霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

日本の将来の分かれ道?

2013年06月17日 | 心霊現象
日本人口の二分の一が「ガン」である、というニュースを聞いて本当か?と疑った。
もっとも半分は高齢者であれば、さもあらんと納得できる。
ガンだからと、必ず死ぬわけではないから、人口がすぐに減るわけではない。
しかしこの「ガン」は、やはりやっかいな病気であり、死のイメージが強い。
原因はそれぞれに考えられているようであるが、その特効薬が限定されにくい現状を知れば、やはり「ガンの宣告」は、ご遠慮願いたいのが人情である。
私が最近になって通院し始めた「我が主治医?」は、60歳後半になれば「手術をしてまで治さなくていい」と、のたまう。
全ての「ストレス」がガンの原因かといえば、個人差もありいちがいに言えないようだ。

しかし、最近特に日本の将来を危惧せざるを得ない現象に、「認知症」の増加がある。
厚生労働省研究班が調べた新しい推計が出た。
65歳以上のおよそ7人に一人は認知症。その数462万人。
さらに予備軍が400万人いることが判明したという。
予備軍とは、MCI(軽度認知障害)と呼ばれる人のことである。さらにこの予備軍は病院などで適切なケアを受けなければ、5年後には半数が認知症に進むという。


要介護の中味が見直されてゆく昨今、「自分の事は自分で出来る高齢者」が望まれている。
誰だってそうでありたい。が、肉体は歳とともに弱り、錆びつき、「若い」と自負した人でさえ長期入院の噂を耳にする。
さらに高齢者を標的にする「詐欺集団」の台頭?は、何を物語っているのか・・・。
8000万円という現金が、あっと言う間の出来事で消え去る。あの80歳のおばあちゃんは、その後どうするのだろうか~。
この時ほど、「持たざる者の安全」を感謝したことはない。
認知症の高齢者施設で、徘徊を防ぐとしてカギをかけたことが「虐待」にあたるとでた。
私は自分の聞き違いかと疑った。施設でカギを掛けなければ、もう収拾がつかず大事に至ることは目に見える。
認知症の徘徊は、自宅で介護する人には覚えがあると思うが、「大変」の一言に尽きる。
目を離した「スキ」に、姿が消える。
足腰がしっかりした人は、それがかえってうらめしい。どんどん行ってその速さたるや、驚かされる。
まさか、そこまで~、という距離を歩く。
私の母は、常に川の淵を歩いた。
家から逃げ出して?ほっとするのだろうか。ねこじゃらしのような草を手に、鼻歌を歌って歩くらしい。
小さな町で知り合いも多く、運よく警察に通報が入り「パトカー」で送られてくる。
二度や三度のことではない。母はともすれば最期は「水死」の憂き目にあうと、覚悟したこともあった。

この「徘徊」を、街ぐるみで対応したところがある。
福岡県大牟田市では、昨年9月23日、町ぐるみの徘徊模擬訓練を実施した。
モットーは「徘徊させないのではなく、徘徊しても安心な街をつくろう」だった。
昨年は9回目。住民ら1868人が参加する大がかりなものだったという。
市には徘徊対応のネットワークがある。家庭から相談を受けると警察は、市やバス・鉄道会社などにファックスで連絡。年齢性別、服装や立ち寄りそうな場所などを伝え、情報提供を呼びかける。
12万人余りが暮らす市の高齢化率は30%を超す。小中学生に認知症について知ってもらう「絵本教室」の取り組み、支援の核となる認知症コーディネーターなど、「大牟田方式」と呼ばれる官民の支援事業は幅広い。(6月4日 朝日新聞から抜粋)

高齢者、つまり65歳をもってそう呼ぶのであるが、それから「介護保険」が始まる。
昔はそのような制度はないから、家ですべてを対応した。
自分の親は、また自分の身内は自分たちでみる。
これが人の生き方であり、とくに長男の宿命であった。
認知症なんて言葉もないころ。
「あそこのばあさま、ぼけなったそうだのぉ」「そういえば、ここしばらくみてないの~」
それで話は終わり、いずれくる「告別式」の通知をもって「死」を知ることになる。
長男の嫁は、いままでのくらしの中に「介護」が加わる。
人から人へと「いじめ」や「虐待」の話が聞こえ始めるが、嫁の立場をよく知る人達には「あたりまえ」とばかりに歯牙にもかけない。
今は「ぼける」とは、差別用語となってしまったが、言葉や形が変わったところで人の生の営みは、変わりようがない。

日本の今後に襲い掛かる高齢者社会の準備は、何をもってなされているというのか?
国の財か、はたまた組織か仕組みづくりか・・・。


私は時々「楢山節講(ならやまぶしこう)」(姥捨て山)の話が頭をかすめる。
彼らは泣きながら「親」を裏山に捨てに行った。(もちろんそうでない人もいる)
今は親の死体を押入れに隠し、その年金でくらす子さえいる。(そうでない人がほとんどだが)
日本の心は今、高齢者社会を前にして彷徨(さまよ)っている。
若者たちはこの高齢者たちがかつて何をし、何をこの日本にもたらしたのかを知らないで生きてきた。
教える者もいなかったのだろう。
歳だけをとり、こわれた体でうごめく「もの」に、いったいどんな心を寄せようというのか~若者は。


歴史学者「アーノルド・トゥインビー」が言ったという・・・。
その言葉がいつも思い出される。
『その国の将来は?と問われるに、その国の若者を見せよ!』と。


その若者を育(はぐく)んだのは、誰だったのでしょう・・・。
そして、いつ、どのように育んだでしょう・・・。


かつて、霊の事として聞いたことがある。
「あの世」で認知症ってあるんですかねぇ・・・と。
答えはこのように返ってきた。
あくまでも肉体的障害であれば、健康だったところまでの「心霊状態」であの世に留まります。
心が忘れるということはなく、地上で忘れかけていることでさえ、100倍の速さで思い出します。
たとえ外傷として脳に損傷があっても(ダメージをうけても)、それは肉体のこと。
霊に刻まれたものごとは、消えることはありません。そして忘れることもありません。
肉体的障害が出る前に、出来れば「神」「天法」「真理」を知ることです。
認知症になった人の霊体に話しかけ、「人の道」を説くという方法は、まだわたしには未知数です。
出来れば生きているうちに、それも認識可能なうちに、というのがリミットだと申し上げておきます。

と、言われたことを思い出しつつ・・・。