霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

「今どきの・・・」

2013年06月30日 | 心霊現象
こう書いたら、次はもう「若者は」と続くだろうと思われてしまいますよね。
「当たり!」です。でも半分だけ。みんながそうだとは限らないでしょうから値引き?しておきます。
一つは「失礼!」の極みであり、もう一つは「危険」が伴った、という話です。
『くそ婆ぁ!』。それを聞いた時、女性がいくつになったら許せるようになる「言葉」でしょうねぇ。
永遠?。そう、永遠に許せない!と言ってはみても、自他ともに認める「婆ぁ」になったら・・・。いずれ皆様も、自分がそう呼ばれてみたら分かりますよ。
今日はそんな話をば・・・。


板橋区の徳丸。一時私はそんなところに住んでいた。
赤羽までのバイパスが出来るということで、道路が立体し、少しの距離がトンネルになっていた。
そのトンネルを、土地の中学生と思しき者たちが、10名ちかく自転車に乗って幅いっぱいに並んで向こうから来る。
当然道を開けてくれるものと思い、私はそのまま歩いていった。私は一人だ。
しかし、誰一人端によろうとする者はいない。急ブレーキをかけて自転車は目の前に止まる。
「おばさん!なんだよぅ!」。「避(よ)けるのは、そちらのほうでは?」と、私。
「人数からいっても、普通そっちがよけるよ、なぁみんな!」。
「あなた達、学校ではそう教わっているの?。どこの学校?。校長先生は誰?」ここまでは穏やかな口調で聞く私である。学校では道いっぱいに塞ぎ、人数の多い方がのかなくていい、と教えているのか・・・。
「近くの徳丸第中学でしょ。校長先生ちょっとした知り合いでねぇ。今行ってきてもいいんだけどさぁ・・」。(さあ、どうする?)
一瞬頭に血がのぼったのが覚めると、すぐさまニュースの一つが思い出されてきた。
ご老体が早朝、出会いがしらの若者を「注意」したら、いきなり刃物で刺されたというものだった。
一対一でも状況によったら、刃物が出てくる。それなのに「今」は多勢にむぜいだ。
そんな事件があちこちで聞かれて後は、周りの人間はあまり「注意」をしなくなったという社会現象さえ生んでいた。そんな時、よりによって「中学生相手に・・・」。
運が尽きればそれまでである。きゃぁ~、といって逃げてももう遅いし、様(さま)にならない。
「大人の沽券(こけん)」のため、命を賭けることになる。(大袈裟に言えば)
「道開けてくれるよね・・・」という私の言葉に、リーダーらしき子が、下っ端の子に「○○、そこのけよ!」と言って道が開いた。「ありがとさん!」そういってすたこらさっさと家に帰ってきた。
このトンネルを過ぎれば、そこが私の下宿だったから。
その後びっくり。トンネルの中で10人の男子中学生が、ありったけの声でこう言った。
『この、くそ婆ぁ~!』。その声はトンネル内で反響し、すごい声となって私の後方で爆発した。
私、その時はまだ30歳後半の頃。「婆ぁと呼ばれる歳じゃない!」。
しかし後で知るが、いまどきの中学生は、もう二十歳をすぎた女性はみんな「婆ぁ」になるそうだと・・・。
ま、命があったんだから、よしとして・・・。

次の話はね。
久しぶりの「おめかし」をして、山手線に乗ろうと駅に向かってあるいていたのよ~。
自分でもね、少し若作りしちゃったかなぁと思ったけど、「ブランド」に身をかためるとなると、これくらいのファッションは東京じゃ、普通よね。そう自分に言い聞かせて自信をもって胸をはって歩いていたのよ。
路地を曲がるともう駅になる。久しぶりのハイヒール。転ばないようにと注意しながら歩いたりしてね。
ふふふ、心もウキウキして、不思議なものねぇ・・・。森英恵のワンピースだったかしら?・・・。
気が付くと後方から急ぎ足で歩いてくる者がいる。それも一人じゃない。バッグを両手で抱えるようにして脇へ寄り、少し歩くのをやめて、行きすぎるのを待ってね。
若い学生風の男性が二人だった。わたしは後から行った方が安心だと思って、歩き始めたのよ。
そしたらひょい「その二人」が振り返って、わたしを見るやいなや「こう」よ~。
「なーんだ、婆ぁじゃねぇかよ~」だって!。失礼しちゃうじゃない!


