲第9番「合唱」は合唱団がマスクをつけて歌うので、喜びの歌が陰にこもった響きになり、陰気な歌に変化してしまって、作曲者ベートーベンが意図したのとはおそらく別の音楽になってしまっている。

こんなことしてまでベートーベンを演奏する必要があるのかと思ってしまう。

本当に一体何がどうなっているのかまるでわからないこの状況、なんとか無事に脱することができるようにとそれをひたすら祈っている。




無事に過ごせますように

2020年12月17日 | 日記
冬は一般にインフルエンザの流行する季節だからコロナの感染も増えるかもしれないという話は夏場から出ていたけれど、本当にそのとおりになっている。

新聞には雪に覆われた富山の写真が出ていて日本海側は積雪を観測するところが多かったと出ている。

コロナに寒波、なんとか無事に乗り切ることができればと思っている。

良心ある人間としての生命の大切さ

2020年12月16日 | 読書
芹沢光治良の「人間の運命」という小説に次のような記述がある。

“”
二月上海事変中に、日本軍が廟行鎮の戦線で苦戦しているときに、工兵隊所属の三人の兵隊が、点火した爆弾筒をかかえたまま前進して、鉄条網の爆破作業を敢行して自爆して死に、二階級特進して、「爆弾三勇士」と称賛されたことがある。

三勇士のことを、新聞や雑誌が盛んに書きたてて、軍国熱をあおっているが、それは日本が軍国主義に急展開した象徴であるが、死を怖れるようにして病をやしない、生命を大切にしている次郎には、辛く身にこたえることである。

この軍国主義は、蛮行だと言ってしまえないにしても、生命を大切にしている自己を、卑劣か意気地なしかに感じさせるものがある。しかもその「爆弾三勇士」を称えるために、B新聞社が全国から歌詞を募集して、その当選者が与謝野寛であったことが、肌に泡立つような悪寒を感じさせた。

与謝野寛が日露戦争の時、戦場におもむく兵隊を、敢然と「君、死にたもうことなかれ」と、生命を惜しんで涙の長詩をもって見送った歌人、与謝野晶子の師であり夫であるから、こんな歌詞を投稿したことが、情けなくゆるせない気がした。

廟行鎮の敵の陣
われの友隊すでに攻む
折から凍る二月の
二十二日の午前五時

すぐに曲がつけられて「酒は涙かため息か、心のうさの捨てどころ」とその頃陰鬱に町町や村村に流れていた歌謡曲を一掃するような勢いで歌われはじめた。それを聞くと、物を書く身の恐ろしさが、胸にせまるのだった。

中略

与謝野寛という歌人はこれによって、その全生涯の詩集を溝に投げ込んだことに気がつかないのであろうか。そのよき妻として、なお生きて、多くの短歌を詠んでいる歌人晶子は、この歌詞を投稿する夫を引き止めなかったことで、後世にわらわれ、惜しまれることに、気がつかないだろうか。

そして恐ろしいことは、自分も、よほど生命を見つめ、良心をとぎすませていなければ、時局の急迫につれて、無意識に与謝野寛にならないともかぎらない。

自分のペンで自分の生命をむしばみ、生命を断つようなことを知らずにやりかねないのだ。

しかしこの不安は一郎にも、誰にも話したとてわかってもらえないだろう。“”

※一郎は主人公 次郎の兄


昭和7年当時というこの小説のこの場面の時代設定を考えると与謝野寛や晶子に対するあまりにも厳しい評価の仕方ではあると思う。

時局の勢いで止むにやまれず軍歌を書いたりした人もきっといた時代だから、、、。

しかし、この僕が引用した部分で最も大切なことは、与謝野夫妻への批判ではなく

「恐ろしいことは、自分も、よほど生命を見つめ、良心をとぎすませていなければ、時局の急迫につれて、無意識に与謝野寛にならなとも限らない。自分のペンで自分の生命をむしばみ、生命を断つようなことを知らずにやりかねないのだ」と小説の主人公、次郎が自分を厳しく戒めていることだと思う。

“”自分のペンで自分の生命をむしばみ、生命を断つようなことを知らずにやりかねないのだ。“”

