霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

大晦日の禊(みそぎ)

2014年12月28日 | 心霊現象
皆様、今年も本当にありがとうございました。
ここまで日も押し詰まると、もうじたばたしてもはじまりません。
あるがままに今年を締めくくり、来年を迎えられれば上出来と思って、気忙しそうに暮れてゆく日々を見送っているという有様です。
皆様はいかがでしょうか?・・・。


当方、何の因果か・・・。
職員がここへきてばたばたと風邪をひき、はたまた精神的に?疲れて倒れております。
もうこれ以上は、人数的に継続不可能という一歩手前まで追い込まれております。
その反面「お客さま」は元気いっぱい、ごはんの御代わりまで出るありさま。
あまりの「みごとさ」に息をのむ私でございます。
この現象を、どのように誰が「分析」したらいいのでしょう。
暮れ行く「今年」をつらつら考えながら、私も「この一年」を思い起こしております。
一年の計が元旦にあるとしたら、借金だけはゼロにしておきたいのが人情。
とすれば、今のこの現象はきっと一年間の禊だと私だけは重く受け止めて、事にあたりたく思っております。
さらに付け加えれば、最後の大晦日は私が夜勤を希望いたした次第です。


はたして私の分析通りに答えが出るかは、終わってからのお楽しみ。
多分大晦日までの命だろうと医師が伝える「看取りの御仁」をも含めて、今私のいる環境はまさしく「カウントダウン」に入りましたようで。



どうぞ皆様におかれましても、無事に禊が終わり?、新しい年をお迎えくださるように切にお祈り申し上げております。
来年もまた新たなる縁を結んでくださるよう、心からお願い申し上げます。
体力、気力ともに衰えていく「私め」でございますが、最後の力を振り絞って「邁進」していきたく存じます。

来年1月15日をもって、70歳にあいなりまする。


どうぞ皆様から一切を見届けていただければ本望であれば、この場をお借りして御願い申し上げ奉りまするぅ~。(ちょん・・・拍子木の音なり)

今年書かれた「清水寺の税の字」は、どう解釈したらいいのでしょうねぇ・・・。

では、また。(感謝!)






性同一性障害(今様「リボンの騎士」)を検証す

2014年12月10日 | 心霊現象
朝からすごい問題に挑んでいます。(ふふふ)
いえね、またまたTVでクローズアップしていたものですから、ついつい一言申しあげたくなってね。
またまた「私の悪い癖」が出てしまいました。


これから地上に新しく生まれようとしている「人間」が、整列して待っている。
ここは「天界」だ。
地上に向かって飛んでいくのだ。
新しい命には「男」と「女」の区別が、今まさしくされようとしていた。
一人の人間に天使が近寄った。
「まあ、可愛い!。当然あなたは女の子だわ。はい!女に生まれる神の恵みを与えましょうね」
ひょいと、口から「女」を飲み込ませた。
ところが、この子にはすでに男の子の誕生を約束して整列させられていたのだ。
天使の勝手な判断で、「その子」は地上において「両性」を生きることになる。
そんな天界の事情を知らずに、地上ではある名家の城で出産の真っ最中だ。
国王と妃の最初の子供の誕生で、城の中はもちろんのこと、民も今か今かと待ちわびていた。
産声があがった。玉のような「男の子」が産まれた。
国中に「王子誕生」のふれが流れた。
万歳!、歓喜にわく「その国」に、これから何が起こるかは、神さえもあずかり知らぬことであった。


今からもう何十年も前、漫画家「手塚治虫氏」によって、「リボンの騎士」というヒット作が世に出た。
上記の内容が、その冒頭に記されていた「ことの起こり」であり、ここから物語は展開していくのだ。
「その子」がどうなっていくかは、そっくり「今の性同一性障害」と同じことが現象として現れていく。
漫画の世界だけに、少しは違いちょっとは救いも面白みもあった事を覚えている。


現在日本では、約600人以上がその「性同一性障害」に苦しんでいるという。
医学の世界では、はっきり言って原因が不明である以上、治しようがない。
付け焼刃、あるいは場あたり次第では投薬や手術などが施されているという。
が、その弊害は多々ある。
一番には、「その子」がどう生きたいのかを選択しなければならない。
物心がつくころから「その現象」が現れるという。
小学校に入ってから中学になって、第二次の成長期、つまりはっきりと男女の別が肉体的に顕著に現れる頃。
彼らは「何を思い」、「何をものさし」にして人生のこれからを決めようとするのだろうか・・・?。