こちらの「婆ぁ」(失礼)は、前にブログで書いた「あの割烹のおかみ」。
その当時は68歳前後だったから、失礼しちゃうと言ってもねぇ。(婆ぁなんだから・・・)
でも心のどこかでは、まんざらでもないでしょ。きっと二人の男性は「若くてきれいなお嬢さん」と思ったか
さもなければ二人で「どっちか、賭けをした」か?。賭けられただけいいじゃないの。
でもね、すぐその場で言ってはいけませんなぁ、「なんだ!婆ぁじゃねぇか~」なんて!・・・。


特にこの学生さん?。
あなたがたは、大損しましたねぇ。この女将さんはね、太っ腹。
怒らせるより、ちょっとひねってね『すみません。今後ろからついてきて、二人で賭けをしたんですよ。
俺は二十五歳以下。こっちのヤツはね学生だって。はずれたみたいだけど、後ろ姿はそれくらい若い!』
とでも言ったら、コーヒーの一杯くらいおごっちゃう「おかみ」でしたねぇ。
後でそんな事を言いましたら、「あなたも少しは分かってきたようねぇ。このわたしと業界がね」ですと。
心がみえみえでも憎めない。これはトンチでも上手でもなく、知恵や粋(いき)の部類に入るのでは?・・。

右をみても左をみても、これから増々年寄が増えるんです。
婆ぁを婆ぁと言ったら、それでおしまい。あとにはなーんにも残らないでしょ。
むしろ「悪ガキ」が増えて!と後味の悪い思いだけが残ります。
そんな私も背筋を伸ばし、スタスタと歩いているつもりでも、電車に乗れば「席」を譲られてしまいます。
内心「えっ」と思う反面、「いい子だねぇ」とも思う。
「ありがとさん!」って、にっこり微笑んで感謝して譲ってもらっています、今はね。


歳は取ります。悪いことでは決してありませんが、どう歳をとるかではないでしょうかねぇ。
「いまどきの・・・」と続く言葉が文句ではなくて、批判ではなくて、「ありがたいねぇ」で結べたら、私の晩年もめでたいことです。もう少し自分を磨いて、「目出度さ」を沢山体験したいものです。
世の中が、言葉一つでギスギスしてしまう昨今、言葉で温かくなったり、嬉しくなったり、ほっこりしたり、
そう、これも「無財の七施」の一つです。
笑顔もそうです。お金を使わずに、人を幸せにすることが出来るなんて。
それが例え、ほんの一瞬でもいい「一期一会」の忘れられない「いい思い出」になったら、あなたは永遠に人から「忘れられない人」になるでしょう。
「無罪の七施」には婆ぁも爺ぃも関係ないのですから~。
「おわけぇの(お若ぇの)も、がんばっておくんなさいまし~」。



何事も起こらない日々(ニュースがない日)?