という記述のペンを言葉の象徴というふうに考えれば、この記述は

“”自分の言葉で自分の生命をむしばみ、生命を断つようなことを知らずにやりかねない“”

と置き換えることができる。

要約すれば
「よほど生命を見つめ、良心をとぎすませていなければ、時局の急迫につれて、自分の言葉で自分の生命をむしばみ、生命を断つようなことを知らずにやりかねない」ということになる。

ここでいう生命を断つというのは文字通り死んでしまうということではなく、良心ある人間としての生命を断つという意味だと考えることができると僕は思う。

そう考えると、この芹沢光治良のこの記述はネットなど様々なメディアが発達し、誰もが気軽に言葉を発することができ、また、デジタル化を始めとした急速な時代の変革期にある今という時代にも全く通用する記述であるように思う。

そして、良心ということを常に意識するその考え方というのは本当に驚くほど真摯な気構えであるなと改めて感嘆する。

また、芹沢光治良のこれらの記述はイエスの次のような言葉を思い出させてくれる。

「およそ心からあふれることを口が語るものである。善い人は良い倉から良いものを取り出し、悪い人は悪い倉から悪いものを取り出す。

言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは自分の言葉によって義とされ、また自分の言葉によって罪あるものとされる」
※マタイによる福音書12章

話す言葉も、書く言葉も、同じことであると思う。

また、「与謝野寛という歌人はこれ(自爆した軍人を称える詩)によって、その全生涯の詩集を溝に投げ込んだことに気がつかないのであろうか」という芹沢光治良の記述があたっているかどうかはともかくとしても、私達は一つの誤りで生涯にわたって築いたきた信頼を失ってしまうというのはよくある話で、そういう意味ではこの記述も自分を戒めるための参考になるなと思う。




コロナの中での寒波到来

2020年12月15日 | 日記
僕はテレビを見ないせいか気象情報ということには疎くなっていた。しかし今日は街を歩くとマフラーを厚く巻いた女性が多いし自分自身もネックウォーマーを二重に装着した。

いやあ寒いなあと思った。先週、来週の月曜からは寒くなりますよと言っていた人がいたので、新聞の天気図を見るといわゆる西高東低の冬型気圧配置になっている。

予想最高気温も新聞を見ると全国のほとんどの地域で10度未満になっている、それは寒いはずだと思う。

真冬並みの寒さ。

そういう季節になりつつあるなと思う。

気象情報はよく当たるけれど、コロナに関する予想と言うかそういうのは当たらないなと思う。

というのも政府が勝負のコロナに対する勝負の3週間と位置づけた3週間が今週半ばで終わるのにコロナの感染は増えていると出ている。

コロナに関しては予想が不可能なのかもしれない。

いつまで続くのだろうと思ってしまう。

しかし、これだけ勝負の3週間とか言われても4月5月のように街から人影が消えないのは、やはりみんなもう自粛が限界に近くなっているせいなのだと思う。

電車が窓を開けて走りみんなが車内でマフラーを巻いて寒そうにしている姿を見るとちょっと悲愴な気持ちにもなる。

なぜか僕はこういうときに広大な音楽が聴きたい気分になった。

広大な音楽と言えば、僕にとってはベートーヴェンとブルックナー。

買っただけでほとんど聴かなかったカラヤン ベルリン・フィルのブルックナー交響曲第4番のCDをなぜかここ3日連続で聴いた。

カラヤンの演奏は最近の僕にはベートーヴェンもブルックナーもちょっと響きが分厚くもうるさいように聴こえる。

しかし、改めてブルックナーの交響曲第4番をカラヤンで聴いてみると、楽器の音色は美しいし、音楽全体の音響的な仕上がりは分厚くもなめらかに整っていて流石だなと思う。

きれいな響きでブルックナーを聴きたいときはカラヤンも悪くないなと思う。

ちょっとボリュームを控えめにして聴けばうるさいという感じも和らぐし。

ちょっと他に類を見ないと思えるほど音楽の流れがなめらかな部分もある。

カラヤンが仕上がりの美しい音楽を好むというのは、彼がショスタコーヴィチの交響曲で録音したものは第10番一曲のみで、しかもこれを2回録音しているというのが一つの象徴的な事実であるように僕は思う。

