霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

孔子が示す「人の道」とは

2015年03月08日 | 心霊現象
最近私は、自分が変わったことに気が付く。
それは理論や理屈ではなく、「情」に動く自分にである。
一頃の私からは、考えられない事だ。
それはある意味、最も危険なことであるからだ。
だから私は先ず、頭に理論つまり「道理」を叩き込み、湧き出る情を封印してきたといっても過言ではない。
先ず「真理」であり、「天法」だった。
罪深い愚かな我が情など、くそくらえだ・・・と。
それよりももっと「天」に近い「親の言い分」に耳を傾けよとばかりに生きようと、「信仰」という私には最も似合わない、無理ともいえる分野に足を入れ、身に付けようともがき務めた日々であった。
そして、50年ちかく経った今・・・。
この私の心に湧き出る「情」こそが、今の私の人生の「道連れ」となって現在がある。

今聞いたことに反応し、今見たことに私の五感が「総毛立つ」。
歓びも悲しみも怒りも、なぜか今が一番強く露わになった感がある。
(ん?、あの世が近いか?・・・)
そう思って日々を送っている。


今日の題で示すことは、あの「論語」という中で示された「人の道」。
つまり「人としての到達点」の事である。
元(もと)は中国からのものであるが、日本人の我々でさえ知っている。
そして「それ」がある意味をもって、「人として行き着く道」と説明付けられ、目標であるかのように常に自分の前にあるとき。
本当にそうだろうか?・・・、という疑問が湧く。
先ず、その論語とは・・・。
おなじみの内容を少し書いてみる。


『子曰く 吾十有五にして学に志す 三十にして立つ 四十にして惑わず

 五十にして天命を知る 六十にして耳従う 

 七十にして心の欲する所従えども矩(のり)を踰(こ)えず   』


つまりこういう意味らしい。
「三十才で学問の基礎ができて自立でき
 四十才になり迷うことがなくなり
 五十才には天から与えられた使命を知り
 六十才で人のことばに素直に耳を傾けることができる
 七十才で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなくなった 」
と。


私なぞ、はるか昔に習ったことだから何の疑問も持たなかった。
が、今ここで再び耳にすると、「おや?」と思う気持ちがおさえられない。
本当にそうか?・・・。
「この人」は、幾つまで生きるつもりだろうか・・・。
人が「成人」となるのは、肉体からみても精神からみても『二十歳』か『二十一』である。
つまり「人として則を越えず」という領域まで辿りつかなければならないのが、神が与えた人の生きるうえでの成長過程である。
そうして男であり女であるそれぞれの「木」となって結婚し、家庭を成し産み増えていく。
「思うままに生きても、何一つ道に外れることがない」という領域こそ「成人」の領域であった。
その年齢が「七十才」では、すでに手遅れとなる。
(なぜ?、その後に結婚や出産が待っているのが、神が人に与えた人生の成長過程であった)
また天命を知ることは、人にとって必須の内容であり成人となる条件の一つであった。
天から与えられた使命、あるいは天性、あるいは天稟(てんぴん)は、若いうちに悟らなければ、その後の方向、つまり人生に狂いを生じることは必至である。(これもまた早いうちが求められる)
四十才にして迷わず?・・・。
最も良い方向を選び出すための「迷い」は、当然出てくる。
何が一番「神(親)」の願いかをひねり出す子供の真剣さに、親は目を細めるだろう。
これは迷いとはいわない。最善を捧げる努力の域にはいる。
迷いとは善と悪に揺れ、自分の為には何がいいかを計る「邪念」から出る心の「ふれ」である。
となれば、「そのふり幅」が小さくなっていく人生経験の時間の長さからくる知恵とでもいったものに置き換えたほうがいい。

さてさて、一人の人間が「成人」になるのがこれほど難しくなったのは、「道」を親によってふさがれたからでもある。
また、探せば辿りつけたものを、「いらない!」と撥ね付けたからでもある。
生まれた時から死ぬまで、いや死んでもなおその後でさえ「迷い続ける運命(宿命)」を知らなければならない。



今私は、光が当たれば当然現れる影のように、事に当たって「瞬時」に心に湧く「感情」がある。
そして「その感情」を分析するのが日課となっている。
「それ」はどこから出てくる「情」なのか・・・。
「あの世」のある部分を投影するかのような「反応体」となってのことか、それとも私の人生で少しばかり学んだ「その実り」からくる「情」なのか・・・。

あの世の試験(テスト)は、紙で問われる答案用紙はありません。
「その事」に反応して瞬時に現れる「わたしの心模様」であれば、隠しようもなく言い訳も通用せず、己の正体をそのまま相手に見せてしまう瞬間の連続の中で生きていくこと、それが「霊界」なのでしょう。

ここまできて霊界の在り様を少しばかり学んできた私達には、「どうしたらあの世の住人」にすんなりとなれるのかが今一番、それも早急に学ばなければならない事柄ではないでしょうか?。


山口百恵が歌う「プレイバック・パートⅡ」?の歌詞。

♪ いったい何を教わってきたの~ わたしやっぱり疲れるわ~

ってなことにならないように、気を付けましょう。



70歳になってしみじみ思う日々ですから、ついついこんなことを書いてしまいました。
70歳になって、例え神の思召す域に到達しても、「もうすでに遅い!」ということです。
そして、「いったい何を教わってきた!」と一喝されるのがオチでしょうねぇ~。
時間は止まりません。
「光陰矢のごとし」です。
若い人も年寄も、この世に一つしかない自分の天性を見い出しながら、人生を全うしてくださいませ。
そして、その背後に「たむろする」守護霊をはじめとする先祖の霊達にいつも見つめられていることを忘れないでお励みくださいませ~。


目の前にたむろする(失礼)お年寄りを見ながら、いつも思うことでもあります。

  
    


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