2013年06月29日 | 心霊現象
「氷川丸の先生」が、ニュースを見ている私に向かって、こう言われる。
『面白い?』と。 どんな意味で面白いかと問うのか?・・・私は「はい」と答える。
ニュース自体が、「良い事」よりも「人の不幸」を伝えている方が多いと、きっと知ってのことだ。
「はい」と答えた私の返事には、きっと「人の不幸が面白い」という意味にとれた可能性がある。
「先生は見たくないんですか?」と私は聞いてみた。
「だって、面白くないんだもの・・・」。これが答えだった。
世間の事にはとんと興味もないし、面白みも感じない。関係ないわぁ、とも受け取れる。
「年金が減るかもしれないし、電気料金はもう上がったし、今年の夏は猛暑となれば水だって足りなくなる。大変でしょ?」と反論しても、『そんなことないでしょう?』と言い切って終わりである。
国際情勢のニュースが耳に入っても、どこ吹く風。
『日本人は強いはずですから~』で終わる。
まあ、忘れたいことが多かった時代であれば、その思いは分からないでもない。
「人の不幸」や「国の不幸」は、見たくも聞きたくもないのかもしれない。

考えてみれば、何事か起こるからニュースになる。何事も起こらなければ、ニュースにはならない。
ニュースの時間に、「今日はニュースがありません。これがニュースです」などと言ったら、笑い話になってしまう。
今日も何かが起こって、それを知って明日に繋げ、安心してあるいは不安の中で休む。
世間が狭くなり、全てに疎くなっていく高齢者の生活は、ニュースを見て情報を得ることで世間とつながり、今の自分の立ち位置を確認して、今日を終わろうとする。そんな心理状況の中で生きている。
だから、「ニュースを見ること」や、「知ること」は欠かせない。
いわば、あたりまえの生活である。ただ幸か不幸か、そのニュースの中に自分が「登場」しなかっただけの話である。
考えてみれば、「無くてすめば、こんなにいい事はない」という職業もある。
しかしそんな想いを「あざ笑う」かのように、「その職業」は日夜フル回転しているという有様だ。
この世に犯罪がなければ・・・、国際情勢も安泰ならば・・・、自然災害もなければ・・・。
しかしニュースの無い日は、ない。


わたしたちは時あるごとに、「一寸先は闇」と言って自分を戒めている。
しかし『一寸さきはヤミがいい』といった人がいるとか・・・。
亡くなった山本夏彦さんの本が、同じ題で出版されているらしい。(新潮社)
「さすがに人生をよく知った人のいうことだ」とは、「養老氏」の言葉だ。(ほんとうに、そうなんですかねぇ)

人間の思考の中には、「こうすれば、こうなる」という思いがまずある。
それを学ぶのも勉強であり、常識であり、学校や会社やサークルや家庭から影響もうける。
その結果、「こうすればこうなる」という定義が崩れることを知る。つまり「こうしても、こうならない」という事実を知る。なぜだ!
世の中が「単純」から「複雑怪奇」になった、と申し上げればことはすむかもしれない。
実際生きてみなければ、「人生」なんてわからない、となる。ある意味真理である。
しかし、それは「自分の生き様」であって、「人の生きる道」をいったわけではない。
先を見通せる目がもしあるとして、その目で見れば、常に二つの道が見えてくる。そして二者択一を迫られる。その連続が人生だと言ってもおかしくないだろう。

いままで「あみだくじ」なるものをやったことがない、という人はめずらしいだろう。
あれは先が見えないまま「自分の先」に「しるし(印)」をつけるようなものである。
開けてびっくり。だれもが「良いこと」を思いに抱いて、選ぶものである。
決して「人」が介在できないもの、として「くじ引き」があり、ことあるごとに「公平」や「文句のつけようがない」代名詞として使われてきたらしい。
聖書でも出てくる場面。
「ユダ」の裏切りのあと、その抜けたユダの代わりに誰を選ぶか・・・。
くじ引きをして選んだとある。それが「マッテヤ」であった。
どこかで聞いたことだが、神様でさえ「くじ引き」には介在されない・・・と。(?)