ショスタコーヴィチの15曲の交響曲の中で総合的に見て仕上がりが最も美しいと言うか充実しているのは10番だと僕は思うので、、、。

やはり自分自身の確固たる美意識を持ったすごい指揮者だったんだなと思う。

今年の漢字検定の組織が決める今年の漢字が密になったと新聞に出ている。

そういえば英語の辞書の会社が選んだ今年の単語もpandemic とか lockdownとかコロナ絡みのものばかりだったなと思う。

本当にコロナの一年もいよいよあとわずかだなと思う。

とっさの機転が身を救う

2020年12月14日 | 日記

数日前、ユニクロに行った。3階までエスカレーターで登ったら、エスカレータの上り口のそばにいた店員のお姉さんが、「はい。これ」と言って僕にあみあみのユニクロの買い物かごを差し出した。

僕は「まだ、まだ、これからいろいろ探すところやから」と言った。
お姉さんは「あっ。そうか」という感じで笑っていた。

僕の場合、僕は店員さんの顔を覚えていなくても、店員さんのほうが覚えていてくれるということが時々ある。

それで、一番嬉しかったことと言えば、会社をやめて一ヶ月くらい経ったときに、会社の人事課に今後のいろんな手続きのために必要な書類を取りに行った。

その帰りに、会社の近くのすき家に入ってカレーを注文した。

するとすき家のお姉さんが僕に「お久しぶりですね」と言ってくれた。

僕はそのお姉さんのことを全く覚えていなかったので、きっといつも会社の昼休みにすき家に行ってカレーを食べる僕のことを彼女は覚えていてくれて声をかけてくれたんだと思ってとても嬉しかった。

でも、まさか、「会社をやめて、今後必要な書類を取りに来たん出すよ」とは言えなかったので、「そうですね久しぶりですね」とだけ言った。

でも、あのときにこやかにすき家のお姉さんが声をかけてくれたことはきっとずっと忘れないと思う。

先日のユニクロのお姉さんも僕にかごを差し出す時のにこやかな顔つきが僕のことを覚えてくれているような感じの顔つきだったので、ひょっとしたらあのすき家のときと同じパターンで僕は覚えてないけど向こうが覚えてくれているというパターンだったのかもしれない。

僕は買うときも買わないときも、商品を割とじっくりと見るタイプだから無意識のうちにちょっと目立つという場合があるのかもしれない。

ユニクロは大概、商品のそばに、その商品を着用したモデルさんの写真とか、商品の着用イメージのイラストがあったりする。

僕は、ちょっとネックウォーマーが欲しくてネックウォーマーのそばにそういう商品の着用見本の写真やイラストがないか探したけれど見当たらない。

それで、さっきの買い物かごを差し出してくれたお姉さんに、「ネックウォーマーの商品の着用見本の写真かイラストはないですか」と尋ねた。

するとお姉さんはネックウォーマーが置いてある周辺をぐるりと探して「写真やイラストはちょっとないですね」といってそれから一瞬考えて、陳列してあったネックウォーマーを一つ取り出して近くのマネキンの首のところにそのネックウォーマーをつけて「こんな感じですよ。寒いときはこの紐をぐっと引っ張れば風が通りにくくなります」と言った。

「なるほど、そういう感じですね。わかりました」と僕は言った。

なかなかいい感じだったので一つ買ってしまった。

今年はコロナでマスクをしなければならないので、マスクにマフラー、それにニットの帽子だと、老眼鏡をかけたときや、音楽を聴くためにイヤホンをしたときにもういろいろとからまってしまったり、眼鏡が曇ってしまったりして大変。

ちょっとでもマフラーよりも手軽にしたいと思ったのがネックウォーマーを買った理由なのだけれど、もっと寒くなれば結局マフラーと言うことになるかもしれない。

でも、本当にコロナでいつもの年と違うことを考えなければならないのは出費にもなるし面倒でもあるなと思う。

しかし、概して男性は写真がないと「写真はありません」と言って終わる場合が多いけれど、女性は、写真がないならないで、ちょっとマネキンにそれをつけてみたり、そういう機転は男よりもきく場合が多いのでその点は得だなとは思う。