先ず「心」が優先される。
身体と逆の思いが現れるという。
男の子なのに、「スカート」がはきたい。
姉の化粧品に手をのばして、実際に化粧をしてみる。
「ままごと」は、いつも母親役をやりたがる等々。
逆もまたある。つまり生まれた体とは別の性が「かまくび」をもたげ始めるのだ。
そして肉体と精神(心)の狭間(違い)で揺れに揺れる、その結果「彼ら」はある日突然に自傷行為に出る。リストカットの次は自殺行為である。


学校側ももはや黙って見過ごすわけにはいかなくなった。
特に歳を召した先生方は、とまどいの色を隠せない。
なぜか?・・・。
私達の時代、少なからず「そんな事」を聞いたことがない。
生まれた「その通り」、その形で親は喜び(反面悲しみ?、長男誕生を願ったのに~)、その形通りに育てたものだった。
ましてや今のように着る物も「よりどりみどり」で自由に何でもあった時代ではなかったから、姉や兄の「お古」を着ては、盆正月が来るのを楽しみにしていたものだった。
なぜか?・・・。
せめて、お盆と正月くらいは、「お古」ではなく、新しい洋服を新調してあげなくては、という「親ごころ」だったのだろう。
今までに誰も手を通したことがない「まっさら」な物が「わたしの物」になる!。
こんなに嬉しいことはなかった。子供心にも、それがよくわかったのだ。
どんなに貧しくても、それをしてくれる親に感謝したものだ。


さて、子供の選択の結果、学校側はいくつかの難問を抱えることになる。
体は違っても、生き方はそのようにしてあげなければならない。
トイレはどうする?
着替えはどうする?
呼び名はどうする?
修学旅行はどうする?
学校生活の一つ一つに、違いからくる問題を検証しなければならなくなる。
そして、最後に残る「生徒間」のとまどいに対する問題を、どう解決に導いてあげるかだ。
生徒が戸惑う前に、まず職員つまり老先生方の「戸惑い」に対処しなければならない。


再び手塚治虫氏に聞きたい。
「あなた」はなぜ「そんな事」を題材にして、少年雑誌や少女雑誌に提起したのでしょう。
ともして「あなた」は、医者という立場からすでに「その症例」をご存じだったのでしょうか・・・?。
それとも、「あの世」を覗いてこられたか?・・・。
いずれにせよ、あなたの「先見の銘」には、すさまじい人智を超えたものがあると、今になって驚かされる私達でもある。
「鉄腕アトム」など、ようやく今世紀になって「その内容」に近づいているという有様ですからね。
そしてあなたは「リボンの騎士」という漫画を通して、人類に何を教え、何を警告したかったのでしょうか?・・・。


さて、性逆転の方法は大きく二つある、と医学界はいう。
一つは性転換手術。
そしていま一つは投薬方法。
しかしいずれも「その副作用」は大きい。
ある日突然に「髭(ひげ)」がのび、またある日気が付けば「精子」が死んでいる。
人間技では計り知れない事が、先に待ちうけていることを肝に銘じなければならない。
では、なぜ「こんな事」が起こりえるのだろうか・・・・。
皆様に問いかける第一弾は、これですね。
最初から「ありえた」のか?。
これも神は予測されて全てを出発されたのか?・・・。
答えは明白。否、否、否!!。
人間の「堕落」の結果に起こった現象以外のなにものでもない。これが結論です。
神のあずかり知らないこと。
人が勝手に犯した罪の結果、自分から巻き起こしたことにほかならない。
ならば自分の撒いた種は、自分で刈れ!・・・、と、こうなります。
「あなたの血統は、過去何をしてきたのですか?・・・」と、こう問われたら、「あなた」は答えられますか?・・・。
「何も知らない、いや知らされない、いや知ろうともしなかった『つけ』が、今この時に現れて、目の前に突き付けられている・・・」