ニュースのトップが、「国難」に関わることは出来ることならば「ご勘弁」願いたい。
さらに「火山噴火」や「大地震」、竜巻や台風など、難を避けたい気持ちは誰も同じである。
しかし所詮それは、この世の出来事であり、目で見える世界でのこと。
もう一つある世界。目に見えない「あの世」の事情はいかばかりか・・・。燃えたぎる心(魂)が、
そろそろ「沸騰点」に達しているころではないかと、心配である。
それが、「こうすれば、こうなる」はずのことを覆し、「こうしても、こうならない」一番の原因であると申し上げてきた。
人が生きる日常のニュースの中にこそ、「その投影」が見え隠れするがゆえに、アンテナを高く張り、世の動きを見落とすことなく、「あの世」が「わたし」に教えようとする「かすかな声」と「わずかな知恵」を確実に受け取りたいと思うのである。

ニュースは人が存在する限り、無くなりはしません。
ただ、その中身が変わるでしょうね。
戦争や災害や病気や、人の殺傷ごとなどから解放され、今までに考えたことも、見たこともない希望と喜びのニュースが、日々流され、瞬時に世界が反応し、人類が繋がっていることを、つまり「運命共同体」であることを身を持って知り、喜び合う世界・・・、それを告げるニュースで朝から深夜まで報道され続ける・・・。


世界の大陸を全部「ハイウェー」で繋ぎ、食糧供給は一日で成る。
すべては「地球規模」で行われるゆえに、どこに住もうと、報道されるそのニュースは、「わたし」に直接関係するニュースとなる。
と、こんな構想を聞いたことがあります。
「夢のような」という言葉がありますが、その実現、つまり具現化されたものを是非「この目」で見たいと思いませんか!。
その「青写真」は、すでに霊界では出来上がっていますから、もうすぐ?(人の心次第です)地上に降りてくるでしょう。
そんなニュースの、あふれんばかりの数々を、生きて見たいものだといつも思っています。

こんなニュース、見たくもない!、という日から、こんなニュースなら、いつまででも見ていたい!
と、移り変わっていく日を夢見ています。

「氷川丸の先生」と私が二人で乾杯する日。つまり、この世の見たくもないニュースが無くなる日。
二人はいつでも「その用意」があります~。

あの世からみた「エゴイスト」

2013年06月28日 | 心霊現象
富士山の入山料が、とりあえず「1000円」と決められたそうですね。
しかし、それもこの夏休みの終わるころをメドに、またしっかりと精査して決めるとか・・・。
富士登山にお金がかかるなんて、ここしばらくの間無料に慣れた日本人は、「えっ!」と思いますよね。
TV番組では、「いくらが妥当か」と面白く話を引き出していましたが、結局はこれからの話です。
江戸時代では、一人「122文(もん)」払って入山したらしい。
これが高いのか安いのかは、ちょっと分かりずらいですが・・・。
中には一人「二万円」とも、「七千円」とも言われています。「高い!」と思わずうなる我々も、今までが「タダ」という慣れからみれば、たとえ1000円でも高く感じるでしょうね。
その入山料の金額には、本音の部分も見え隠れするようで・・・。
あんまり沢山の人から登ってほしくないし、さりとて激減しては「町おこし」もできない。
丁度いい人数が登ってくれる「金額」が、これから提示されるのでしょう。(さあ、いったいいくらになるか?)
人が多ければ「ごみの山」が出来る。しかし人が来なければ「土産屋がもうからない」。
とかくこの世は~・・・、といったところですね。


今日のタイトル。これも「エゴ」からくる「富士山のゴミ」と関係しますが、「この世」はそれらの関係者におまかせし、「あの世」からみた「エゴイスト」についてお話を少々。
あの世から見た、と断りを入れたのには理由があります。
あの世とは「見た目」、つまり人が目で見た限りでは「エゴ」とは見えないが、内面つまり心の奥を覗くとき、それが間違いなく「エゴ」になるというもの。
私が過去に聞いた話です。
その最たるものが「クリスチャン」。最もエゴイストなのは、クリスチャンだ!というのです。
「えっ!」って、絶句しました。
その教えを今、あなたは私に教授しているのですよ~。分かって言っているんですかぁ~。
・・・、と思いました。しげしげ「そのお顔」を見ました。
ウインクこそしなかったが、「そうなのよ~」と頷くだけでした。
それも一瞬の間だけ。次には怖い、実に厳しい目つきに変わっていました。
私は背筋が寒くなると同時に、その背筋を伸ばし、これから始まる「話」に耳を傾けました。


