世の中にはいろんな言葉が出現し、流行りはじめる。
今日の言葉、お分かりになるだろうか?。
「合コン」ならぬ「坊コン」。坊主(失礼)と婚活することらしい。
「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」という言葉がある。が、今は「坊主好きなら、袈裟まで大好き」となるそうな。
結婚願望の子女が相手に選ぶのが「坊主(坊さん)」、の世らしい。
今、何かと「寺」を巡るツアーが喜ばれている中で、とりわけ若い修行僧がモテはじめた。
単なる「イケメン」にもそろそろ飽きだしたとき、目の前に現れた「汚れのない?」、「浮世離れした?」男性に、どこか憧れにも似た感情が湧くのは、分からないでもない。
しかし、結婚の相手として選ぶのも「極端」といえば言えなくもないが・・・。
「この世の垢(アカ)」にまみれた「彼女」の行く先は、アカにまみれず、会えば癒しのひと時さえ提供してくれる「若い僧侶」であり、それはまた格別の味を持つらしい。
これもまた週刊誌のネタであれば、なにも目くじらをたてることでもないだろうが。
彼女たちは「お目当て」の男性に目を留め、「デイト」の約束を取り付ける。
第一段階の終わりである。婚活の第一歩が踏み出されたことになる。
さて、その先何が待っているか?・・・。
若い修行僧が「その色香」に負けて堕落するか、さもなくば彼女が修行の「真似事」をすることになる。「寺の住職の奥さん」の椅子のすわり心地は、それほど「楽」な商売ではないと見受けるが。
そしてまた私は思い出す。
「外面如菩薩、内面如夜叉」と私に向かって言った「御仁」のことを。
相手の死によって目の前から無くなった、私の「住職の奥さん」という呼び名は、決して軽い響きではなかったことを思い出す。
相手の人間を見ずに、両親は真っ向から反対した。それが先々「苦労する」ことを常識的に物語っていたというのが理由だった。
ま、人生いろいろ結婚相手もいろいろ。
しかし多分に背後(守護霊や指導霊、背後霊)は、「仏門」に帰依した関係者であろうことはうかがえる。その守護霊や先祖の目は、そう簡単には「縁」を結んでくれるとは思えない。
それこそ「ご縁」があれば、結婚にまで至るだろう。
あとは本人の努力次第である。
が、本人の努力の範囲を超えたものに「願い」があるときは、その先に「不幸」の二文字が見え隠れする。そんなことはなく、なんなく通過する人は、よほどの強い縁、つまり同じ仏門に帰依した同士という「取り合わせ」であり、目には見えないが双方の先祖が、小躍りして喜び、ことほぐ姿さえ見えてくる。
ただ、「彼女」がひと時の「癒し」に酔い、自分の満足のみ満たしたあとは、相手の先祖を巻き込んだ「要求・願い・清算」が嵐となって吹き荒れることは、覚悟していただきたい。
これもまた「ネタ」の一つであるが。
皇太子妃「雅子さま」のことを、かまびすしくのたまう御仁が多い。
つまり次期「国母」として、ふさわしくない、ということらしい。
皇室あるいは王朝、王家に嫁ぐ「妃選び」には、必ず巫女や僧侶や霊能者が呼ばれて「相性」をみるものである。もし見立てを違えたら、その首は飛ぶ。
そのようにして日本も韓国も中国も続いてきた。
目に見えない「世界」、つまり先祖という霊界からの相性をみたのだ。
きっとご多分に漏れず、皇太子妃選びも、かく行われたと思う。
そして国民は狂乱し、熱狂して次の天皇の第一候補者に喝采した。そう「あの時」に。
そして「今」。
ある者は「弟宮」に天皇の座を譲り、公務なしで二人で幸せな生活をなさいませ、と言い。
ある者は、「はたして皇后としての資質はありやなしや」、と雅子妃を今から値踏みする。
ひところ、そうだいぶ古い歌で、たしか相良○○が歌った『二人のため世界はあるの』という流行り
歌があった。それ以来、歌の歌詞の一部である「いいじゃないの、幸せならば」と最後にくくる習慣が世にはびこったことを覚えている。
決して『二人は世界のために』ではない。
世界が二人のためにあるのだ。このダンから言えば、国は二人のためにあり、家族もそうであり、「皇室」も「国民」も二人のためにある、となる。
大なり小なりこの感覚は、確かに一部の人間に深く根付いた嫌いがあることは確かだ。
しかし、生まれた時から決まっている人。将来「天皇」になるべく位置づけられ、宿命でもあり、「帝王学」で固められた毎日を過ごす「お方」に、二人だけの生活のために結婚があるなど、毛ほども思われるはずがない。
雅子妃の先祖、つまり「小和田家」の血統がどうであるかなど、宮内庁のその立場の方が、それこそ「首」を賭けて弾き出した答えであれば、国民はとやかく言ういわれはないと、私などは思う。