中には怖い女性もいるけれど、、、。

歌の練習をしようと思って、カラオケボックスに予約を入れていった。年末なので予約を入れたほうが確実と思った。

僕は地声が大きいので普通のボリュームの大きさにしていると、マイクの音よりもややもるすと地声のほうが大きくなってしまって何のためのカラオケかわからなくなってしまうことがある。

それでカラオケボックスではボリュームを基本設定値よりもかなり大きくする。

そうしないと、地声の大きさでぶっちぎって歌ってしまって喉を痛めてしまう。

それでカラオケ店の店員の方に迷惑をかけている可能性もあると思っているのでカラオケ店ではできるだけ低姿勢で店員の方に接するように努めている。

やはり店員の方に嫌われると行きにくくなるので、、、。

予約を入れていったところは基本設定値よりもちょっとボリュームを上げるだけでハウリングが起きた。

それでボリュームを基本設定値に下げて声を出すと、カラオケのスピーカーから出てくる声と僕の地声の大きさが変わらなくなってしまう。

まあ、なるべく小さいボリュームで工夫しようと思って基本設定値よりも1か2だけ大きい音量にしてももうハウリングが起きる。

部屋を変えてもらおうかと思ったけれどここのカラオケ店はバイトの入れ替わりが激しい店でしかも学生バイトの比率が高いので、下手にクレームを入れるとクレーム対応がしっかりできるスタッフがいなくてやぶへびになることも十分にあり得ると思った。

大体、都会のど真ん中にあるのに値段が安いので高校生に人気のある店なので、、、。

スタッフもそれほどハウリングのチェックに時間を割いていない可能性が十分にある。

今はコロナで消毒などしなければならないことがいっぱいあるし。

経営者もきっと設備投資の費用を抑えて廉価で利益をあげようという経営方針だろうし、、、。

僕も58年生きてきているのでそういうのはだいたい感覚でわかる。

ここのスタッフがいくら努力しても経営者が設備投資を抑えているところまではバイトの子ではカバーしきれない。

バイトの子に怒りをぶつけてもそれはお門違いと割り切って、フリータイムの料金を払うという念書に受付のときにサインしたのでもうその料金を黙って払うつもりで30分くらいでその店に見切りをつけた。

ハウリングのする機器で歌っても無駄に疲れるだけだ。

何も言わずに、「歌の練習終わりました」と僕は受付で言ってフリータイムの料金を払おうとしたら、バイトの女の子がフリータイムですけれど30分くらいしか利用しておられませんのでとうことで、フリータイムの料金は支払うと念書に受付の時サインしたのにその場の機転で料金を所定の料金の4割引きくらいにしてくれた。

そしてその金額を僕が支払おうとしたら、またちょっと女の子は考えて、「いや、まだ30分も経過していませんので」と言ってさらに所定の金額の7割引きくらいにしてくれた。

さらに「年末年始のお得意様用の割引券はお持ちですよね」と声をかけてくれた。

「はい、それは持っています」と僕は言った。

もう僕の方はここへは二度とこないかもしれないという覚悟でフリータイムで入って30分も経過していないのにもかかわらず所定の料金を支払おうとしているのに、やっぱりこういう時の女性のとっさの判断はちょっと違うなと思う。

もちろん、僕は記憶力がいいのでフリータイムの料金を支払って、後で実際にどういうことが起きたのか消費者センターに報告して相談したりしたらひょっとしたら困るのは店の担当者の人かもしれないとも思うけれど、、、。


しかし、こういう言葉をかけてもらえるとフリータイムでは二度と行かないもしれないけれど30分とか1時間未満くらいの細切れ時間のときなら、また行ってもいいかなと思えてきたりする。

あるいは機器の音質は特に気にならない気分のときとか、、、。

今の時代、バイトの子はほとんど権限を持たされていなくて、あくまで経営者が決めたマニュアル通りにやらなければならない場合が多いのでこういう機転をきかせるのはバイトの子もきっと勇気がいったと思う。

本当に、ありがたいことだなと思う。