霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

沖縄の人よ!

2013年06月16日 | 心霊現象
「本当ですか?あなた方が中国に帰属したいとは・・・」。

これはつい最近の「今」の話である。
週刊誌「週刊新潮」の記事だったと記憶している。
私達は、いや私は「沖縄」の実態をあまりにも知らな過ぎる。
また、知ろうと努力しなかった自分を感じている。
「オスプレイ」や「辺野古移転問題」など、政治家がやればいいと思っていた。
しかし話半分に聞いても、彼らの実態(むしろ心の実態)は日本にではなく、中国に動いていると?・・・。
彼らが習いたい外国語は英語ではない。中国語だ。
そして海外で働くとしたら「中国」、と若い人は答えるという。
中国語講座がいくつもあり、そこで学ぶ若い人があふれている。
中国語の講師が沖縄へ渡り、語学は言うに及ばず思想の素晴らしさを教えているという。


琉球の国が独立していた頃、言葉や文化はもともと中国だったのですか?(彼らがそう言っている?)
それを日本が奪い、その後第二次大戦を経て琉球は沖縄となり、戦後25年をもってアメリカから日本へと帰還された。
私達は、本当のところ「何も知らされて」いないのかもしれない。
「戦争の犠牲にだけなった」と、彼らはことあるたびに言う。
沖縄を知る機会は、その気になれば学ぶことは容易であるかもしれない。
そしてまた視点を変えてみたら、「日本」の身勝手さが見えてくるのかもしれない。


尖閣諸島に足らず、沖縄も返せという中国の暴言は、歴史の事実に立脚していないと教えられて、私達は枕を高くして寝ている。
が、たとえたかが週刊誌の記事だとしても、一割近い沖縄の人達が日本ではなく中国を希望するとあっては、「まさか!」と絶句するしかない。
週刊誌の記事の最後には、こう書かれて締(し)められていた。
『沖縄のみなさまに告ぐ。チベットやモンゴルと同じことになる。それだけは覚悟されたし』と。

言葉と文化と思想をもって、彼らはたくみに沖縄を手中に入れようと計っている。
人心も少しづつ傾き始めている。


一昨日「芸能」の番組をみた。
坂東玉三郎の「玉三郎・組踊りを舞う」を堪能した。
琉球の国。国王の妹が、その霊力で国王を補佐し、盤石な国造りにいどむという実話らしい。
以前、NHKのTV映画でそのような話が放映されたのを思い出す。
すべてが「琉球の言葉」で語られる。
日本語訳のスーパーを見なければ分からない。
使う言葉の中に、培われてきた文化の中に彼ら「琉球」の魂が宿る。
立地条件だけが先行し、心を置き去りにしたか、切り捨てにしたところからは何も生まれない。
「沖縄」は、そして「琉球」は、今だに私には「異国」であることを思い知る。
「いつも踏みにじられてきた」、という思いの中からは、同国人(日本)としての信頼も愛情も生まれるはずもない。

『からゆきさんたちの墓は、みんな日本に背を向けて立っている』と、衝撃的な言葉で小説を結んだ作家の
心が伝わってきた。『サンダカン八番館』という本の話である。
せめてもの「抵抗心」を形に残して、あの世とやらへ行きたかったのであろう。
その女心が悲しかったのを覚えている。これもまた第二次大戦における「従軍慰安婦」の一つの実態でもある。


何が一番怖いか・・・?
人心の変化である。
それを人は「裏切り」と呼んだり、「寝返り」と言ったりする。
が、そうさせたものは何かを知らなければならない。
また一面、人の心ほど「あて」にならないものはない、という。
昔の城主なども、婚姻が政略的だったことが常であれば、「寝所で寝首をかかれる」可能性は十分あった。
だから心から妻を愛すか、「どうせわたしを騙すなら、騙し続けてほしかった」といわせる日常をおくらなければならなかった。
一国の城主の命(首)は、一族郎党下士に至る文字通り「いのち綱」だったわけだから。


沖縄の人が、まさか中国をねぇ、望むとは・・・、「思えない」と続けたいところであるが、真実はいずれ
結果となって現われるだろう。
人心を失えば、「日本」はすぐさま風前のともしびになるだろう。
「ヒストリー」という歴史だけのチャンネルがある。(無料の時しか見ないが)
そこでこんなことを言っていた。

「ノストラダムスの預言書」も最後のことは書かれてはいない。
が、第三次世界大戦がおこるとしたら、あの「四大文明」のどこかの国から始まる。
これが人類滅亡のシナリオである。そしてそれぞれ「核保有国」となっている・・・と。


もし織田信長が生きていたら・・・、とかケネデー大統領が暗殺されなかったら、とか人は言う。
しかし歴史の事実は残酷にも「真実」以外のなにものでもない。
もし、「イエス」が十字架で死ななかったら・・・。
実は死ななくても、人の心が神から離れていたという事実をもって、人類歴史は次の摂理へと移されていった。
案外歴史の視点は、「神の目」からみた善がこの世に無いことからくる大転換の結果を見せられていることになっているのかもしれない。
例え「人」が死んでも心が残り、それを確実に受け継ぎ次へ繋げる形さえあれば、決してこの世もあの世も、そして「沖縄」も日本も手の出しようがない、と知る。

私は「沖縄料理」を一度だけ食べたことがある。
その中で食べられなかったもの、それが「ゴーヤ」だ。そして、今でも真似て作っているお気に入りの「献立」が炒めソーメンである。
「ちゅらさん」。たった一つ覚えた沖縄語?。

沖縄の人よ!
待っていろよ~。
少し遅かったけど、「琉球王朝」を網羅して学びつくすまで、時間をください!!

そして沖縄にしか生息していない鳥や獣まで、みーんな待っててね~・・・。


今思い出す事が一つある。
「わたしは体が弱いけど、琉球の歌を歌っています。自分でいうのもなんだけど、
 わたしは『琉球の歌姫』なんです。
 たまに体調がいいときにライブをやっているから、是非聞きにきてくださいね・・・」
と、私を誘った人がいた事を忘れていた。

なんてことだ!
私は、「沖縄」が私を呼んでいたのに・・・、「いずれ」と言って行かないままでいた。
歌姫は私にどんな歌を、どんなふうに歌って聞かせたかったのだろうか・・・。

今思い出して、さっそく連絡をとろうかと。
だからこれで終わりにします。ごめんあそばせ~。
沖縄~、歌姫~、待ってて!