「自分が天国へ行く」。決して悪いことではない。
しかし、「自分だけが天国へ行く」。心のどこかで、特権階級を意識した「エゴ」がのぞいていはしないか?。
「わたしは救われた」。しかし「あなたは罪人なのよ。救われていない人ね」。
このような「自己中心者」が「たむろ」するところが、ほんとうに「天国」だと思うか?・・・。
「神」の嘆き、悲しみが分かりますか?、とその講師は問う。
霊界からみれば、すぐに見破られる「その信仰」とやらは、「エゴ」と重なり合った醜いものだと言い切る。
「おっかない先生だこと。でも真実だなぁ」と私は思いながら、観念的な信仰や救いや、クリスチャンの呼び名を今一度胸の奥で反復したものだ。

あるキリスト教会での事だ。
めったに聞けない「偉い先生の説教」ということで、日曜礼拝は部屋に入りきれない人が集まった。
前方の人は座り、中ころから後方は椅子、さらに後ろは立ち席となった。
開場と同時に「わっ」となだれ込む人達。前方をめざして走る。私も走った。
途中、私は誰かの足蹴りにあい、あっけなく尻もちをつくハメに。
体の痛さもさることながら、なぜか「心」が痛かった。(わざとしたんじゃない、きっと。この人達はなんたって、クリスチャンだもの・・・)。自分に言い聞かせながら、後方で話を聞くことになった。
話は有意義なものではあった。
が、私は帰りの道々「神」に聞いた。
「天国は、他人よりも先に、奪うものですか?」そして「救いとは、一位になるほど褒められることですか?」と。


憤懣(ふんまん)やるかたない私の心に、神が答えるはずもない。が、時遅くして「答えられた神」を発見するのである。
「そうか、エゴイストかぁ」そして「クリスチャンはエゴイスト!」かぁ・・・。
「そうはなるな!」と神は教えているのだ。
もちろん全部が全部そうだとはいわない。
しかし「彼らのにおい」というのがある。どんな「におい」か?
私が一番最初に嗅いだ「クリスチャン」の放つ臭い。申し訳ないが「匂い」ではない「臭い」だ。
それが、私を玄関から入らせなくしていた、と今にして思う。
思い出してはいつも笑う。あんたは「オーメン」か?と。
教会も、鐘の音も、讃美歌も、キリストもみーんな虫酸(むしず)が走り、吐き気がするという「オーメン」つまり「サタン」の申し子みたいな者。私はそれほどの「悪の大物」ではないが、「その気」に怯えた。
なんだろう・・・。映画「エクソシスト」は二度見たが、違う意味で吐き気さえして止めにした。

その教団の気配。この世に400派に分かれているとさえ言われる「キリスト教」。
その一つ一つの教えに「気配」が漂う。その中で一番「神」に近いものは「どこ」か・・・。
それが一つの命題になる。教えは一つなのに、なぜここまで別れたか?。
それだけで、もはや「信ずるに値しないもの」であると、性急ものの私は値踏みしょうとする。
それを一致させる?、いやはや難儀なことだ。
きっと、多分、高邁な精神と「教え」がない限り無理であろうが、もしこの難行が果たせたら、今世紀最大の偉業といわざるをえない。
「イエス」が言う「わたしはまた来る」とは、それを指さなければおかしい。


このブログが終わる時、私は幾重にもお詫びをする。
「イエス」と呼び捨てでいつも書く、この「無礼」をである。
「キリスト教」をこきおろす「無礼」をである。
そうだ、エゴイストは、私でもある。