『だめよ~、だめだめ!』などと言ってる場合じゃない。
たかが、インフルエンザのウイルスでさえ(失礼)どんどん変化(変型)して鳥から人へと害を及ぼしかねない昨今、ひとの遺伝子が突然変異も起こしている。
昔なら「この親からは」絶対に生まれないとされていた血液型が、今では「有り得る」時代。
親はいったい何をもって決定し、子供は何をもって断定できるのでしょうねぇ~。

次にあげる文章は、「性同一障害」を検索したときに出てきた「ある説明文」の最後にこう結ばれていたもの。

『私たちには、元々大きな多様性が備わっていて、みんながみんな同じである必要性も特に無いのではないかという事は、充分認識しておきたい事だと思います』

つまり、この世は自由で「何でもあり」でいいのだと言って結論づけているのだ。



「あなた」は、この先の人類をどう思われましょうか?・・・。
もうすぐ「はやぶさ 2号」の記録が入って来はじめます。
今から約46億年前の「人類誕生の秘密」が、本当に明かされるのでしょうか・・・。
いずれにしろ、これから「何」かが終わるのではなく、始まるのかもしれない。
ちなみに、この「性同一性障害」の因となるのは何かと霊能者K氏にさりげなく聞いてみました。
じろりと私を睨み付けた氏は、吐き捨てるように言いました。
『親が悪い!みんな親が原因だよ』と、謎めいた言葉で、あとは沈黙したままでした。
(もう何も聞くな!・・・、どうせ聞いても所詮他人事。当人も本気でやろうともしない。うるさい!)
と、聞こえてきそうな気配でありましたねぇ。
おお、怖!!。

このように霊界も私達を見ながら、一喝しているとしたら~。
もっと、おお怖!!。


「この子」の生き方は、本人の前に他に誰に聞けばいいかは、皆さまにはもうお分かりですよね。
はい、ではまた。


それぞれの「原点」

2014年12月09日 | 心霊現象
「人」にも「職業」にも「生き方」にも、『原点』がきっとあることでしょうね。
先般TVの対談で話しておられたノートルダム清心学園理事長の「渡辺和子氏」がこう言っておられました。
『看護の原点は、「看」の字が示すように温かい手とまなざしであることを、忘れてはいけません』と。
なるほど、手と目がそれも「温かい」ことが施しの原点であるという。
どこかで聞いたような内容だった。それは「無財の七施」の中にあった。
看護は、日本から遠い異国の国から始まった。
ナイチンゲールが「神の声」を聞いて始まったと言われているが・・・。

国を越え、民族を越え、宗教を越えて始まった「人の尊厳」の証が、神からきた技だと思えば、それもまた地球規模で広がる「グローバルスタンダード」の最前線かもしれない。
その精神をもって、あの「マザー・テレサ」もインドの地方で戦った一人だ。
看護は医療を施しながら、身も心も癒すところである。
ならば「介護」は何か?・・・。
何を原点としてその職に携わっているのだろうか・・・。
時々私は「その現状」をみるにつけ、「人の尊厳」が失われ代わりに技量や知識が幅を利かす場所のように錯覚する。
「介護」につきものの「認知症」こそ、人の尊厳を遠くはなれたところへと押しやろうとする。
その人の未来は見えてこない。過去だけがついて廻り、今も追ってくる。
介護には、「治る」などという意識を持つには程遠い部分があることを知る。
そこはもう「墓場」の一歩手前、葬式の一歩手前、遺体安置の一歩手前という暗黙の了解がある。

しかし、中には「卒業する人」がいる。
つまり、車いすから一人で歩ける状態を取り戻す場合がある。機能の回復である。
家族と生活出来るというレベルが、その人をまた「元の場所」へと復活させる。
トイレへ一人で行って用を足す。夜はリハビリパンツやポータブルトイレがあればいい。
さらに紙おむつから布のパンツへと目に見えて生活が元へと戻っていく様は、家族よりも当の本人が驚きでいっぱいになる。
卒業式ならぬ「退所」の日がくる。
しかし、長くはない将来、必ずいつかは体力の機能は完全に失われて「あの世」へと渡っていく。
あたりまえの「人の生」の宿命である。


