ケンのブログ

日々の雑感や日記

名古屋フィルハーモニーの定期演奏会を聴きに行く(第524回)

2024年06月16日 | 音楽
6月15日 愛知県芸術劇場コンサートホールに名古屋フィル第524回定期演奏会を聴きに行く。

指揮は川瀬賢太郎さん

最初に演奏されたのはコダーイの「ハーリヤーノシュ」

録音 生演奏通じて初めて聴く曲なので印象と言ってもよくわからないけれど、全曲を通じて木管が転がるように進むところはなんとなくラヴェルの管弦楽曲を連想することが多かった。

特に曲調が速くなって盛り上がっていくような場面ではラヴェルのピアノ協奏曲ト長調の一楽章や三楽章終盤の盛り上がりを連想しながら演奏を聴いている自分がいた。

僕が20世紀前半の音楽を聴いてしばしばラヴェルを連想するのは、たぶん自分が20才代のころまでに比較的よく聴いていた管弦楽曲はほとんどラヴェルのものが多かったということに起因しているような気がする。

やはり、若いときに得た印象が心の中に物事を感じる時の基準として残るのだなと思う。

次に演奏されたのが
ハイドンの交響曲第45番ヘ短調 告別

小学生のころ初めて買ったハイドンのレコードがアンタルドラティ指揮 ロンドン交響楽団の演奏で ハイドンの交響曲第100番がA面で45番がB面だったという僕にとっては思い出の曲。

でも 演奏前にステージを見渡してみて この曲の管楽器はオーボエとホルンそしてファゴットというちょっと僕にとっては珍しいと思えるような楽器編成だと気づいた。

第一楽章はフレーズごとに強く入ったり弱く入ったりのコントラストがとてもはっきり出ていて、その呼吸がとてもスリリングだったことがとても印象的だった。

演奏の呼吸がスリリングだったことと 会場の空調がこの曲のころから寒くなってきたことが重なって 体に力が入りすぎて こわばったようになってしまったことも印象に残ったことの一つだった。
もう一つ 第一楽章の最後はスッと抜くような感じの終わり方で何回も聴いているのに 「あっ 終わったんか」と思えるようなちょっと拍子抜け感があったことも印象的だった。

たぶん、こういう終わり方は指揮者の川瀬賢太郎さんが好まれるところなのだと思う。

ハイドンの交響曲はたくさんあるので第何番かは忘れてしまったけれど 大阪のシンフォニーホールで川瀬さんの指揮するハイドンを聴いた時も同じような印象を持ったことがある。

第二楽章は本当に弦楽合奏に管楽器が色を添える趣だなということを生演奏を聴いて初めて感じた。

やはり録音を何度聴いていても生演奏は違うなと思った。

三楽章を経て第四楽章でまた音がスリリングに動くさまを感じたとき たまたまコンサートマスターの方に視線が行って 「ああ 第一楽章で強弱の出し入れがとてもスリリングだったのはこのコンサートマスターのリードによるところがきっと大きいんだろうな」と感じた一瞬があった。

その感じ方が正しいかどうかはともかくとして、そういう印象を持つことができるのも、コンサートならではの感動だなと思う。

おなじみの オーケストラの奏者が一人消え 二人消え 最後はバイオリン二人で曲が終わるという場面に接した時に 「ハイドンの音楽はエンタテイメントの中に真心と真実があるんだな」と思って 胸になにかこみあげてきて ちょっと泣いてしまった。


20分の休憩をはさんで次に演奏されたのは
モーツァルトのフィガロの結婚序曲 僕は個人的に この曲はオーケストラ曲の中で演奏至難の曲だと思っているので 多くを期待してはいけないと最初から思って聴いていたのだけれど とてもいい演奏だった。

演奏もさることながら ステージを見るとハイドンのときよりも多くの管楽器が並んでいるのでそれも見どころの一つだった。

最後にリヒャルトシュトラウスの「ばらの騎士」演奏会用組曲が演奏された。

この曲はワルツが結構長いのだけれど もう ほとんどというか まったくウインナワルツだなと思ってその気分に身をゆだねていた。

弦楽器が濃厚に響くような場面では同じリヒャルトシュトラウスの英雄の生涯を連想したり あちこち 頭が飛ぶような状態で演奏を聴いていた。

さて、この演奏会で 僕の席は 自動車のナンバープレートでほしがる人が多いような番号の組み合わせなのだけれど その席に 僕がたどり着いた瞬間に まだホールのバイトを始めて間もないという感じの女の子が「お席ご案内しましょうか」と僕に聴いてくれて、「いやあ いまちょうど席にたどりつきました」と言ったら軽い笑いになって、それも印象深い出来事だった。

演奏会が終わって外に出ても まだ 外は明るくて 夏至も近いなと思う。

それはともかく いちにち いちにち 無事過ごせますように それを第一に願っていきたい。