『それでも、来るか?』・・・、という神の声が聞こえる。








「桜の木」受難のとき

2013年06月27日 | 心霊現象
富士山が「世界遺産」に登録されてから、富士山を画面で見ない日がなくなりました。
喜ばしいことですから、その美しさがニュースになるのは歓迎です。
へたをすれば、「爆発」のニュースで騒がれる可能性もゼロではない「いわくつき?」の山なのですから~。
それにこの度は、「美保の松原」も一緒に入れての決定。泣いて喜んでいた「旅館のおかみさん」の顔も忘れられません。一緒に世界遺産にしたいくらいです。(おかみさん付きで世界遺産って、どうでしょう)
銭湯の「絵師」も、これからもっと絵を描かせてもらえれば一挙両得と満願の笑みでした。
富士には松原がつきもの。一体なのですね。日本にとってはめでたしめでたしでしょう。


その一方で、富士山の写真を撮るのに「邪魔」になると、ある場所で「しだれ桜」の木の先っぽを「ちょん切った」輩(やから)が出現。30メートルある木、それも「しだれ桜」。そのさきっぽがすっかり切られて無い!。写真撮影をする「その人」にとっては、富士山以外は、邪魔なんでしょうねぇ。
もしかして「そのしだれ桜」が、絶妙な場所にあって、富士山をさらに引き立てていたとしたら・・・。
彼らは絶対に切らなかったでしょう。

さらにニュースになった「桜の木」の受難。
京都・宇治での話。
宇治市にある「宇治公園」。知らないうちに100本の桜の木が根こそぎなくなった。
川べりにある桜の名所でもある。全部で350本あった桜が、100本はすでに切られ、これからも100本は切る予定とか・・・。
「いったい誰がやった?誰が決めた?」と怒り心頭の市側。そんなことってありますか?
犯人?は「国土交通省」。国の決めた「護岸工事」のためだから、市には断らなくっていい、だって。
市の職員も「マメ鉄砲くらったハト」みたいな顔をして、市民の抗議に四苦八苦しているという有様だ。

「宇治世界遺産を守る会」という人が泣きださんばかりの顔で、怒りで震えていた。
市民に相談もなしで、よくまあ「あの名所の桜」を100本も切ったものだ!(いくら事務的、お役所仕事でも、名所の桜を根こそぎなくすか!!・・・、と)
さすが、お役人の言い分。自治会長さんとか、川の周りの住人の方には説明をし、同意を得ていると・・・。

本当に「同意」したんですかねぇ。それにしても「宇治市」が知らなかったでは話になりませんなぁ~。
謎ですね。 ただね、こうして「邪魔」だとばかりにドンドン「桜の木」を切っていく日本人になってしまったのを聞くとね、桜が泣き泣き日本人と「さよなら」をする時期を、悟ったのではないかと。
日本から「桜」が無くなる日を思い浮かべてみてください。
そのうちに、外国の人から「桜を見にいらっしゃい!日本の人大歓迎!」なんて観光案内される日がきますから・・・。
桜並木が「有名」になるまでに費やされる「時間」や「労力」は、計算できません。
そうでなくても「桜が大好きな虫」にやられたら、またふりだしに戻るわけですから。


日本人がこよなく愛した「桜」を詠んだ歌。
歴史は古い。実に日本が生まれた時からあったような気さえしてきます。
あの木はいつ、だれが、どのようにして植えたのでしょうね。
もし、日本列島という地にいた原住民が「あった」ものを大切にしていたものだとしたら、「あとから着た
異邦人である」わたしたちは、ここに住む資格を失うハメに、いずれなるでしょう。
ましてや、八百万の神の時代、すでにあったとしたら、神の木でもある。
勝手気ままに「神の木」、それも列島民族に最もふさわしい「心の象徴としての木」として神が与えた「その木」を切って捨てようという民族は、いずれそのしっぺがえしを受けるでしょうね。