週刊誌は見方によっては「意地悪く」、次々の事柄を「あなたに出来るの?」と問うている。
中には、今の皇后さまのように「蚕を飼うこと」も出来るんですかぁ~、などなど。
元来「皇室」は「祈りのところ」だと、まえにも明治天皇のひ孫の方が言っておられたように、第一は国民の安泰と、先祖天照大御神を祈るのが仕事であれば、アイドルのように笑顔をふりまけばいいってものではない。
出来ないことは仕方がないじゃないか。
将来の国母がご病気であれば、その平癒を日々祈る国民(つまり私)であったかを先ず、反省しなければなるまい。
どこから見ても非の打ちどころがない、という勝手な国民の趣向のもとで「お妃」が選ばれるわけではない。
「日ノ本の国」、この国の永遠性からみて「この人」だと決められたはずの「人物」に、三本の矢ならぬ無数の毒矢を放ってはならない。
「子どもが生まれない」と言っては嘆き、公務が続かないといっては批判し・・・、もし妃選びに
日本を見守る「八百万の神々」がその手を貸されていたとすれば、いずれ国民に罰が下るだろう。
「勝手な、我がまま放題の民族よ、あの姿こそ先ず手始めに罰を与えたことだと、どうして悟らない!」
「国民に下す諸々の災禍の前に、まず長たる者を打つ。この仕組みこそあの世の最も高貴なるやり方であることを、今こそ悟るべし」・・・、とね。
かつて明治天皇は、こう御製を詠まれている。
罪あらば 我をとがめよ天津神
民は我が身の生みし子なれば
これが我が日本「皇室」の置かれた立場であり、その在り様でもあるのです。
そして日本は今日まで成り立ち、存続してきたといえる。
さてさて、またまた道が反れそうですね。
まぁ、一時の問題提起と思召して、大目に見てくださいね。
まるで別のものを二つ書いたと思われるでしょうか?。
さにあらず、根本は一つの処に繋がっています。
目に見える世界と見えない世界。この二つの世界によって、宇宙は成り立っている、という真理です。
いつも同じことの繰り返しですが、私には「それ」しか言いようがありません。
どうぞ、あなた様もいかがお思いになるか、ご自分の見解を書き出してみてくださいませ。
これ、つまり自分の思いを書き出す、という行為を続けるとね「新たな自分発見」の時に気付きます。是非騙されたと思って、やってみてください。
(どうせダメもとでも、いいじゃないですか~)
はい、今日はこのへんで・・・。
今日の言葉、お分かりになるだろうか?。
「合コン」ならぬ「坊コン」。坊主(失礼)と婚活することらしい。
「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」という言葉がある。が、今は「坊主好きなら、袈裟まで大好き」となるそうな。
結婚願望の子女が相手に選ぶのが「坊主(坊さん)」、の世らしい。
今、何かと「寺」を巡るツアーが喜ばれている中で、とりわけ若い修行僧がモテはじめた。
単なる「イケメン」にもそろそろ飽きだしたとき、目の前に現れた「汚れのない?」、「浮世離れした?」男性に、どこか憧れにも似た感情が湧くのは、分からないでもない。
しかし、結婚の相手として選ぶのも「極端」といえば言えなくもないが・・・。
「この世の垢(アカ)」にまみれた「彼女」の行く先は、アカにまみれず、会えば癒しのひと時さえ提供してくれる「若い僧侶」であり、それはまた格別の味を持つらしい。
これもまた週刊誌のネタであれば、なにも目くじらをたてることでもないだろうが。
彼女たちは「お目当て」の男性に目を留め、「デイト」の約束を取り付ける。
第一段階の終わりである。婚活の第一歩が踏み出されたことになる。
さて、その先何が待っているか?・・・。
若い修行僧が「その色香」に負けて堕落するか、さもなくば彼女が修行の「真似事」をすることになる。「寺の住職の奥さん」の椅子のすわり心地は、それほど「楽」な商売ではないと見受けるが。
そしてまた私は思い出す。
「外面如菩薩、内面如夜叉」と私に向かって言った「御仁」のことを。
相手の死によって目の前から無くなった、私の「住職の奥さん」という呼び名は、決して軽い響きではなかったことを思い出す。
相手の人間を見ずに、両親は真っ向から反対した。それが先々「苦労する」ことを常識的に物語っていたというのが理由だった。
ま、人生いろいろ結婚相手もいろいろ。
しかし多分に背後(守護霊や指導霊、背後霊)は、「仏門」に帰依した関係者であろうことはうかがえる。その守護霊や先祖の目は、そう簡単には「縁」を結んでくれるとは思えない。
それこそ「ご縁」があれば、結婚にまで至るだろう。
あとは本人の努力次第である。