介護の「みとり」は、どんな字をあてたらいいのかと、私は聞いてみた。
「看取り」か「見取り」か・・・?
二つある。そしていずれも成り立つ。
今一人の人が「死」に向かい合っている。
そう永くはない。一週間以内か?そこらだ、と医師が告げて去った。
家族は介護施設での「みとり」を希望した。
その婦人は、腹水で臨月のようにふくらんだ腹部の苦しさから、時々目をうつろに開き、呼吸が荒くなる。
私はすでに「見取り」の経験があるから、その「気持ちの準備」は出来ている(つもりだ)。
が、初めての経験をこれからしょうという者は、「その日」が自分の泊り(夜勤)に当たらないようにと祈りながら、日々戦々恐々としている。
「みとり」って、どうすればいいんでしょう?。何をすればいいんでしょう?・・・。
と、私に聞く「若者」を前に、私は逆に聞く。
「何」も教えてもらってないの?・・・、と。
施設で「看取り・見取り」をやると公言している以上、その「ノウハウ」は教えておくべきであろう。
その原点はどこにあるのか・・・。
心構えの一つや二つは、しっかりと身に付けさせておくべきである。
「死体」を見ることにさえ慣れていない若い者は、今から腰が引けている。
いや、年を重ねた者でさえ、他人の最期を見取るという行為は、そうめったにあるものではない。
生まれるのも「神秘的」であり人の尊厳を感じるという瞬間であるならば、一生を閉じるその時も、その神秘と尊厳は同じくらい敬虔なものである。
怖くて腰が引けるのではなく、その死を送るにふさわしい看取るあたたかい眼差しと、暖かい手がその遺体となった人に施されるならば、「死にゆく人」も満足であろうかと思われる。
いまわの際に、呼び戻す声や非情に泣き叫ぶ声よりも、静かで厳粛な「想い」を捧げてお見送り出来れば、この上ない一瞬の儀式であろうかと思われる。
金もかけず、医師も居ず、家族さえも立ち会えない「その一瞬」に立ち会う。
最後の「みとりびと」でもあり、最初の「おくりびと」になる「自分」は、この世に「このわたし」たった一人である。
この「奇跡」を、どう解釈するかによって道は見えてくる。

人は生まれた以上死ぬのだ。
その最初と最後が、結びつかない人生はない。
この世は「生まれたら」お宮参りをし、死んだら「葬儀屋」に頼み寺の墓で眠る。
「あなたはどこから来て、どこへ行くのか・・・」・・・、答えられないわけである。
一環していない人の「生」は、結局分からないじまいで終わる。

さあ、あなたの「原点」って、何?・・・。
この世のどこをどう切り取ってみても、答えは無いのではなく、「隠し絵」のように視点をかえれば見えてくるようになっている。
それをいつ、どこで発見し、読み取るかは「あなた」次第である。
近道もあるし、回り道もある。
急がば廻れとは、私は言わない。決して言わない。
私は「もう時間をかけないで」、私の二の舞はやめて、一足飛びに目的地に向かって走れ!と、叫びたい。
そのためにも書いている私ですから・・・。




今年もあとわずかになりました。
12月17日が来ると、思い出します。
「氷川丸の先生」がいなくなった日を。
そして「私」が雪崩に遭って、死に損なった日12月24日を。
誰かが私に言いました。

12月はね、一年間の総決算。つまり「禊払いの月」。
1年で払わないといけないマイナスの事情をなんとかして支払っておいて、新しい年へと向かわせる方法が「これ」。
かぜをひいたり火事にあったり、災難に遭遇したり、運悪く死んだり・・・?。
来年に向かって今年を「禊(みそぐ)」、という日本式の「新年の迎え方」といえば、納得されるだろうか?・・・。

そんなこんなで人生いろいろ、みそぎもいろいろ。
今年の「流行り言葉」も決まったとか。
あとは「清水寺」の住職が書く「漢字」は、何と書かれるのでしょうねぇ。

ちなみに、去年住職が書いた「輪」という字。
今私がいる職場では「輪」が、つまり「人の輪」が全く消えました。
今私は守りに入り、次の闘いに備えているといったところでしょうか・・・。
表向きは満願の笑みを浮かべておうように構えて、心は獲物をねらう鷹のように「さあ、どこからでもかかって来い!って・・・?。
おお、やだやだ。

今年もなぜかきな臭い雰囲気を漂わせて、暮れていくようです。
いえね、私の場合は、ということですから。(はい)
皆様のよき年の瀬を祈りながら・・・。
(心から合掌)