一回あることは二度あるんです。そして二度あることは「ほら!」三度あったでしょ。
たとえ小さな出来事でも、こと「桜の木」を切ることは、特別中の特別なのです。
その証拠に、誰も「あーあ、よかった」って思わないでしょう。
「なんて事だ!」「なにやってんだよぅ!」「けしからん!」と思う人のほうが絶対に多いはず。


♪ 若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨(いかり)

そう歌いながら逝った若者の魂は、何を思って今をみつめているでしょうか・・・。(古い話ですねぇ)
あっ、なるほど。「七つボタンは桜に怒り」だと。
何のことか分からない方のために。 第二次大戦に駆り出された若い兵隊さんのことです。
彼らがよせた心のシンボルが「大和魂」であり、「桜ばな」だったということでもわかるように、いわば「桜」は日本のシンボルだったのです。今でも「国花」は桜でしょう。
蛇足ながら・・・。
桜の開花を告げる気象予報士の足が向くところ。
東京は靖国神社の「そめいよしの」の樹なのです。

「ガン」を宣告されて余命いくばくもない人。
その人がたった一つ心残りがあるとすれば、「来年の桜」が見れない・・・、という事だと聞いたことがある。
今は「その句」が頭に浮かんでこないが、「西行」が詠んだ歌に「この桜の木の下で死にたいものだ」という
のがある。
そこまでの「思い入れ」がある西行もうらやましい限りであるが、心乏しい私には、「その桜の木」の下で死にたいと思う木もなければ、その気にさせる他の木にさえ、出会わない。
そういって自然、とくに樹木を見たときに、「そこ」を「死に場所」と見初める人の心のDNAは、きっと今も日本人に宿っているはずだと信じたい。

現代になって「樹木葬」というのが出現してきた。
営利抜きで見たとき、「西行」のように自分の愛(め)でる木に会って、「ここがいい!」と自由に決められたら、死に場所もさぞかし華やぎ、風流の極みであるかもしれない。
それこそ国土交通省の出番である。それも「待った!」と。


桜の木が切られて、どれほど「さびしい」か・・・。
体験した者が一番強烈なショックを受けるのは、私も経験ずみですからよく分かります。
なぜにこんなにも深く、人の心に影響力のある「花」であり、「木」なのでしょうね。
人が変わっていくといいますが、本当に段々と人が変わっていき、そして「日本」も変わっていくのでしょうか。
いい方へ変わっていくことを祈りながら、桜だけは残してください!と、心から祈ります・・・。




「汝のすべきことを成せ!」

2013年06月23日 | 心霊現象
この「言葉」は、あのナイチンゲールが16歳の時に聞いた「神の声」だったそうである。
ある時期がくれば、私達も同じように神の声が聞こえ、一生の方向性が決まるか、といえば答えは否である。
神の声を日々求め、祈りながら「その時を待つ」者でさえ、聞こえるとは限らない。
ましてや何も求めず、祈りさえしなかった者に「その声」が聞こえるわけがない。

と、まあ最初から厳しいことを書いてしまいました。
随分前に書いた「ある青年が賜った言葉」。
霊能者O氏を通してではありましたが、確かに神が「そう」答えられたという言葉。(信じればの話ではあるが・・・)

謎めいて、さらに暗示的でもあり「あとは、自分で解きなさい!」と言わんばかりの言葉。
案外「啓示」などといわれているもの?は、そんなことが多いと知る。
なぜ?。それだけ言えば、本人(当事者)には、充分解るということでもあり、日ごろの祈りの内面の焦点がぼけることは、あり得ない。だから祈りという条件に対しての「回答」として、啓示あるいは暗示は「その人」のみのものとして、与えられる。これが「我」、「祈り」、「神」を繋ぎ得る鉄則でありましょう。
それは決して、「この世的」な御利益を目的としたものではないという断りをいたします。