が、本人の努力の範囲を超えたものに「願い」があるときは、その先に「不幸」の二文字が見え隠れする。そんなことはなく、なんなく通過する人は、よほどの強い縁、つまり同じ仏門に帰依した同士という「取り合わせ」であり、目には見えないが双方の先祖が、小躍りして喜び、ことほぐ姿さえ見えてくる。
ただ、「彼女」がひと時の「癒し」に酔い、自分の満足のみ満たしたあとは、相手の先祖を巻き込んだ「要求・願い・清算」が嵐となって吹き荒れることは、覚悟していただきたい。
これもまた「ネタ」の一つであるが。
皇太子妃「雅子さま」のことを、かまびすしくのたまう御仁が多い。
つまり次期「国母」として、ふさわしくない、ということらしい。
皇室あるいは王朝、王家に嫁ぐ「妃選び」には、必ず巫女や僧侶や霊能者が呼ばれて「相性」をみるものである。もし見立てを違えたら、その首は飛ぶ。
そのようにして日本も韓国も中国も続いてきた。
目に見えない「世界」、つまり先祖という霊界からの相性をみたのだ。
きっとご多分に漏れず、皇太子妃選びも、かく行われたと思う。
そして国民は狂乱し、熱狂して次の天皇の第一候補者に喝采した。そう「あの時」に。
そして「今」。
ある者は「弟宮」に天皇の座を譲り、公務なしで二人で幸せな生活をなさいませ、と言い。
ある者は、「はたして皇后としての資質はありやなしや」、と雅子妃を今から値踏みする。
ひところ、そうだいぶ古い歌で、たしか相良○○が歌った『二人のため世界はあるの』という流行り
歌があった。それ以来、歌の歌詞の一部である「いいじゃないの、幸せならば」と最後にくくる習慣が世にはびこったことを覚えている。
決して『二人は世界のために』ではない。
世界が二人のためにあるのだ。このダンから言えば、国は二人のためにあり、家族もそうであり、「皇室」も「国民」も二人のためにある、となる。
大なり小なりこの感覚は、確かに一部の人間に深く根付いた嫌いがあることは確かだ。
しかし、生まれた時から決まっている人。将来「天皇」になるべく位置づけられ、宿命でもあり、「帝王学」で固められた毎日を過ごす「お方」に、二人だけの生活のために結婚があるなど、毛ほども思われるはずがない。
雅子妃の先祖、つまり「小和田家」の血統がどうであるかなど、宮内庁のその立場の方が、それこそ「首」を賭けて弾き出した答えであれば、国民はとやかく言ういわれはないと、私などは思う。
週刊誌は見方によっては「意地悪く」、次々の事柄を「あなたに出来るの?」と問うている。
中には、今の皇后さまのように「蚕を飼うこと」も出来るんですかぁ~、などなど。
元来「皇室」は「祈りのところ」だと、まえにも明治天皇のひ孫の方が言っておられたように、第一は国民の安泰と、先祖天照大御神を祈るのが仕事であれば、アイドルのように笑顔をふりまけばいいってものではない。
出来ないことは仕方がないじゃないか。
将来の国母がご病気であれば、その平癒を日々祈る国民(つまり私)であったかを先ず、反省しなければなるまい。
どこから見ても非の打ちどころがない、という勝手な国民の趣向のもとで「お妃」が選ばれるわけではない。
「日ノ本の国」、この国の永遠性からみて「この人」だと決められたはずの「人物」に、三本の矢ならぬ無数の毒矢を放ってはならない。
「子どもが生まれない」と言っては嘆き、公務が続かないといっては批判し・・・、もし妃選びに
日本を見守る「八百万の神々」がその手を貸されていたとすれば、いずれ国民に罰が下るだろう。
「勝手な、我がまま放題の民族よ、あの姿こそ先ず手始めに罰を与えたことだと、どうして悟らない!」
「国民に下す諸々の災禍の前に、まず長たる者を打つ。この仕組みこそあの世の最も高貴なるやり方であることを、今こそ悟るべし」・・・、とね。
かつて明治天皇は、こう御製を詠まれている。
罪あらば 我をとがめよ天津神
民は我が身の生みし子なれば
これが我が日本「皇室」の置かれた立場であり、その在り様でもあるのです。
そして日本は今日まで成り立ち、存続してきたといえる。
さてさて、またまた道が反れそうですね。
まぁ、一時の問題提起と思召して、大目に見てくださいね。
まるで別のものを二つ書いたと思われるでしょうか?。
さにあらず、根本は一つの処に繋がっています。
目に見える世界と見えない世界。この二つの世界によって、宇宙は成り立っている、という真理です。
いつも同じことの繰り返しですが、私には「それ」しか言いようがありません。
どうぞ、あなた様もいかがお思いになるか、ご自分の見解を書き出してみてくださいませ。
これ、つまり自分の思いを書き出す、という行為を続けるとね「新たな自分発見」の時に気付きます。是非騙されたと思って、やってみてください。
(どうせダメもとでも、いいじゃないですか~)
はい、今日はこのへんで・・・。