ある一人の青年が、次のように「神の言葉」を受けた。(O氏を通してではあるが)

 『若くして汝の造り主、神を識(し)ることは、親(神)も喜び、子も幸せ。人道正しい人として賢い判断
  だ。喜ぶ、喜べ。青年の体に神宿す。先ず己の個性真理体、天性、天稟(てんぴん・生まれつき天より
  授かっている他人に無いほどのよい秀でたところ)、自ら探し求め、掘り起し、磨け。
  日々祈りをもって神人一体の心持で努力せよ。信じて進め。心身神のみに託せ。
  サタンの誘惑に負けて、二心持つな。
  イエスの祈りと、三代試練を身を持って学び、身に付けよ』


さて、彼はこの「言葉」が理解できたのだろうか?・・・。
これをお読みになった「みなさま」は、何をどうすれば「彼」は良かったのか、たとえ人事でも分かりますか?。
そしてそっくり「この「言葉」が自分に向けて飛んできたら、「はい、そうします」と答えるでしょうか?。

ある意味で、「神の言葉」あるいは「啓示」を受けるということは、怖く、恐ろしいことでもあります。
なぜ?・・・反対する余地がないんですから~。
絶対(神)の前に、「でも~・・・」は、ない!。
こうして「個性」を捜し、最も的確な自分を見つけ出して、『汝のすべきこと』に命を使う。
その間に、つまり自分探しの最中、必ず「サタンの誘惑(試練)」に会うから、よくよく気を付けよ!とまで
転ばぬ先の杖を渡す「親心」がある。


人には聞こえて、「わたし」には聞こえない「神の声」。
なにも嘆くことではない。本当に聞きたいと「せがんだこと」が無かったからだ。
その前に神に聞くなど、そんな日常生活ではなかったことが「その」証明である。
自分の個性を、天稟を誰に聞くか?・・・、他人に聞いてそれを答えに出来るほど「人」はいいかげんには造られてはいまい。
造り主に聞く。これが妥当な行為である。(生みの親でないことは、お分かりかと)

話をもどせば、ナイチンゲールが看護に身を捧げようとした事を、最も反対したのは両親だった。
上流家庭に生まれた「彼女」が、当時最も下級な仕事の一つであった「看護」に身を置くなど親も世間も認めるはずはなかった。しかし、結果彼女は両親や世間の反対を押して、看護に身を投じ、「クリミヤ戦争」からその行動を出発させた。
神が彼女に与えた言葉は、「看護に身を投ぜよ!」ではなかった。
『汝のすべきことを成せ!』であった。


いずれ「わたしたち」にも「言葉」がくる。
その時「その言葉」が何を現すか、何を承認されたのかは、この世でたった一人「自分」のそれも、「自分の魂」しか分からないという事である。
こうして生きた「人生」が終わった時、初めて喜びや満足に満たされる、ということでもある。
「自分を探す旅」、その途中にどんな試練や落とし穴があるか・・・。
それを「イエスの三大試練」に学べと、親なる神が教え諭す。

さてさて、生まれたことも大変であれば、生きる事も大変である。その結果「死ぬこと」も大変となれば・・・、「人」は大変の中でもがくしかない。これが自分を知らない人生であり、行く先は「地獄」という。
その門番を、この「わたくしめ」が自己人事したとはいえ、拝命してここにいる、と思召せ。
(決して神が、それをやれ、とは言っていません)
さあ、みなさまにこれだけはお願いいたします。
今この瞬間から「旅立ち」の支度をば、・・・。

自分は何者だったのか~。
どこから来て、どこへ行こうとしているのか~。
これをみんなお分かりになる、その日のために、私も日々を重ね、うで(霊力?)を磨いてお待ちもうして
おります・・・。

まるで「謎かけ」のような、今日の内容。そうです、なぞなぞでした。
この「謎」、是非解いていただいて、またお目にかかりましょう・・・。